第20話:大田 美沙
名古屋にある栗田自動車本社の会議室に、開発責任者が並んでいた。
スクリーンに映し出されたのは、次期コンセプトカーの仕様書。
「私たちが目指すのは、自動運転そのものだけではありません」
広報部長が言葉を強める。
「走りそのものを“優れたユーザー体験”とするために、ユーザーとのコミュニケーション全体を車載AIが担う。行き先指定、経路選択、現地の天候確認、途上でのBGM指定。さらにマルチモーダルなセンシングでユーザーの体調や気分を把握し、室温を調整したり、眠気覚ましのドリンクをサジェストしたりする。そうした“会話を通じた車の人格”を具現化したいのです」
室内に緊張が走った。営業の誰もが軽い相槌を打ちながらも、その無茶な要求をどこまで現実的に扱うべきか、判断をしかねていた。
そのとき、秀介が口を開いた。
「――技術的には一通り対応自体は可能です。クラウドとエッジのデュアルモードで動作させることで、遅延を最小化しつつ柔軟に拡張できます」
声は抑制されていて、まるで水のように滑らかだった。
「ユーザーの状況をマルチモーダルに取得するには、車載エッジでの推論処理が必須です。ただし、その結果を通信可能な状況下では適宜クラウドに統合し、連合学習で各車両のデータを反映させる仕組みを組み込む。――現段階では初期的な段階ですが、十分に実装の見通しはあります」
会議室に沈黙が落ちた。
誰もが息を呑んで秀介を見つめている。栗田自動車の技術者たちが互いに視線を交わし、頷き、慌ただしくメモを取った。
その横で、彩花が柔らかく補足を入れた。
「実際にこのコンセプトを“車の人格”として成立させるには、単なる機能統合では不十分です。中軸となるのは『会話』であり、自然な会話フローを組み込む必要があります。大田は東都工業大学の研究室で、その領域を体系立てて研究していましたし、―私が知る限り―今でも最新のこの領域の研究状況を把握しています。マルチモーダル入力をどう統合すれば自然な応答ができるか――彼ほど深く理解している人材は、他に知りません」
その言葉は、あまりに自然に、しかし同時に熱を帯びていた。
まるで「彼を一番知っているのは私」とでも言うように。
栗田の開発部長は大きく頷いた。
「確かに、その通りです。……大田さんには、次回以降も必ず同席いただきたいです。あと、この後広報部側とも協議しますが、今後本件プロジェクト全般を彩花さんと、それから大田さんに是非統括的にサポートいただきたいと希望いたします」
会議は秀介を中心に進み、彩花がその言葉を柔らかく補い、時に先回りして示す。二人の呼吸は、完璧に揃っていた。
彼が資料の一部に触れると、彼女がすぐに画面を切り替える。彼が専門用語を述べると、彼女が顧客向けにかみ砕いて伝える。――まるで長年連れ添った夫婦にしか見えなかった。
私は机の下で、手のひらに爪を食い込ませていた。
なぜ、私ではないのか。
なぜ、妻である私ではなく、彩花が彼を支えているのか。
もちろん、分かっている。彼と私の結びつきは家庭だ。彼の「処理屋」としての無機質さを埋めるのは、私の役割だ。けれど、今ここで繰り広げられているのは、家庭ではなく“仕事の戦場”だった。そこで彼を支えているのは、私ではなく彩花だった。
彩花は資料をめくりながら、ちらりとこちらを見た。
――その瞳が語っていた。「あなたより、私のほうが彼を知っている。私の方が彼をサポートできる。仕事としてだけじゃない」と。
同期として、というよりも、そこには女として秀介に献身しきろうとする姿があった。
私は唇を噛みしめた。
彼女の声が重なるたび、私の心臓は軋むように痛んだ。
会議室の空気は、秀介と彩花を中心に動いていた。
私はただ、その外側で笑顔を作るしかなかった。




