第55話:大田 美沙
自宅の筈なのにまるでどこか別の家のように他人行儀な家。
玄関の鍵を開ける私の手はもうずっと震えていた。
――帰ってきているかもしれない。まだ間に合うかもしれない。
そんな一縷の望みを抱いて扉を開けたが、飛び込んできたのは、あまりにも冷たい沈黙だった。
リビングに足を踏み入れた瞬間、心臓が鷲掴みにされたように止まった。
テーブルの上に整然と並べられたもの――離婚届。白い紙の冷たさが遠目にも突き刺さる。
その横には、一枚の封筒。そして、数枚の写真。
「……いや……いやだ」
声にならない声が漏れた。
恐る恐る写真を手に取った。
そこに映っていたのは、若い日の自分と佐藤だった。
――入社して間もない頃、研修帰りに皆で撮った記念写真。
笑顔を浮かべ、肩が触れ合うほどに並んでいる。
もう一枚。
名古屋の出張での写真。街灯に照らされた中で佐藤と並んで立っている。
その光景を私は記憶の奥底に押し込めていた。
「……どうして、これを……」
写真が震える。手から滑り落ちそうになる。
涙で霞む視界のまま、封筒を開いた。便箋が一枚、きちんと折り畳まれて入っている。
秀介の、几帳面な字が目に飛び込んできた。
――美沙へ。
そこから先を読むのが怖かった。
けれど、目は勝手に文字を追ってしまった。
《今までありがとう。
君が佐藤さんと笑っている写真を見て、やっと分かった。
君はずっと苦しかったんだろう。オレももっと早くに気づいてあげられていれば良かった。オレはずっと気づいてあげられなかった。本当にすまない。
君が孤独を埋めようとしていたことを、オレは責められない。
だから、もう君はもう自由になっていいんだ。》
「……ちがう」
唇が震えた。
「違うの、秀介……そんなことじゃない……!」
文字が滲む。便箋を強く握りしめ、続きを読んだ。
《オレは家族を支える為に仕事に就いた時、きっともう今みたいになってしまっていたのだろう。本当は、オレは研究者になりたかった。でもその夢が叶わなくなった時、オレは一度死んでいたのかも知れない。
―これからもう一度、オレはオレである為に何が出来るかを考えていくつもりだ。
しばらく、少し遠くに行くかも知れない。
少ないけれど、残した預金は沙奈のために使ってほしい。
彼女の笑顔だけが、オレの唯一の救いだから。
迷惑だけを君にかけてしまった。本当にすまない。》
頭の奥がしびれるようだった。
「遠くに……行く? どこに?」
問いかけても、返事はない。
便箋の最後の一文が、心臓に杭を打ち込んだ。
《どうか幸せになってください。
佐藤さんとでも、それが難しいなら誰でもいい。
オレよりも、君を幸せにできる誰かと。
本当に君を幸せにしたかった。君とそれから沙奈と。
本当にすまない。赦して欲しい。》
「――っ!」
膝から崩れ落ちた。
便箋が床に散らばり、離婚届も写真も一緒に舞い落ちる。
「ちがうよ……ちがうの、全然ちがうの秀介……!」
声が掠れて叫びになった。
「そんなの、そんなの望んでない! 私が欲しいのはあなたなの! あなたと一緒にいることなの!」
嗚咽が堰を切ったように溢れ出す。
床に手をつき、涙でぐしゃぐしゃになった写真と離婚届を必死にかき集める。
けれど、紙は涙で滲み、破けそうになっていた。
頭の中に走馬灯のように記憶が蘇る。
――初めて一緒に歩いた帰り道。
――ささやかな結婚式。
――沙奈を抱いたときの秀介の、不器用で優しい笑顔。
「私は……私はあなたを愛してる! ずっと、ずっと……! 佐藤なんかじゃない! あなたしかいないの!」
叫んでも、返事はない。
静まり返った部屋に、自分の泣き声だけが響いた。
息ができない。胸が痛い。
まるで世界から切り離されてしまったような孤独。
「お願い……戻ってきて……秀介……」
嗚咽に潰れた声が、誰に届くこともなく虚空に溶けた。
私はその場に崩れ落ち、子どものように泣き続けた。
涙で床が濡れ、震える手でそれを拭っても止まらない。
心臓が引き裂かれてしまったかのように、泣き叫ぶことしかできなかった。




