クロ
「あッ……こら、待てっ……! こら! 戻ってきなさい! ちょっ、それはダメだって言ってるだろ!」
朝からアストンが、工房内をドタバタと駆け回っている。
「……おい、ソル。あのおっさん、何してんだ?」
アストンのビッグボイスに、ルディが怪訝そうな顔でこちらを見た。
「見ての通り、迷い込んだ黒猫を追いかけてるんだよ」
「……相変わらず、やかましいな」
「ふふ、微笑ましいじゃありませんか」
べノン夫人が、上品な口元を扇子でそっと隠す。
「彼、きっと子供たちにもああやって接してるのよ」
「確かに。十分あり得ますわね」
トーリス嬢も頷き、アストンに温かな視線を送った。
アストンが走るたびに、工房の床がギシギシと音を立てる。
“そのうち床が抜けるかもしれない”という不安と、
“こんな姿、娘たちに見せてあげたいな”という想いが、頭の中を行ったり来たりしていた。
「はぁ……やっと、捕まえた……」
「ご苦労だったな、おっさん」
「……ああ、本当に疲れた。ちょっとだけ、休憩してもいいか?」
「猫を捕まえてくれたからね。30分、休んできていいよ」
そう言うとアストンは、どこか軽い足取りで休憩室に向かっていった。
「……おっさん、本当はまだ元気なんじゃねえのか?」
「まあまあ、いいじゃないですか」
「ええ、トーリス嬢の言う通りですよ。彼は一人であの黒猫を捕まえてくれたんですから」
ルディが言い返せずにいると、自然と話題は黒猫へと移っていった。
「この子、大きさからして、まだ大人の猫ではなさそうですわね」
「そうみたいね。トーリス嬢はよく気がつくわね。……確か、猫が好きだったのよね?」
「はい、家でも三匹ほど飼っておりますの」
「まぁ! それは素敵ねぇ」
猫好きのべノン夫人とトーリス嬢の間で、話が弾む。
ちなみに私は猫も好きだけど、どちらかと言えば犬派だったりする。
「ソルティセア。この子、工房で飼わない?」
「えっ……?」
しまった、話を聞いていなかった。
それっぽく返事をしようとしたのに、出てきたのは情けない声だった。
「だから、この猫ちゃんを工房で飼わないかって」
猫を抱いて撫でながら、トーリス嬢がもう一度尋ねてくる。
「いい案ですけど……またさっきみたいに暴れたら、どうするんですか?」
「私が責任をもって面倒を見ます! この子、お腹が空いて暴れちゃっただけだと思うんです。ごはんさえあげれば、大丈夫なはずですわ!
それに……この子、見捨てられませんもの」
見捨てられない。それは私も同じだ。
でも、刺繍に傷がついたり、針が刺さったりしたら――それは危ない。
「お願いです、ソルティセア」
「そんなウルウルした目で見てもダメです」
「そんなぁ……」
「……と、言いたいところですが。見捨てられないのは私もです。
それに、トーリス嬢お一人でお世話するのは大変でしょう? 私も一緒に見ますよ」
「ソルティセア! ありがとうございます!」
「ソル、あなたたち二人だけじゃ心配だから、私も一緒に面倒を見ますよ」
べノン夫人まで賛同してくれた。
「クロ、迷惑をかけたらダメですからね?」
「ンナー!」
トーリス嬢の声かけに、“もちろんだ!”とでも言うように、猫が可愛く鳴いた。
どうやら、この猫の名前は「クロ」に決まったらしい。
工房の仲間が、ひとり……いや、一匹増えた。
五人と一匹。
家族同然の私たちで、これからも力を合わせて頑張ろう。
……後日、床が抜け落ちた。
顔面蒼白のアストンを、私は初めて見た。
この一件をきっかけに、ボロボロになっていた工房の修繕工事が始まった。
もちろん、新しくなった床も壁も柱も――
静かな工房の“わんぱく男の子”、クロの可愛い爪痕でいっぱいになったのだった。
またもや更新が遅れてしまいました……!すみませんorz
それでも変わらず読みに来てくださる方がいること、本当に励みになっています。
クロ、可愛いでしょฅ
今後もほのぼのしつつ、時に切ない物語を紡いでいけたらと思っています。