第8話:愛川 美沙
ホテルのラウンジに足を踏み入れた瞬間、空気の重さに胸が少しだけ固くなる。
お見合い――いまどき古めかしいとも思うけれど、父の総務省時代の後輩の方の紹介だと聞かされれば断ることもできなかった。父は今では電報堂の役員に天下り、母はその妻として長く家庭を守ってきた。その娘として、望まれた場所で望まれた対応をする事に、あまりにも私は慣れすぎていた。
父がこのお見合いを急いだ理由はなんとなく察しがついていた。
私と佐藤さんとの関係について、余計な尾ヒレがついた噂が社内に少し流れているのを気にしたのだ。広告代理店では、所謂不倫めいた話などしばしば存在するし、昔ならともかく今では、むしろプライバシーの問題として過度に組織が介入する事はない。―少なくとも業務に著しい差し障りが生じなければ。
私が佐藤さんに惹かれていないといえば、それは明らかに嘘になる。むしろ、大手の広告代理店に伝手ですんなり入社した後、それでも一通り仕事がこなせるように鍛えてくれたのは佐藤さんで、その事に感謝しているし、その感謝の気持ちには、私の中の女の部分が皆無という事は絶対にない。
佐藤さんは若くして、広告営業マンとしては「敏腕」と言われ、大手のクライアント案件をものにしてきた実績があるが、それ故に政略結婚の対象になってしまい、既に家庭があり、お子さんもいる。だからどの道、私の願いは叶う事はないし、誰かが不幸になるような叶い方を私自身全く望んでいない。
そういう意味では、父は父の懸念からこのお見合いを急ぎ、私は私で、―自分の中の気持ちに早く折り合いをつけるために―むしろお見合いを望んでいたと言えば、決して言い過ぎではないだろう。
テーブルに案内され、すでに待っていた男性を目にした。
――これが、大田秀介さん。
第一印象は「地味」だった。華やかさも押し出しもなく、ネクタイを何度も直す仕草に緊張がにじんでいる。広告の営業局で派手な世界を泳ぐ同僚たちと比べれば、まるで別の生き物のように思えた。
けれど、席に着き、視線を合わせたとき、意外な感覚が走った。
誠実そう――そう思った。
計算された笑顔や、場を盛り上げる軽妙なトークとは無縁。けれど、言葉を探しながらも真正面から向き合おうとする姿勢があった。
形式的な挨拶を交わし、やがて話は仕事へと移った。
彼はグループ子会社で、システム開発に携わっているという。華やかな舞台でスポットライトを浴びることはないし、それは望む事でもないとハッキリと言った。
「トラブルが起きないようにするのが私の仕事です」と淡々と口にする声には、どこか、そういう自分自身の役割に対して、納得するような響きがあった。
私は思わず言葉を返していた。
「そういう人がいないと、私たちも困りますから」
社交辞令に聞こえたかもしれない。けれど、口にした瞬間、自分の中にほんの少しの本音が混じっていることに気づいた。派手な舞台の裏で支えてくれる人間がいる――そんな当たり前の事実を、私は普段の仕事の中で意識したことがほとんどなかったからだ。
そのあとは他愛もない会話が続いた。好きな食べ物、休日の過ごし方。どれも型通りで、特別な感情を動かされることはなかった。けれど、彼が時折見せる小さな笑みには、なぜか安心を覚えた。
別れ際、ロビーで一礼を交わした瞬間、私は自分でも意外な感覚にとらわれた。
――この人となら、穏やかな生活を送れるのかもしれない。
華やかさも刺激もない。だが、揺るぎない安定がそこにある。
ふっと、佐藤さんと比較してしまった。
そして、全く真逆のような存在感に、それ故惹かれているような感じがあった。
家に戻れば、母は「どうだったの」と期待を込めた目を向けてくるだろう。
答えはまだ出せない。ただ、胸の奥に残った小さな安堵感が、何かを告げている気がした。




