表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/98

第28話:大田 美沙

 玄関のドアが静かに開いた。

 「おかえりなさい」――そう言いかけた声が、喉の奥で凍りついた。


 スーツの襟は乱れ、頬は赤く腫れ、口元にはまだ乾ききらない血が残っている。

 秀介だった。

 彼は靴を脱ぐなり、無言のままリビングに向かって歩いた。


 私は慌てて後を追う。

 「ちょ、ちょっと待って……その顔、どうしたの?」

 問いかけても、彼はただ「大丈夫だ」とだけ呟いてソファに腰を下ろす。

 その淡々とした声音が、逆に私を震え上がらせた。


 頬は腫れ、唇の端からまた血がにじんでいる。

 私は慌ててタオルを濡らし、彼の口元に当てた。

 「……何があったの?」

 彼は視線を逸らし、「仕事のことだから」と繰り返すばかりだった。


 ――仕事のこと。

 その一言が、私の胸をさらにざわつかせた。

 私は妻であるはずなのに、何も知らされていない。


 私は恐怖と焦燥に突き動かされ、スマホを手に取った。

 呼び出し音のあと、受話口から聞き慣れた声が返ってくる。

 「……彩花さん?」


 返ってきた声は、怒りに震えていた。

 「美沙……ああ、秀介、家に帰ったのね。―ねぇ、秀介がどんな目に遭ったか、あなた本当に分かってる?」


 彩花の言葉は途切れ途切れだったが、内容は鋭く胸に突き刺さった。

 営業たちが“佐藤の二号”“愛玩具”と私を嘲り、その場で秀介を侮辱したこと。

 最後には、酔った若手が殴りかかったこと。

 ――栗田自動車の新人の目の前で。


 私は息を呑んだ。

 「……そんな……」


 だが、彩花の怒りはそこでは終わらなかった。

 「私たちにとって、秀介は……どんなに時間が経っても、大切な思い出なのよ。由佳にとっても、私にとっても。――それが、“二号”“愛玩具”なんて言葉と一緒に笑いものにされた。そんな女が、なんで秀介の妻なのよ!」


 その声は涙に濡れていたが、同時に烈しい激情が宿っていた。

 「美沙。もう、あなたが妻であるかどうかなんてどうでもいい。あなたが妻でいる事が秀介を貶めているなら、……そういう存在になっているなら……私は絶対に許さない。あなたも、それから佐藤局長も許さない」


 私は言葉を失った。

 電話の向こうから、彩花の吐息が震えながら届いてくる。

 「……由佳と、それから私だけが分かっている。秀介がどんな人間だったか。本当の彼を知っているのは、きっと私たちだけ。そんなわたしの、わたしたちの秀介をあなたは汚した。だからこそ――もう絶対あなたを許さない」


 ――わたしの秀介。

 彩花が明確にそう言った。


 通話が切れたあと、私はスマホを握りしめたまま動けなかった。

 ソファの秀介は無言のまま、前を見つめている。

 その背中を見ながら、涙が止めどなく溢れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ