第28話:大田 美沙
玄関のドアが静かに開いた。
「おかえりなさい」――そう言いかけた声が、喉の奥で凍りついた。
スーツの襟は乱れ、頬は赤く腫れ、口元にはまだ乾ききらない血が残っている。
秀介だった。
彼は靴を脱ぐなり、無言のままリビングに向かって歩いた。
私は慌てて後を追う。
「ちょ、ちょっと待って……その顔、どうしたの?」
問いかけても、彼はただ「大丈夫だ」とだけ呟いてソファに腰を下ろす。
その淡々とした声音が、逆に私を震え上がらせた。
頬は腫れ、唇の端からまた血がにじんでいる。
私は慌ててタオルを濡らし、彼の口元に当てた。
「……何があったの?」
彼は視線を逸らし、「仕事のことだから」と繰り返すばかりだった。
――仕事のこと。
その一言が、私の胸をさらにざわつかせた。
私は妻であるはずなのに、何も知らされていない。
私は恐怖と焦燥に突き動かされ、スマホを手に取った。
呼び出し音のあと、受話口から聞き慣れた声が返ってくる。
「……彩花さん?」
返ってきた声は、怒りに震えていた。
「美沙……ああ、秀介、家に帰ったのね。―ねぇ、秀介がどんな目に遭ったか、あなた本当に分かってる?」
彩花の言葉は途切れ途切れだったが、内容は鋭く胸に突き刺さった。
営業たちが“佐藤の二号”“愛玩具”と私を嘲り、その場で秀介を侮辱したこと。
最後には、酔った若手が殴りかかったこと。
――栗田自動車の新人の目の前で。
私は息を呑んだ。
「……そんな……」
だが、彩花の怒りはそこでは終わらなかった。
「私たちにとって、秀介は……どんなに時間が経っても、大切な思い出なのよ。由佳にとっても、私にとっても。――それが、“二号”“愛玩具”なんて言葉と一緒に笑いものにされた。そんな女が、なんで秀介の妻なのよ!」
その声は涙に濡れていたが、同時に烈しい激情が宿っていた。
「美沙。もう、あなたが妻であるかどうかなんてどうでもいい。あなたが妻でいる事が秀介を貶めているなら、……そういう存在になっているなら……私は絶対に許さない。あなたも、それから佐藤局長も許さない」
私は言葉を失った。
電話の向こうから、彩花の吐息が震えながら届いてくる。
「……由佳と、それから私だけが分かっている。秀介がどんな人間だったか。本当の彼を知っているのは、きっと私たちだけ。そんなわたしの、わたしたちの秀介をあなたは汚した。だからこそ――もう絶対あなたを許さない」
――わたしの秀介。
彩花が明確にそう言った。
通話が切れたあと、私はスマホを握りしめたまま動けなかった。
ソファの秀介は無言のまま、前を見つめている。
その背中を見ながら、涙が止めどなく溢れた。




