第54話:大田 美沙
副社長室を飛び出した私は、足元がふらついていた。
――行ってしまった。
頭の中でその言葉だけが繰り返し響き、思考がまとまらなかった。
とにかく、誰かに。母に。
震える手でスマホを操作し、実家に電話をかけた。
「……もしもし、お母さん……」
受話口の向こうから返ってきた母の声は、ためらいを含んでいた。
「……美沙。さっきね、秀介さんが来たのよ。沙奈に、お別れの挨拶をしていったわ」
息が詰まった。
「どうして……?」
膝から力が抜けそうになる。
お別れの挨拶――。どうして、そんな事、私は全く認めていないのに。
「お母さん……どうして……」
声が震え、涙が止まらなかった。
「沙奈の親権のことしかお母さんは言わなかったけれど、沙奈をよろしくお願いしますって言っていたわ。どうしてあんな立派な旦那さんなのに、あなたは……」
母が泣いているのが分かった。
そして電話越しに沙奈が泣いている声が聞こえた。
※※※
ふらつきながら廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。
「美沙……」
――佐藤。
振り返ると、心配そうな顔を装った佐藤がそこにいた。
その顔を見た瞬間、胸の奥から込み上げてきたものを抑えきれなかった。
「……もう、あなたと話すことなんてありません」
声が震えた。
「全部、全部……あなたのせいです!」
佐藤が何か言い返そうとしたが、私は遮った。
「早退します」
それだけ言い捨て、ロビーに向かった。
※※※
タクシーの後部座席に身を沈める。
窓の外の景色が流れていく。
――全部、誤解なんだ。これは悪い夢だ。そうに違いない。
嗚咽が止まらなかった。
伝えていない、一番大切なことを。
「あなたの子どもがお腹の中に宿っている」――その言葉を、私はまだ秀介に伝えていない。伝える機会すらもらえなかった。
どうして、どうしてこんなことに。
タクシーの運転手がちらりとバックミラーで私を見た。
私は顔を覆い、声を殺して泣き続けた。
※※※
電報堂デジタルのオフィスに入ると、空気が一瞬で変わった。
凍てつくような視線。嫌悪と敵意。
社員たちの目が、一斉に私に突き刺さった。
奥から長谷部社長が出てきた。
普段は寡黙で温厚なはずの彼が、今は顔を真っ赤にしていた。
「……もう、あんたに話すことなんか無いよ」
吐き捨てるように言った。
「オレはな、コレでも温厚な方だと自認しているんだ。でもな、こんな酷い事があるか?……もう、これ以上オレを怒らせないでくれ。さっさとここから出ていってくれ」
言葉を失った。
視界が揺れる。
すると、すぐ横から鋭い声が飛んだ。
秀介の片腕だった女性社員――いつも彼の傍で支えてきた才媛が、冷ややかに私を見下ろした。
「秀介さんのたった一つの誤りはね――こんな女を嫁にしたことよ。私だったら一生大切にしたのにな」
笑いすら含んだ声音に、心臓が握り潰されるような痛みを覚えた。
だが、もうそんな言葉に耳を傾けている余裕はなかった。
頭の中を支配しているのはただ一つ――。
秀介はどこ?秀介はどこにいるの?
涙で視界を滲ませながら、オフィスを飛び出した。
向かう先は、もう一つしかなかった。
――自宅。
そこに、彼がいると信じて。




