第11話:大田 美沙
週末の午後、近所のショッピングモールはいつものように混み合っていた。
夫は黙ってカートを押し、子どもの手を引き、私が選んだ品を迷わず入れていく。重い荷物はすべて彼が持ち、会計を済ませるのも彼。私は財布を開くことすらない。
フードコートでは子ども用の椅子を素早く用意し、ジュースをこぼさないようにストローの位置を直してやる。散らかったテーブルをさっと片づけ、私が一息つけるように気を回す。
傍から見れば「理想的な夫」以外の何者でもないだろう。
翌日の公園でも同じだった。
子どもと滑り台を何度も往復し、泥だらけになるのも構わず砂場にしゃがみ込み、ブランコを押す手を休めない。「もう一回!」とせがまれれば、「よし」と答えて繰り返す。その根気強さと誠実さは、確かに夫の美徳だと分かっている。
けれど、その横顔からは「自分がやりたい」という意思の色が見えてこない。子どもが求めるから応じる。私が望むから合わせる。そこにはいつも“誰かの期待に応える夫”の姿しかなかった。
夜になれば、さらにその姿は際立つ。
子どもを風呂に入れ、髪を拭き、パジャマを着せ、布団に寝かせる。絵本を読み聞かせる声は優しく、子どもが「もう一回」と言えば嫌な顔ひとつせずページを戻す。寝息が聞こえるまで、何度でも。
私はその光景を横目に「完璧な父親だ」と思う。実際、母親仲間からも「羨ましいくらい理想的ね」とよく言われる。私も笑顔でうなずき、「そうなんです」と返す。嘘ではなかった。
それでも、心の奥には説明できない空虚さが広がっていく。
彼は誠実で、堅実で、家庭を守ることに全力を尽くしている。それなのに――その背中から、自分のエゴや夢を追い求めるような強さが伝わってこない。
休日に、水族館へ出かけた。
混雑の中でベビーカーを押し、写真を撮るのはいつも彼。私は子どもとイルカショーを見て楽しむ。彼自身が「ここに行きたい」と言うことはなく、ただ「二人が楽しめればいい」と笑う。その笑顔の奥に、少しだけ影があるように見えても、彼は口にしない。
実家に帰省したときもそうだ。
母や妹に細やかに気を配り、親戚への挨拶もきちんとこなす。誰からも「できた婿ね」と評される。
――そう、彼はいつだって模範的で、非の打ちどころがない。
だからこそ、私は不思議に思う。
もし彼がもっと強引に、私や子どもを引っ張っていく人だったら。
もし彼が「今日はこれをしたい」と言って、私を振り回すような人だったら。
そんな勝手さに苛立ちながらも、同時に「男としての勢い」を感じられたのかもしれない。
もちろん、わがままを言わず、家族を第一に考える夫は、誰にとっても理想的だろう。母も友人も「完璧ね」と口をそろえる。私自身も、そう答えるしかない。
でも、胸の奥では違う感情が芽生えていた。
安心で満たされているはずの生活なのに、なぜか物足りない。
夫の姿は「役割を果たす優等生」であって、「自分の欲望を抱いた一人の男」には見えなかった。
―例えば、佐藤さんのような。
その虚ろさを「優しさ」と取り違える人は多いかもしれない。
でも私には、その優しさの中に潜む空虚が、逆に胸をざわつかせる。
――安定しているのに、どうしてこんなに満たされないのだろう。
自分でも答えが出せない問いを、私はまた胸の奥に押し込めた。




