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9/9

Special Day

「最悪……」

一切、陽の光が入らないように閉め切った部屋の中に、うっすら埃が舞っている。

横には餌を求めて猫パンチを繰り出すクロ。


おかしい。今日は、ヒルディ様と一緒に新しくできた西大陸のブティックに視察に行くから、日が昇る前に起きているはずだったのに。


急いで飛び起きて、冷たい水で顔を洗う。

寝起きで働かない脳が、ようやく動き出す。


こうなってしまった以上、淑女でなんかいられない。

お淑やかなレディなんかでいたら、日が暮れちゃうもの。

こんな姿、誰にも見せられないわね。


白粉を塗って、紅を刺し、頬は薔薇色に。

目元には、白桃を溶かしたような淡いピンクを。

髪の毛は綺麗にまとめるつもりでいたけれど、この寝癖を治すには時間が足りない。


仕方がないから、いい感じにまとめてハーフアップにするしかないわね……。


「何これ……全然似合わないじゃない!」


鏡の中の自分は、まるで幼い子供。

思わず絶望してしまった。


普段の私の姿は――大好きなお母様のような、美しい蝶なのに。


ああ……楽しみで寝られなくて、寝坊するだなんて。

子供じゃあるまいし……。


……泣いてはダメよ。

お化粧が落ちて、余計に悲しくなってしまうじゃない。


しっかりするのよ、トーリス。

今できることを、やりきるのよ。



待ち合わせ場所に行くと、ヒルディ様もちょうど今来たところだった。


「ヒルディ様、おはようございます」


「ああ、おはよう。トーリス嬢」


少し無愛想で、それでいて優しい声。

こんなにカッコイイ男性は、きっとヒルディ様しかいないわね。


急いで来たからちょっと息が上がってしまったけれど……

バレていなさそうね。良かった。


……今の私、いつもの笑顔ができているわよね?


それにしても、待ち合わせの時間に間に合った安堵で、足の力が抜けそう。


深呼吸でもして、落ち着くのよ。

気を引き締めなさい、トーリス。ここからが正念場よ。



「トーリス嬢」


名前を呼ばれた気がして振り返ると——


「俺の顔になにか着いているか?」


「へ?」


思わず変な声が出てしまった。


「じっと見られているから、なにか着いているのかと思って……。何も無いなら良い。」


「あ、いえ、な、なんでもないですわ!ヒルディ様」


いやだわ私ったら、無意識のうちに……。


……仕方が無いわよね。今日のヒルディ様、いつにも増してカッコイイんだもの。

そうよ、これはヒルディ様が悪いのよ。


人間、眼鏡ひとつでこんなにも印象が変わるのね。

いえ、違うわね。


眼鏡だけではなくて、髪型も。いつもの無造作ヘアと違って綺麗に梳かされてあるし、

お洋服も、普段工房にいる時の服装と違って、カッチリした黒のスーツで……とってもカッコイイ。


他の人に見られたくないわ!


……なんて、婚約者のいる私が思っちゃいけないことよね。


そういえば、と、ヒルディ様が私を見る。


「今日は髪を下ろしているんだな。」


これはどっちの意味かしら?

似合ってる? 似合っていない?


どちらにしても寝坊したなんて言えない。


「たまには髪型を変えてみようと思いまして……似合わないでしょうか…。」


そうだ、なんて言われたら立ち直れる気がしない。


怖くて下を向いてしまう私に、少し戸惑ったような声で答えてくれた。


「いや、そんなことは無い……良いと思う。」


それはつまり、似合っているということ……!?


嬉しくなって顔を上げると、耳を赤くさせて、ふいと横を向いたヒルディ様の姿があった。


心臓が高鳴る。顔が熱い。


「ほら、行くぞ」


そう言って、さっさと歩き出してしまった。


「……はいっ!」


置いていかれないように、急ぎ足で追いかける。


自分は一歩前を歩きながら、私の歩幅に合わせてくれる。

ちゃんと紳士的な一面もある方なのよね。


ヒルディ様の背中は、とても大きく、遠く感じる。

その隣を共に歩んで行けないことが、悔しい。


それでも、今は。今日だけは、私だけのヒルディ様。

今日は私の人生で、いちばん特別な一日になるーーそんな気がしてならなかった。



洗練された緑色のドアを開けると、べノン夫人と同じくらいの年のマダムが静かに挨拶をしてきた。


店内には、見たこともないような鮮やかで美しいドレスがずらりと並んでいた。


「綺麗……」


ブティックのオーナーしかいない静かな店内に、次々とドレスを手に取る私の足音が響く。


あれも、これも、それも……美しい。


軽やかな素材に、シンプルで、複雑な刺繍が施されている。

あまりの美しさに、思わずため息が溢れる。


「これは……」


ディスプレイされていたドレスのうちの一着に、目を奪われてしまった。


格別美しい訳ではなく、どちらかと言うと地味なドレス。

けれど、数あるドレスの中でいちばん、繊細な刺繍が施されている。



「こちらにお気づきになるとは、お目が高いですね。

お客様、よろしければもっと近くで見てみませんか?」


「……良いのですか?」


「ええ、もちろんですよ。なにせ、このドレスに気がついてくださったのは、お客様が初めてですからね」


「ありがとうございます!」


「準備をして参りますので、少々お待ちください」



「良かったな」


いつの間にか、ヒルディ様が隣にいた。

……ヒルディ様をそっちのけで、オーナーと話していたんだった。


「はい!」


それから私とヒルディ様は、ひたすら店内のドレスを見て、試着をして回った。



「本日は素晴らしいドレスを見せていただきありがとうございました」


「こちらこそ、あのドレスに気が付いていただけて、とても嬉しいですわ」


「また来ますわ!」


「ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」


品の良い笑顔のマダムだった。

洗練されたブティックのオーナーに相応しい方だった。



「随分遅くなってしまったな」


ブティックを出ると、日が暮れ始めていた。


「すみません、視察のつもりが、私が全てのドレスを見てまわって、試着までしてしまったせいで……」


「トーリス嬢が楽しそうで良かったよ」


今の私の頬は、赤くなってしまった気がする。

きっと夕日のせいよね。


心做しか、ヒルディ様の歩幅が小さくなった気がした。



「ヒルディ様、本日は私の視察に付き合っていただき、本当にありがとうございました!」


「ああ……俺も、色々参考になったよ」


「ヒルディ様もですか?」


「ああ。西大陸の刺繍のパターン、素材、話術……それに……」


そこまで言って、話すのを辞めてしまった。


「それに、なんですの? ヒルディ様」


「トーリス嬢の刺繍への思い、だな。

あんなにキラキラした目で、楽しそうな貴女を見るのは初めてだ」


一瞬、世界が止まったような気がした。


ヒルディ様が、ずっと私のことを見ていてくれた。


胸がいっぱいで、何も言えないでいると——


「本当に可愛いな」


ヒルディ様は、私が気がついていないと思ったのだろうけど、ポツリと零した言葉を私は聞き逃さなかった。


本当に、私はこの人に敵わないな。

明日から、ちゃんと顔を見られるかな?



「トーリス嬢、昨日何かあったのですか?」


昨日のヒルディ様の言葉を思い出してぼーっとしていた私に、べノン夫人が怪訝そうに聞いてくる。


「な、なんでもないですわ!」


必死で取り繕う私を見て、何かを察したようだ。


「……ふふ、若いわねぇ」


「べノン夫人!」


でも、そんな言葉とは裏腹に、思い出してしまうの。

『本当に可愛いな』の一言を。


この先どんなことがあっても、きっとこの言葉を思い出して頑張れる気がする。



「おはよう」


「ヒルディ様、おはようございます」


相変わらず口数が少なく無愛想だけど、しっかりと目を見てくれる。


その目は、太陽のように暖かい。


私だけの太陽

ヒルディ様


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