第45話:街丘 由佳
夜の帳が下りかけた頃、スマホが震えた。
表示された名前を見て、思わず胸が高鳴った。――秀介。
「……由佳か?」
受話口から聞こえる声は落ち着いていて、それでいてどこか遠い。
「随分心配をかけたな。……今日向こうの実家に行ってきたが、美沙とは、……別れるつもりだ」
あまりにあっさりと告げられ、私は言葉を失った。
「……え?」
「でも、彼女にはもう少し時間が必要だと思う。だからすぐじゃない。今はただ……そう決めているだけだ」
あまりにも淡白に語るその声に、驚きと同時に戸惑いが胸に広がった。
「オレはあまりにも酷い夫だったよ。美沙と本当に向き合う事を全然出来なかった。いや、そもそもオレ自身とも」
「だって、それは……」
「いや、もちろん、それはオレも分かっている。状況がそうしてきた部分はある。でもいろいろ理由をつけて、外に対してまるで仮面で接するようにして、いつしかオレの内面なんて何もないようなそんな下らないヤツにオレはなっていた」
「秀介……そんな事ない、そんな事ないよ。そんな哀しい事言わないで」
「違うんだ。由佳。そうじゃなくて、やっとオレはオレとして再出発する覚悟が出来たんだ」
確かに、秀介の声が何か違う。いや、違うんじゃない。そうじゃなくて、昔の……。
「由佳、それに彩花にも、オレはずっと酷い、不誠実な接し方だった。……本当に済まない」
「ううん。……そんな事ない。大丈夫。分かっているから。彩花も私も分かっているから」
嗚咽が止まらなくなった。
だがそれと同時に、私は数日前に健太から聞いた話を思い出していた。
――秀介がかつて取り組んでいた研究。
当時の計算資源では到底形にならなかった「汎用性の高い対話型モデルの概念」。
処理速度も、データ規模も足りず、論文の片隅で埋もれていったアイデア。
けれど健太は気づいていた。
「……今のAgentic AI、自律駆動型のAI Agentの発想に近いんだよ。もしあの頃の秀介のモデルを、今の大型LLMの上で動かしたら――全然違うものになるはずだ」
熱っぽくそう語った健太の声を、私は鮮明に思い出していた。
もしかしたら。
秀介がもう一度、自分の人生を生き直す道は、ここにあるのではないか。
胸の奥に、小さな希望が灯るのを感じた。
「秀介」
私は涙をぬぐって受話口を握りしめた。
「健太からね、聞いたの。あなたが昔考えていたモデルに、今アメリカで興味を持っている人がいるって。……もし本当にやりたいなら、健太とつなぐ。だから、いつでも相談して」
一瞬の沈黙。
だが次に返ってきた声は、かすかに抑揚を取り戻していた。
「……そうか。ありがとう。考えてみる」
その声音に、かつて研究に没頭していた頃の秀介の姿が重なった。
機械的な処理屋の声ではない。
夢を語ることを許された人間の声。
胸が熱くなった。
気づけば、また涙が頬を伝っていた。
「……由佳?」
心配そうに呼びかけられ、私は慌てて笑い声を混ぜながら答えた。
「ごめん……嬉しくて……。やっと、あなたの声が戻ってきた気がして」
嗚咽を押し殺しながら、それでも私は泣き続けた。
電話越しの彼に気づかれないように――けれど、きっと届いてしまっていただろう。




