うみのくにの おひめさま
今日は工房の定休日。
ふだんは刺繍三昧のソルティセアも、今日は少しだけ新しいことにチャレンジしてみることにした。
だけど――なんだか、様子が少しおかしいみたいで……?
「暇だなぁ。」
時計を見るのも飽きてきた。だって50回目だもん。
今日は月に3度ある、工房がお休みの日だ。
いつもだったら、部屋で色んな刺繍をしているけれど、何となく違うことをしてみようかなと思い、何をしても失敗して今に至る。
具体的に何をしたかと言うと、
料理、運動、そして読書だ。
料理は、生焼けになったうえ、包丁で指を切り、火傷をしたから辞めた。
運動は、そもそも体力がないから5分と持たずにギブアップ。
読書は、読んだところから記憶がすり抜けて何も頭に入らなかった。
という具合だ。
つまり全戦全敗。
休日を過ごすのも楽では無い。
このままずっと家にいても気が狂いそうだから、散歩に出かけることにした。
いつも工房に籠っているから知らなかったけれど、外はとても気持ちが良かった。何が、と言われると分からないけれど、工房とはまた違う心地良さがある。
地面を観察しながら歩いていると、そこらじゅうに生えている小さな花や雑草が、いくら踏まれてもめげずに生きているのだ。
……決めた。私は雑草の様にしぶとく生き残ってやるんだから。
どのくらい歩いたんだろう。気がつくと、町外れの図書館まで来ていた。
木漏れ日が暖かい、お婆さんが一人で営んでいる小さな図書館。
「懐かしいな…。よく父さんと来たっけ」
懐かしさと寂しさが入り交じる扉を開くと、埃臭い匂いが鼻をかすめる。
「全然変わってないのね。壁の絵も、この匂いも。」
なんだかタイムスリップしたみたい。父はいないけれど…。
最後に来たのはいつだったか考えながら歩いていると、絵本コーナーに来ていた。
「あっ…」
背の低い絵本の棚に、どこか見覚えのある、くすんだ水色の絵本があった。
「これ、知ってる……」
『うみのくにの おひめさま』
金の鱗に白い尾ひれを持つ、黒髪が美しい人魚姫が表紙の、父がよく読んでくれた大好きな絵本だ。
絵本を手に取ると、読み古されたのか、少し黄ばんでいた。だが、どこも傷はなく、とても大切にされていたのがよく分かる。
「そういえば、昔はよく私も人魚姫になるって泣いていたな」
海に行った時は、私は人魚姫なんだから水中で呼吸ができると思って実行して父さんを困らせたこともあったっけ……思わず乾いた笑いがでてしまった。
ページをめくっていくと、私が一番大好きなシーンが出てきた。
柔らかな、それでいて雄大な海の中を、金の鱗を揺らし泳ぐ人魚姫だ。
「本当に、何度観ても美しいわね…」
空の青さも溶けてしまうような、深い碧。
その中を静かに、優雅に泳いでいる。
幼い頃は、この人魚姫の鱗が宝石に見えた。
いつか私もこの宝石を身につけるんだ、と憤っていた。
そして父に、「私もこの宝石欲しい!」と、何度強請ったことか。
困った顔をしながら、私のために小さな布に金の鱗を作り出してくれたっけ。
あの時、私は刺繍の素晴らしさに気がついた。
‘’刺繍はなんでも作り出せるんだ”って。
「思い出したよ、父さん。私は人魚姫みたいになりたかったんだった。このお姫様のように綺麗なものを身につけたかったんだよ。」
ページいっぱいに描かれた、小さな貝殻、人魚姫に纏う泡、静かに見守る魚たち。
その全てが、今の私に繋がっているように感じた。
「私は、自分のために刺繍がしたかったんだ。」
やっぱり、刺繍は私の全てだ。
静かに本を閉じ、抱きしめる。
刺繍は、想いを形にできる。
「今日は来れてよかった。あなたのお陰でインスピレーションが湧いたよ。また来るね。」
インスピレーションが湧いてくる。
針は止まることを知らない。
こんなに刺繍が楽しいと感じたのは久しぶりだ。
星が眠り、働き者のパン屋に明かりが灯る頃、ひとつの作品が出来上がった。
誰にも見せることの無い、私だけの人魚姫
人のためは、自分のため。
今の私のためは、過去の私のため。
今回は、ソルティセアが刺繍を好きになった原点のお話でした\♪♪/
雑草のように、しぶとく、まっすぐに生きていく彼女のこれからが楽しみです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
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