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第29話:大田 美沙

 翌朝、本社の自動ドアをくぐった瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。

 普段なら出勤ラッシュを抜けてきた社員たちの足音と挨拶が飛び交うロビーが、今日は妙に沈んでいる。誰もが早足で、視線を合わせようとしない。空気がざわついているのに、音がない――そんな異様な感覚だった。


 ――やはり、大事になっている。

 昨夜、彩花からの電話で半ば確信していた。けれども、こうして実際に本社の空気を肌で感じると、心臓が鷲掴みにされるようだった。


 エレベーターに乗り込むと、居合わせた後輩たちが一瞬で声を潜めた。視線が私をかすめ、すぐに逸らされる。私が「関係者」であることを、誰もが知っている。昨夜の惨状を直接見ていない彼らでさえ、もう噂は隅々にまで行き渡っているのだ。


 フロアに着くと、秘書室からすぐに内線が入った。

 「コンプライアンス委員会が呼んでいます。至急、大会議室へ」

 その一言に、体が硬直した。昨夜の出来事が、いよいよ正式に“事件”として処理されるのだ。


 大会議室の扉を開いた瞬間、熱を帯びた空気が押し寄せてきた。

 コの字に並んだ長机の奥には、法務・人事・広報、そしてコンプライアンス委員会のメンバー。更に、ゲスト席には栗田自動車の広報部長・桑島亮が腕を組み、冷たい視線を投げかけている。彼の横には昨夜同席していた新人の姿もあり、硬く俯いているのが目に入った。

 ――彼女がすべてを報告したのだ。栗田自動車の怒りは、まずその「新人社員が同席している場所で、暴力沙汰が発生している」という一点から始まっている。


 そして、奥の席には父――副社長・愛川正則。

 目にした瞬間、血の気が引いた。顔は紅潮し、唇は固く結ばれ、目には抑えきれない怒気が宿っている。


 進行役が昨夜の経緯を淡々と読み上げる。

 「……栗田自動車社員の前で、営業局の若手による暴力行為が発生しました」

 「発端は“当社グループである電報堂デジタルの大田秀介の妻―当社社員である大田美沙―を侮辱する発言”であり、さらに当社広告営業第二局長佐藤の“二号”“愛玩具”という不適切な言葉が繰り返されたという報告を受けています」

 「当該場に居合わせた栗田自動車社員は一部始終を本日早朝に上司に報告。栗田自動車より当社に対して強い抗議の表明を頂きました。また本件の経緯説明と厳正な処分を要求いただいています」


 言葉一つひとつが針のように突き刺さる。

 ――“二号”も、“愛玩具”も、私の名前と結びつけられている。

 自分は直接その場にいなかった。けれども、事実は変わらない。秀介は私のせいで殴られ、侮辱され、そして会社全体を巻き込む騒動に発展したのだ。


 そのとき、栗田自動車の桑島部長が口を開いた。

 「我々は、御社グループの大田氏を高く評価していました。彼はプロジェクトを成功に導いた立役者だと考えています。その人物に対して、御社営業部の方が、当社社員のいる場において、暴力に及ぶのを目撃させられた訳です。……当社はコンプライアンスを重視しています。欧米であれば、このようなトラブルを看過するなら、それはそのままブランドそのものの信用失墜に繋がります。今回のこのトラブルを当社としても、流石に見過ごすことはできません」


 会議室に重苦しい沈黙が落ちた。

 その沈黙を破ったのは、父の低く押し殺した声だった。


 「……佐藤くん。君の部下が、うちの娘を君の“二号”“愛玩具”と呼び、さらにはその夫―私の娘婿を殴ったという事ですが……。これは一体どういうことなんですか?」


 その声音には副社長としての威厳よりも、父親としての苛立ちが色濃くにじんでいた。

 しかし誰も即座には答えない。佐藤は視線を逸らし、局長派の役員たちは互いに目を合わせただけで、口をつぐんでいる。


 ようやく人事部長が口を開いた。

 「……愛川副社長。ご心情は理解いたします。ただ、本件はコンプライアンス委員会で慎重に調査の上、処分を決定すべき案件です。即時の結論は避けたいと存じます」


 父の表情がさらに強張った。

 「暴力の一方的行使が、クライアントの目の前で、ですよ? それを“慎重に”というのですか?」


 だが、別の役員がすぐに取りなすように言葉を重ねた。

 「もちろん重大事案であることは重々承知しています。ただし、会社としては栗田自動車様への説明責任を果たしつつ、社内の規律を乱さぬよう処理を進める必要があります。……ここで拙速な判断を下すのは、むしろリスクを広げかねません」


 その言葉に父は何も返せなかった。副社長という肩書きを持ちながら、実際の処分を決める権限は彼にはない。天下りとして迎えられた立場である以上、ここで声を荒げても「外様が私情で騒いでいる」と受け止められるだけだ。


 私はそのやり取りを黙って見ていた。

 父は副社長としての権威を示そうとした。だが、プロパーの役員たちは冷静にそれを受け流し、実務を握っているのはあくまで自分たちだと態度で示していた。


 ――そして、場に残ったのは、私の名が発端となった不祥事の重苦しさだけだった。

 「針の筵」とは、まさにこのことだ。


 父の苛立ちも、プロパーの冷淡な処理も、すべてが私の肩に突き刺さる。

 私は膝の上で固く拳を握りしめ、唇を噛むことしかできなかった。


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