第39話:大田 秀介
電話の呼び出し音が、いつもより長く感じられた。
母の声が受話口から聞こえたとき、胸の奥が締めつけられるようだった。
「……母さん、ちょっと話がある」
自分でも驚くほど声が低かった。
簡単にここまでの経緯を説明した。美沙と離婚になるかもしれないこと。
そして――それは美沙のせいではなく、専ら自分自身のあり方のせいだということ。
「だから、頼む。美沙を責めないでほしい」
沈黙が返ってきた。長い、重たい沈黙。
やがて、母の声が震えながら聞こえてきた。
「……秀介。本来なら、あんたは大学院まで行って、研究者になっていたかもしれないのに」
母の言葉は、痛ましさと後悔に満ちていた。
「父さんが早くに亡くなって……あんたが無理をして、背負ってくれて……ごめんね。ほんとうにごめんね」
私は首を振った。誰にも見えないのに、必死に否定するように。
「兄さん」
今度は妹の声だった。もう社会人になった彼女の声には、大人びた響きが宿っていた。
「私が大学を出られたのは兄さんのおかげ。学費も生活も、全部背負わせてしまった。ほんとうに申し訳ないって、ずっと思ってきた。…でもね、本当に、本当にありがとう」
妹の声には嗚咽が混じっていた。
オレの胸の奥にも熱いものが込み上げた。
――オレが背負ってきたと思っていたものは、彼女にとっては「負わせてしまった」という罪悪感だったのか。
妹は続けた。
「でもね、兄さん。父さんが残してくれた工場跡地も売れたし、母さんと私でやっていける。経済的な心配はもうないの。……だから、兄さんはもう、私たちのために我慢しなくていいんだよ」
母も言葉を重ねた。
「そうよ。あんたは十分やってくれた。……これからは、自分の好きに生きなさい」
受話口から聞こえるその言葉に、胸の奥の何かがほどけていくのを感じた。
十年背負ってきたものが、音を立てて外れていくような感覚。
「……ありがとう」
その一言を言うのに、どれほどの力を振り絞っただろう。
通話が切れた後、しばらく動けなかった。
涙が、知らぬ間に頬を伝っていた。
――もう背負わなくていい。
家族はそう言ってくれた。
だからこそ、今度こそ自分自身として生きなければならない。




