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第14話:街丘 由佳

 笑い声とグラスの音が響く個室の中で、私はひとり違う時間を過ごしていた。

 健太がシリコンバレーでの挑戦を語り、直人が新婚生活を照れくさそうに報告し、彩花が職場の愚痴を笑いに変える。にぎやかで、心地よいはずの会話。けれど私の耳には、そのざわめきの奥にある沈黙ばかりが響いていた。


 ――秀介。


 隣に座る彼は、グラスを手に取りながら「まあ、忙しいよ」とだけ口にする。

 それだけで会話を終わらせてしまう、あの短い言葉。

 私の胸に刺さったのは、その言葉が持つ虚ろさだった。


 研究室の頃、彼は私たちのスターだった。

 夜を徹して論文を読み込み、自分のアイデアを語り、ホワイトボード一面に数式を書き連ねる。健太は常に横でサポートしていたけれど、本当に光を放っていたのは秀介だった。誰もがその情熱に引き寄せられ、未来を信じさせられていた。私も、そのひとりだった。


 ――あのときの彼が、もうここにはいない。


 もちろん今の秀介は誠実だ。家族を大切にし、会社では「処理屋」として信頼され、仲間や上司から頼られている。美沙と結婚し、父となり、安定した人生を歩んでいる。

 だが、そのすべての役割をきちんと果たしている姿こそが、私には耐え難い空虚に映った。


 本当なら、私はあらゆる手を尽くしてでも、彼を救うべきだったのではないか。

 体でも心でも、すべてを差し出していい。彼が望むなら、好きなだけ与えていい。

 そうして彼の虚ろさを埋め、再び光を取り戻させることができるなら。


 ――なのに私は、ここで何もできずにいる。


 彼はもう「誰かの夫」であり、「誰かの父」だ。

 それを踏み越えることはできない。いや、踏み越えてはいけない。理性がそう言う。大人の分別がそう言う。

 けれど、感情は止まらない。心の奥で渦を巻く衝動は、むしろ年月とともに深まっていくばかりだ。


 健太が「お前はどうなんだ、順調か?」と問うと、秀介はまた「まあ、忙しいよ」と笑った。

 その笑顔に、誰も違和感を覚えない。彩花でさえ、ただ少し寂しげに目を伏せただけだった。

 ――でも私は知っている。

 その笑顔が、ある種の「諦めの笑み」であることを。


もちろん多くの人はみな、それぞれの「諦め」を抱く時が来る。でも秀介には、本当に惜しいまでの才能の輝きや、突き抜けていく圧倒的な力を感じた事があった。


 ―でも今は。


 居酒屋を出て、人波に飲まれながら歩く帰り道。

 私はふと彼の背中を見た。昔のように、未来を見据えて駆け出す背中ではない。家族を背負い、役割を背負い、ただ前へ進むための背中だった。


 それでも――私には分かる。

 この人は本当は、もっと遠くまで行けた。もっと大きなものを掴めた。

 だからこそ、本当はもっと別の何かを必要としている。


 けれど、今の私には何もできない。

 ただ笑顔を作り、大人の距離を保ち、旧友として隣を歩くしかない。


 もう何度そう思ったことか。

 ――人生は、本当に、本当に、ままならない。

 そう呟きそうになる唇を、私は固く結んだ。

 胸の奥に残る疼きを抱えたまま、夜の街を歩き続けた。


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