表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/98

第54話:大田 美沙

 副社長室を飛び出した私は、足元がふらついていた。

 ――行ってしまった。

 頭の中でその言葉だけが繰り返し響き、思考がまとまらなかった。


 とにかく、誰かに。母に。

 震える手でスマホを操作し、実家に電話をかけた。


 「……もしもし、お母さん……」


 受話口の向こうから返ってきた母の声は、ためらいを含んでいた。

 「……美沙。さっきね、秀介さんが来たのよ。沙奈に、お別れの挨拶をしていったわ」


 息が詰まった。

 「どうして……?」

 膝から力が抜けそうになる。

 お別れの挨拶――。どうして、そんな事、私は全く認めていないのに。


 「お母さん……どうして……」

 声が震え、涙が止まらなかった。

 「沙奈の親権のことしかお母さんは言わなかったけれど、沙奈をよろしくお願いしますって言っていたわ。どうしてあんな立派な旦那さんなのに、あなたは……」

 母が泣いているのが分かった。

 そして電話越しに沙奈が泣いている声が聞こえた。


 ※※※


 ふらつきながら廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。

 「美沙……」

 ――佐藤。


 振り返ると、心配そうな顔を装った佐藤がそこにいた。

 その顔を見た瞬間、胸の奥から込み上げてきたものを抑えきれなかった。


 「……もう、あなたと話すことなんてありません」

 声が震えた。

 「全部、全部……あなたのせいです!」


 佐藤が何か言い返そうとしたが、私は遮った。

 「早退します」


 それだけ言い捨て、ロビーに向かった。


 ※※※


 タクシーの後部座席に身を沈める。

 窓の外の景色が流れていく。

 ――全部、誤解なんだ。これは悪い夢だ。そうに違いない。

 嗚咽が止まらなかった。

 伝えていない、一番大切なことを。

 「あなたの子どもがお腹の中に宿っている」――その言葉を、私はまだ秀介に伝えていない。伝える機会すらもらえなかった。

 どうして、どうしてこんなことに。


 タクシーの運転手がちらりとバックミラーで私を見た。

 私は顔を覆い、声を殺して泣き続けた。


 ※※※


 電報堂デジタルのオフィスに入ると、空気が一瞬で変わった。

 凍てつくような視線。嫌悪と敵意。

 社員たちの目が、一斉に私に突き刺さった。


 奥から長谷部社長が出てきた。

 普段は寡黙で温厚なはずの彼が、今は顔を真っ赤にしていた。

 「……もう、あんたに話すことなんか無いよ」

 吐き捨てるように言った。

 「オレはな、コレでも温厚な方だと自認しているんだ。でもな、こんな酷い事があるか?……もう、これ以上オレを怒らせないでくれ。さっさとここから出ていってくれ」


 言葉を失った。

 視界が揺れる。


 すると、すぐ横から鋭い声が飛んだ。

 秀介の片腕だった女性社員――いつも彼の傍で支えてきた才媛が、冷ややかに私を見下ろした。

 「秀介さんのたった一つの誤りはね――こんな女を嫁にしたことよ。私だったら一生大切にしたのにな」


 笑いすら含んだ声音に、心臓が握り潰されるような痛みを覚えた。

 だが、もうそんな言葉に耳を傾けている余裕はなかった。


 頭の中を支配しているのはただ一つ――。

 秀介はどこ?秀介はどこにいるの?


 涙で視界を滲ませながら、オフィスを飛び出した。

 向かう先は、もう一つしかなかった。

 ――自宅。

 そこに、彼がいると信じて。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ