第57話:高瀬 彩花
成田へ向かう由佳の後ろ姿を、私はあえて遠くから見送った。
「一緒に来なくていいの?」と聞かれたとき、私は笑って首を振った。
――いいの。
由佳がいるなら、それで十分。
私が隣に立つ必要なんて、もうない。
かつて私は、彼の隣を必死に望んでいた。
でも今は違う。
彼の未来を本気で支えていけるのは由佳だと、もう分かっている。
由佳が彼の腕をつかみ、彼の手を握り、これからの道を共に歩くなら、それでいい。
私はその姿を見届けられれば、それで満足だ。
それよりも、今の私の目は美沙に向いていた。
※※※
廊下で彼女を見かけたのは午後のことだった。
社内のざわめきからわずかに外れた静かな一角で、美沙はまるで糸が切れた人形のように歩いていた。
かつて営業の花形と呼ばれた彼女の気配はそこにはなく、頬はこけ、目の下には濃い隈が刻まれていた。
足取りはふらつき、歩くたびに今にも倒れてしまいそうに見えた。
あまりの変わり様に、私は思わず足を止めた。
――これが、同じ美沙なのだろうか。
秀介と家庭を築き、かつて自信に満ちて笑っていた彼女の面影は、もうどこにもなかった。
そんな美沙に、佐藤が近づいた。
彼の顔には、奇妙な気遣いの色が浮かんでいた。
「……美沙。大丈夫か?」
その声は低く、抑えた響きを帯びていた。
しかし、その瞬間、美沙の表情が変わった。
それはまるで押さえつけられていた感情が一気に弾けたような顔だった。
「――来ないで!」
声が廊下に響いた。
その鋭さに、通りすがりの社員たちが驚き、振り返る。
美沙の声は震えながらも、怒りと嫌悪で満ちていた。
「全部……全部あなたのせいじゃない! 私の人生も、秀介の人生も……全部! どうして!……もう絶対に許さない」
佐藤は一歩退き、目を見開いた。
普段は余裕を崩さない彼が、言葉を失っているのが分かった。
周囲にいた社員たちもざわめきを止め、息を呑んでいる。
私は少し離れたところからその場面を見ていた。
胸の奥に、複雑な感情が渦巻いていた。
――そうね、美沙。
あなたの言う通り、佐藤局長は確かにこの破局の引き金になったかもね。
でも同時に、あなた自身が選んだ瞬間があったことも、否定できないでしょ。
名古屋のあの夜、あなたは自分で一線を越えかけた。
それを止めたのは、偶然にも沙奈ちゃんの電話だっただけ。
「……美沙」
心の中で呟いた。
あなたは被害者でもあり、加害者でもあるの。
それを受け止めない限り、この先も立ち直ることはできないよ。
私たち、私と由佳はずっと信じていたもの。
いつか私たちの秀介が還ってきてくれると。
それを信じる事ができなかったあなたがすごく不憫。
佐藤は唇を動かしたが、結局何も言えなかった。
ただ美沙を見つめ、気まずそうにその場を離れていった。
廊下に残された美沙の肩が小刻みに震えていた。
その震えは、怒りというよりも、自分自身を責める震えのように私には見えた。
「全部……あなたのせい」――その言葉には、きっと自分自身への嫌悪も含まれている。
私はしばらくその場に立ち尽くし、目を閉じた。
由佳と秀介の未来を思うと嬉しい。
でも、美沙のこの姿を見ると、同じ女性として胸が痛むのはどうしてだろう。
――美沙は、立ち直れるのだろうか。
それとも、このまま崩れていくだけなのだろうか。
私には答えが出せなかった。
ただ一つ確かなのは、秀介が選んだ未来には、もう美沙の姿はないということだった。
でもね、美沙。全部自業自得だよ。
こんな下劣な奴らしかいない広告代理店で、
時代を動かしているという錯覚に浮揚していた。
あなたの旦那さんだった人はそれを変えられる力を持っている。
でもそれをあなたは気付けなかった。
私はずっと、もうずっとあなたが秀介の妻である事に納得していなかった。
由佳か、そうでないなら私だと思っていたの。
だから可哀想だと思うけれど、でもこれで良かったという思いが消えない。
あなたを心配するのは、それを秀介が望んでいるからだけ。
だからもう二度と秀介を邪魔しないで欲しい。




