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第30話:高瀬 彩花

 夜が明ける前に、私は電報堂本社のコンプライアンス委員会に足を運び、所定の「通報」を実施した。

 昨夜の惨状を見てしまった以上、報告を怠れば、結局は誰かが犠牲になる。そう思ったからだ。自分が何を言えばどんな波紋が広がるかは分かっていた。それでも、黙ってはいられなかった。


 報告を終えたあと、私は足を電報堂デジタルに向けていた。

 ガラス張りのシオサイトの本社ビルとは違い、品川南口のカジュアルで機能的なオフィスビル。その中に入ると、不思議な安心感に包まれる。電報堂本体の営業局で感じる、上滑りで自己顕示欲だけに満ちた息苦しさはここにはない。


 「高瀬さん!」

 顔を上げると、若いエンジニアが駆け寄ってきた。昨日の案件で一緒に動いていた子だ。

 「昨日は……ありがとうございました。報告してくださったって聞きました」

 その瞳に宿るのは、感謝と信頼。私はわずかに胸が温かくなった。


 ここでは私は“よそ者”扱いはされない。

 私は秀介と同じ東都工業大学出身。技術の価値を知っている広告マンとして、デジタルのメンバーにとっては数少ない「分かってくれる人間」だった。だから、彼らの笑顔が本心であることが伝わってくる。――電報堂本体の大部分の営業局員たちが、子会社を下請けのように見下しているのとは全く違うと、彼らもそれは分かってくれている。


 「……高瀬くんか」

 重い声が背後から響き、私は振り返った。長谷部源蔵社長が立っていた。

 その眼差しは厳しく、昨夜から眠っていないのではと思うほど疲れがにじんでいた。だが怒りは隠せなかった。


 「君が謝ることじゃない。分かっている。――だが、うちの大切な社員が、クライアントの目の前で殴られたんだ」

 言葉に込められた憤怒が、オフィス全体の空気を張り詰めさせる。


 私は頭を下げずにはいられなかった。

 「すみません……。昨日の場にいた者として、報告するしかなくて」

 「いや、正しい。むしろ電報堂本体の連中の方が恥を知るべきだろうな。……大田くんはどうだ?」

 「ふつうに出社しています。……仕事に戻ると言って」


 デスクに目をやると、秀介が黙々とパソコンに向かっている。その頬にはまだ腫れが残っていた。

 彼は、何事もなかったかのように振る舞っている。というよりも、それ以外の振る舞い方など、もうとうの昔にどこかに置いてきてしまったままなのかも知れない。ようやくそうでない、本来の彼が、仄かであっても戻るような気がしていたのに、もう、元の「処理屋」の佇まい以外、今の秀介からは感じられない。


 胸の奥が締めつけられる。

 ――どうして秀介が、こんな思いをしなければならないの。

 彼がいたからプロジェクトは成功した。それを最も理解しているのは私だ。なのに、その彼が殴られ、侮辱され、そして今も黙って机に向かっている。


 私は決意した。

 もう放ってはおけない。

 あの家、美沙の隣に一人で戻さない。彼女はきっと、秀介のこの苦しみを理解しない。

 ならば、私が守るしかない――。


 今日、秀介が帰宅する際は、私も一緒に行く事に決めていた。

 もう、誰が何を言おうとも、それを私は決めていた。


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