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第10話:大田 美沙

 夫―大田秀介―は毎朝、決まった時間に家を出る。

 同じスーツに、同じ色のネクタイ。駅へ向かう背中を見送るたび、私は「安定」という言葉を思い浮かべる。


 電報堂デジタルでの彼の立場は、誰が聞いても悪くはない。案件の火消しを任される「処理屋」として、同僚や上司から信頼されているらしい。クライアントが無理を言えば、彼は夜中まで残業してでも帳尻を合わせる。怒りを見せることもなく、粛々とやり遂げる。その誠実さは確かに夫の美徳だと、私も理解している。


 けれど、時折ふと思うのだ。

 ――それでいいのだろうか、と。


 同じ電報堂グループに身を置く私には、本体と子会社の空気の違いがよく分かる。派手な営業の舞台に立つ本体と、裏方に徹する子会社。彼はその後者の象徴のような存在だった。

 「今日も無事に終わった」と静かに語る夫の顔は、達成感というよりも、それによって誰にも迷惑をかける事なく済ませたという安堵に近い感情に思われるのだ。拍手を浴びることもなければ、名前が表に出ることもない。そして、そういうあり方を彼自身が納得しているように見えるのが、私にはどこかもどかしかった。


 食卓で子どもと遊びながら笑う姿は、父親として申し分ない。家族を第一に考えているのも伝わってくる。だからこそ、私の心に芽生えるこの感情を、誰にも口にできない。

 「いい夫だね」「理想的なお父さんだね」――そう言われるたびに、私は微笑んで頷く。傍から見れば、夫は確かに完璧に「理想的な夫」「理想的な父」なのだ。


 でも、私の胸の奥には、説明できない空虚さが広がっていく。

 彼は誠実で、堅実で、家庭を守ることに全力を尽くしている。

 それなのに――その背中から、どこか自身の野心や夢を追い求める姿勢が感じられない。求められた役割を果たすという以上の思いが伝わってこないのだ。


 仕事に情熱を燃やし、未来を切り拓こうとする姿。

 目の前の家族よりも遠くの夢を見据えるような眼差し。

 そういうものに、私は惹かれてしまうのかもしれない。


 ―例えば、佐藤さんのような。


 もちろん、夫には夫なりの矜持があるのだろう。処理屋として任務を全うする誠実さは、私には真似できないものだ。だけど――

 安定の中に閉じ込められた彼の姿を見るたびに、私の心のどこかで「物足りなさ」という名の棘が、静かに疼くのだった。


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