第48話:大田 秀介
夜、スマホを握る手が震えていた。
だが、それは迷いからではなかった。むしろ決意の証だった。
「……お義父さんでしょうか。秀介です」
受話口の向こうで、愛川正則の落ち着いた声が応じる。
「どうした」
「明日、会社にお伺いさせていただきます。大変恐縮ですが――コンプライアンス委員会の中心メンバーの方々、そして佐藤さんと、一緒にお話できる場を設けていただけませんでしょうか」
一瞬の沈黙。
「……承知した。だが、何を言おうとしているのかな?」
「明日、直接お伝えします」
それ以上は言わなかった。言えば、揺らぐ気がしたからだ。
※※※
翌日。
電報堂本社の重厚なエントランスをくぐると、空気が重たくのしかかってきた。
社員の視線が一瞬こちらをかすめては、すぐに逸らされる。噂はすでに社内全体に広まっているのだろう。
案内された会議室。
長い楕円形のテーブルの正面に、コンプライアンス委員長が座っていた。周囲には法務、人事、広報の幹部たち。
その一角には佐藤の姿もあり、腕を組み、あくまで余裕を装った表情を浮かべていた。
奥には義父――副社長の愛川正則。険しい顔でこちらを見ている。
「大田さん」
委員長が口を開いた。
「何か重要なお話があると副社長から伺っていますが、どんなことですか?」
オレは深く頭を下げ、静かに言葉を整えた。
「……そもそも、一連のトラブルは、私の対応にこそ問題がありました」
ざわめきが走る。
オレは続けた。
「暴力沙汰というのは、当事者間における些細な誤解に過ぎません。腕が滑った――その程度のものでした。にもかかわらず、ここまで大きな騒ぎとなってしまったのは、すべて私の不徳の致すところです」
「何を言うんだ」
義父が驚きに声を荒げた。
「証言だって複数あるんだぞ。誤解などと――」
「いいえ」
オレは遮った。
「この上は、私がすべての責任を負います。本日これから出社し、退職届を提出いたします。どうか、この件についてはこれ以上無用の混乱を避け、トラブルの当事者となった皆様についても、寛大なご処分にとどめていただきますようお願い申し上げます」
会議室が静まり返った。
その沈黙を破ったのは、オレの言葉だった。
「佐藤局長」
オレは正面を向いた。
「ご家庭がすでにあると伺っています。ですが――どうか美沙のことを、考えていただきたい。それだけを、お願いします」
深く、深く頭を下げた。
息をのむ気配。
「いや……君はどうするんだ?」
佐藤も流石に唖然とした表情だ。
「私の今後について、あなたにとやかく心配される筋合いなどありません。―ただ、美沙はそうはいきません。ですからこうやってお願いしています」
それだけはオレとして言っておきたかった。
呆然とする佐藤をそのままに、委員長がゆっくりと言った。
「……そうですか。大田さん。組織人として、電報堂グループの一員として、この混乱を収拾する上で誠に立派なご判断だと思います。……ついては、あなたのご意向に最大限沿うよう、本件処理については進めようと思います」
「待ってくれ!」
義父が机を叩いた。
「こんな解決方法は、私は認められない!」
だが、誰も彼を支えなかった。
人事、法務、広報、委員長――その目には、明らかに安堵の色が浮かんでいた。
「これでキレイに幕引きができる」
彼らの本音は、透けて見えるほど明らかだった。
義父はなおも声を荒げようとしたが、その声は場の空気に呑まれ、行き場を失った。
オレはただ、深く息を吸い、背筋を伸ばした。
――すべてを被って、さっさと幕引きする。それで佐藤もお咎めがなくなる。それで美沙が幸せになってくれれば、それで良い。こんな事しか出来なかったが、それでも少しでもそれが美沙と、それから沙奈を守った事になるなら安いものだろう。
会議室を出た瞬間、冷たい廊下の空気が肌を刺した。
けれど、その冷たさは不思議と心地よかった。
自分で選び、自分の言葉で責任を背負う。
それが、久しぶりの本当の「オレ」自身だった。




