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第18話:大田 美沙

夜、娘を寝かしつけたあと、寝室に戻ると、彼は机の前で黙って書類を眺めていた。パソコンを閉じたまま、ただページをめくっては止まり、また視線を落とす。その背中は、私が知る限り、もっとも「無言」の人間の姿だった。


 彼は怒らない。愚痴を言わない。私や子どもに手を挙げることも絶対ない。

 家庭人として、これ以上の夫はいないのだろう。

 ――それでも、私はずっと物足りなさを覚えてきた。


 夫の中にあるはずの“本当の自我”に触れることができない。

 父を看取り、夢を捨て、家族を養う役割に徹した彼の中に、もう「自分」というものは存在しないのではないか。そんな虚ろさを、妻である私だけは見抜いてしまう。


 だから、私は知っていた。

 言葉で彼を掴むことはできない。

 未来を語り合うこともできない。

 だったら――私ができるのは、女としての身体を差し出し、彼を抱きしめることだけだ。


 「……秀介さん」

 声をかけると、彼は振り返った。疲れた笑みを浮かべて、「どうした?」とだけ言う。その表情が、私の胸を一層締めつける。

 私は答えずに近づき、彼の肩に触れた。わずかに強張った身体を、両腕で包み込む。


 彼は困惑している。分かっている。

 でも私は後戻りできなかった。

 彼が「虚ろな夫」として消えていくのを、ただ見ていることなどできない。

 だから、強引に彼の唇を奪った。


 ――これが、私にできる唯一の救済。

 愛情とも、欲望とも違う。もっと切実で、祈りに近い行為。

 せめてこの瞬間だけでも、彼が「私の夫」であると確かめたかった。


 彼は戸惑いながらも、やがて腕を回してきた。そこに意志があったかどうかは分からない。ただ、私が求めるままに応じてくれた。それでよかった。

 言葉よりも雄弁に、私たちは繋がった。


 その夜、私は涙を流しながら彼を抱いた。彼に抱かれた。

 「好き」「愛してる」と口にすることはなかった。ただ、無言のまま必死に彼を受け止めた。


 ――そして、この時新しい命は宿ったのだ。


 あとからそれが分かった時、私は震えるほどの安堵を覚えた。

 これで、彼と私は繋がっている。

 彼にとってそれが「救済」かどうかは分からない。けれど、私にとっては確かに愛の証だった。


 私はあの夜のことを、決して後悔していない。

 夫の虚ろな背中を見つめ続けてきた私だからこそ、選び取った方法なのだ。


それは、辛うじて私たちを繋げてくれた奇跡だった。


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