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第12話:大田 美沙

 「今度、みんなで温泉旅行に行こうと思うのよ」

 母からそう告げられたのは、電話口でのことだった。父も賛成しているという。子どもが大きくなる前に、一度くらい家族でのんびりしたい――そんな思いが込められていた。私はすぐに心を動かされた。久しぶりに両親とゆっくり過ごせるし、子どもにとっても楽しい思い出になるはずだ。そして何より、秀介と三人で両親に甘える時間を持てることが、私には魅力的に思えた。


 その夜、夕食の後片づけをしながら切り出した。

 「ねえ、今度の連休、私の両親と温泉に行かない?」

 私は期待を込めて彼の顔を見つめた。


 けれど返ってきたのは、思いがけない言葉だった。

 「オレは行かなくてもいいんじゃないか。君と子どもで行っておいでよ。オレは仕事もあるし」


 一瞬、理解できなかった。

 「……どうして? 三人で行きたいの」

 思わず声が震えた。


 彼は困ったように眉をひそめた。

 「いや、別に反対してるわけじゃない。ただ、仕事の調整を無理にすれば、その分ほかにしわ寄せがいく。クライアントだって待ってはくれないし……」


 ――合理的な答え。いつもの夫の言葉。

 けれど、その合理性が私を傷つけた。私は旅行そのものではなく、「一緒に行きたい」という気持ちを受け止めてほしかったのだ。


 気づけば、涙が頬を伝っていた。

 「私、あなたと一緒に行きたいのよ」

 子どものような言葉しか出てこなかった。


 秀介は黙り込み、戸惑った表情を浮かべていた。叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ困惑している。まるで「どうしてそんなことで泣くんだ」と言いたげに。

 やがて口を開いた。

 「……分かったよ。じゃあ、別の日に調整して一緒に行こう。少し先になるかもしれないけど」


 その誠実さは分かっている。彼は嘘をつかないし、約束すれば必ず守る。私と子どものために、これまでも限界まで寄り添ってくれてきたのだ。

 でも、その瞬間、胸に広がったのは安堵ではなかった。


 ――あなたに、寄り添いたい。

 けれど、寄り添う対象の「彼自身」がどこにあるのか、私には分からない。


 彼に夢や野心があれば、その背中に自分を重ねられたかもしれない。

 けれど、彼の中にはそういうものは存在しない。ただ、与えられた役割を果たし、責任をまっとうするだけの人。

 「本音を隠している」のではなく、「本音そのものがない」。


 私はようやく気づき始めていた。

 だからこそ、私にできるのは逆に「私に寄り添って」と願うことしかない。

 そして、彼はもう限界まで寄り添ってくれている。仕事を終え、家族を養い、子どもを風呂に入れ、寝かしつけ、休日には遊びにつきあってくれる。それ以上を求めるのは、結局私のわがままなのだ。


 そう分かっていても、虚しさは消えなかった。

 合理と誠実で満たされた夫の姿は、どこまでも「正しい」。

 けれど、その「正しさ」に包まれていると、私はどうしても孤独を感じてしまうのだった。


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