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第42話:大田 美沙

 「……もう、君を幸せにしてくれる誰か――それが佐藤さんであるなら彼と、君には幸せになって欲しい」


 秀介はそう言って、ふっと笑った。


 その瞬間、胸が大きく揺さぶられた。

 ――こんな顔、見たことがない。

 これまで一度の見せてくれなかった、本当の笑顔。

 柔らかくて、穏やかで、どこまでも優しい。

 結婚してから何年も待ち望んでいた「秀介の素顔」が、ようやく目の前に現れたのだ。


 私はその顔を見て、思わず涙が込み上げた。

 ああ、この顔が見たかった。この笑顔を私はずっと求めてきた。

 仕事や家庭の責任に押し潰されるように仮面を被り続けてきた秀介。

 怒鳴るでもなく、嘲るでもなく、ただ静かに「そこにいる」彼自身を、私はやっと見つけた。


 ――けれど、その笑顔が物語っていたのは。


 別れ。

 ―離別……離婚するという事?


 「……いや……いやよ……」

 唇が震え、声が掠れて、うまく言葉にならない。

 胸の奥が千切れるように痛い。

 体が勝手に震えだして、どうにも抑えられない。


 「そんなのいや……絶対に……いやだ……」

 パニックだった。

 頭の中で言葉が暴走して、何も整理できない。

 ただ涙だけが溢れ、喉の奥で声が詰まる。


 「別れない! 絶対いや! 絶対別れないから!」

 必死に叫んだ。

 泣き喚く子どものように、声が裏返っても構わなかった。

 どうしても、この人を手放したくなかった。

 やっと笑ってくれたのに。やっと本当の顔を見せてくれたのに。

 その笑顔の意味が「さようなら」だなんて、耐えられない。


 「秀介! お願い……お願いだから、そんな事言わないで……!」

 畳に手を突き、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら縋りついた。

 頭の中で警鐘が鳴っているのに、心がついていかない。

 必死に言葉を探し、愛を叫び、声を枯らし続ける。


 けれど秀介は、静かに微笑んだままだった。

 哀しみと決意が混じった、優しい笑顔。

 そして少し間を置いて、口にしたのは――


 「……沙奈は、元気だったか?」


 その一言に、私は息を呑んだ。

 娘の名前。

 その響きが、私の全身を凍らせた。


 ――ああ、もうこの話は終わりなんだ。

 そう告げられたのと同じだった。


 「……え、ええ……」

 震える声で答えるしかなかった。

 泣き喚いていたはずの喉から、力が抜けていく。

 娘のことを持ち出されれば、母親として立ち止まるしかない。

 その瞬間、抗う言葉も涙も、すべて封じ込められてしまった。


 私はただ、膝の上で握りしめた拳を震わせながら、目の前の現実を受け入れるしかなかった。

 ――逃げ場なんて、どこにもない。

 私の「愛」は、もう秀介にはまったく別の形でしか届かない。

 そしてその優しい笑顔に見送られながら、私は深い絶望の底へ沈んでいった。


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