第51話:大田 秀介
電報堂デジタルのオフィスに足を踏み入れた瞬間、少しだけ申し訳ない思いがオレの中で広がった。オレはもちろん今回のこの着地のさせ方がベストだと考えて、そしてそれを実行したのだ。しかし同時にそれは、電報堂本体の横柄さを結果的に助長するようなものでもあるのは否定できない。
ここでの日々、仲間たちとの時間、積み重ねた案件の数々――そのすべてに対して、どういう理由であれ、泥を塗るような行為になってしまった事について、申し訳ない思いは間違いなくオレの中にはあるのだ。
社長室のドアをノックすると、鋭い声が返ってきた。
「入れ」
長谷部源蔵は机の前に仁王立ちし、険しい表情でこちらを見据えていた。
当然、もう社長は本体での裁定については聞いているのだろう。
オレは深く頭を下げ、封筒を差し出した。
「本当に、申し訳ありません。……本日をもって、退職させていただきたく、よろしくご受理ください」
「何を言っている!」
長谷部の怒声が炸裂した。
「ふざけるな、大田。あの裁定がどういう意味を持っているか、分かっているのか? 本体の連中が自分たちの都合で幕引きを図り、お前がその犠牲になるなど、オレが認められるとでも思うのか!」
オレは黙って頭を下げ続けた。
「お前はな……」
長谷部の拳が机を叩いた。
「デジタルにとって最後の頼み綱だったんだ。栗田自動車の件でお前の実力は誰の目にも明らかになった。本体が子会社、子会社と見下す中で、お前の仕事ぶりは、ここの誇りそのものだったんだ。それを、自分であんな始末のつけ方をしおって!」
オレがそういう位置づけ―頼み網であったり、誇りであったり―と認識した事などなかった。だが――。
「……申し訳ありません。グループ全体の事も考えて、自分の責任おいて決定した事です。……お許しください」
長谷部は顔を歪め、椅子に沈み込んだ。
「……馬鹿者が」
その声は怒りよりも、悲しみに近かった。
※※※
退職の知らせは瞬く間にフロアに広がった。
デスクの前に立つと、後輩たち、同僚たちが次々に集まってきた。
そんなに荷物を置かない主義だったが、それでも片付けるものくらいはある。
そんなオレの周囲に人垣が出来ていた。
「大田さん……本当に、辞めるんですか?」
「信じられません……」
涙を浮かべる者もいた。嗚咽をこらえきれない者もいた。
「大田さんがいなかったら、僕たち……」
言葉は途切れ、肩を震わせた。
オレは一人ひとりに視線を合わせ、ただ「ありがとう」とだけ繰り返した。
胸の奥が熱くなり、声が震えそうになるのを必死に堪えた。
「処理屋」と言われて、もうマシーンのように対応してきただけの日々だったようにも思うが、今この時に、そんなオレを惜しんでくれる仲間達に、逆に申し訳ない気持ちが湧いてきたのだ。
※※※
そこへ、受付から案内された一人の女性が姿を現した。
「失礼します……」
――高岡香里。
彼女は電報堂本体の営業局に所属し、特にインターネット広告案件や、インターネットを活用するキャンペーン案件等で何度も苦楽を共にしてきた。
彩花の後輩で、直接その下にいる訳ではないらしいが、よくアドバイスを貰っているとも聞いていた。
「大田さん……」
彼女の瞳が大きく揺れた。
「御相談したいことがあって伺ったのですが……まさか、退職だなんて」
その瞬間、周囲の空気が冷えた。
デジタルの社員たちが険しい表情で香里を睨んだ。
「今さら何があるって言うんですかね?」
「本体のご立派な営業局員様が、何用でしょうか」
その声は刃のようだった。香里は一歩後ずさり、唇を噛んだ。
「やめろ」
オレは声を張った。
「香里さんとは、何度も一緒に仕事をしてきたし、逆にオレの方も随分と助けてもらった。……責めるのは筋違いだ」
静まり返るフロア。
オレは香里に向き直った。
「申し訳ない。諸事情あって、オレは本日限りで退職させてもらいます。後任はすぐに決まると思ますので、改めて案件については御相談ください」
香里の目に涙が光った。
「……本当に、辞められてしまうんですか?」
オレは頷いた。
「ええ。ここでのオレの仕事は、どうやらもう終わったようです」
段ボールに全ての荷物を詰め終えたので、配送を手配する。
もう自宅には送れない。送るつもりはない。既に自宅は―もうオレの自宅と言い得るかどうか自体曖昧だが―片付けておいてある。
だから実家への配送を指定しておいた。あとは母と妹がオレの昔の部屋にでも置いておいてくれれば良い。
オフィスを出る時、大勢が見送りに出てきてくれた。
「本当に今までお世話になりました。ありがとうございました」
深々と一礼して、振り向かずにオレは歩き始めた。




