アルティス刺繍工房
アルティス刺繍工房。
ここは、名門ランディス一族の刺繍工房である。
5世代にわたり、繊細な技術と誇りを守り続けてきた場所だ。
今は、15歳の私が5代目オーナーを務めている。
壁には、歴代の職人たちの手による絵柄や模様が所狭しと描かれている。
この工房では、一針一針に魂を込めて、世界にひとつだけの刺繍が生み出している。おかげでレガリア帝国一の工房になった。
手のひらほどの小さな布の上で、まるで月の光を集めたような金糸が優雅に踊り、物語を紡いでゆく。
亡き父と先代たちの教えを胸に、ゆっくりと、静かに針を動かしている。
木製の高机の前で、そっと針を手に取った。
指先に伝わる金糸の滑らかさは、まるで遠い昔の記憶を撫でるようで――
「……お父さんなら、こういうとき、どうしてたっけ?」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、呟いた。
ランディス一族の継承者として、私は今日も刺繍と向き合っている。
けれど、それは誇りであると同時に、重すぎるほどの孤独でもあった。
手が震える……
思い通りに針が刺せない
なんて、誰にも言えるわけが無い。
職人として、オーナーとして、決して見られてはならない。
「ソル?眉間に皺を寄せてどうしたの?」
従業員の1人、上品な金髪が良く似合うマダム ベノン・ラズエル伯爵夫人だ。
「ベノン夫人、おはようございます。グレイシア公爵夫人からご依頼されているハンカチの刺繍なのですが、デザインを全て任せていただいていて。何がいいか迷っています。」
チラリ、と私の手を見たが、すぐに目を伏せた。
「そうねぇ、グレイシア公爵夫人なら、赤い薔薇はいかがかしら」
一瞬、手の震えがバレたのかと思ったが、そうではなかったようだ。
「赤い薔薇…ですか」
赤い薔薇……美や愛情を象徴する…だっけ?
美しいグレイシア公爵夫人にきっと良く似合うだろうな。
「ええ、グレイシア公爵夫人はね、公爵様に赤い薔薇をプレゼントされたことがあるのよ。それからというもの、ずっと大切にされているの。」
そう言ってベノン夫人は、目元のシワを深くした。
「では、赤い薔薇にします。ありがとうございます、ベノン夫人。」
「このくらい、なんてことないわ。そうそう、今日のティータイムは楽しみにしていて頂戴。美味しいイチゴのジャムがてきたから。」
それだけ伝えると、自分の仕事に戻ってしまった。
「おはよう、ソルティセア!まぁ、綺麗な薔薇ね!」
赤い薔薇を縫っていると、そう声をかけてきたのは、子爵令嬢のトーリス・ルヴェン嬢だ。彼女は、貴族令嬢の手本となるような女性で私の憧れの人だ。
「おはようございます、トーリス嬢。ありがとうございます。今日は淡いピンクのドレスなのですね。とても良くお似合いです。」
これはお世辞なんかじゃない。淡いピンクのドレスに銀のステッチがよく映える。彼女の銀色の髪と合っていて、とても美しい。
「!……ありがとう。ソルティセアにそう言って貰えて嬉しいわ!」
鈴を転がしたような声に、微笑む姿はまるで女神のようだ。こんな笑顔を毎日見ることが出来るなんて、婚約者が羨ましい。そういえば、彼女の婚約者って…。
「ーーセア?」
「…なんでしょうか?」
「ソルティセア、最近遅くまで残って仕事をしているようですが、無理をしすぎでは?仕事を詰めすぎてもダメよ?」
「はい、気をつけますね。トーリス嬢もお忙しいのに、気にかけて下さりありがとうございます。」
「いいのよ!それにね、さっきベノン夫人が言っていたみたいだけど、今日のティータイムでは特別な紅茶もあるって!」
トーリス嬢の笑顔が、また一段と輝いている。いつの間にか私の頬にも笑みが零れていた。
「ええ、楽しみです。これでもっと仕事を頑張れます。」
その時、工房の奥からルディこと、男爵家出身のヒルディ・マーシュが、ムスッとした顔で出てきた。
「ヒルディ様、朝の挨拶くらいされても良いと思うのですが…。」
トーリス嬢は、結構ハッキリ物を言うことがある。相手がルディだから、というのもあるが。
「ああ、悪い。おはよう。」
低い声でぶっきらぼうに、でも、ちゃんと挨拶をしてくれる。
ルディは無愛想だけれど、嫌な人ではない。その眼差しには確かな信頼が宿っている。
「何かあったのですか?」
彼は私よりもトーリス嬢の問いかけにはよく答えてくれる。
「いや、経理担当としてこれから今までの注文書を見ながら請求書を書かないとと思うと、な。」
「ヒルディ様がいてくださるおかげで、私達も安心して働けますわ。ありがとうございます。」
トーリス嬢が微笑みながら言った。
「これが俺の仕事だから。任せてくれ」
ルディは照れたように目を逸らしながら答えた。
「ルディ、私からも頼みますよ」
「おう」
やはり、トーリス嬢の時と答え方が違う。彼女には婚約者がいるというのに。
「おはようございます!みんな、今日も一日頑張ろう!そして、早く帰りましょう!」
来たばかりで早く帰る宣言をしているのは、アストン・ノーガ。彼は奥さんを早くに亡くし、3人の娘達のために刺繍をしていたところ、才能があったらしく父に拾われた。そして今はうちのデザイナーを務めている。
「アストン、おはよう。今日も朝から元気だね」
「オーナー、私は朝から娘たちの相手をしているので必然的に元気になるのです!」
「普通、朝から3人の子供の相手をしたら疲れてやる気が出なくなるもんじゃないのか?」
「ルディ、君も結婚して子供が出来ればわかるさ」
そう言って豪快に笑う。
「みんな、話すのもいいけど、そろそろ仕事を始めるよ。」
みんなが席に着いたから私も刺繍を再開しようとすると、唇を噛んでいるトーリス嬢が見えた。
「トーリス嬢?どうかしたのですか?」
私の問いかけに驚いたような表情を浮かべたが、すぐに元の可愛らしい笑みを浮かべた。
「針を刺してしまって…心配させてしまってごめんなさいね…でも、こういう小さな失敗も、成長には付き物ですものね?」
「えぇ、そうですね。傷は大丈夫ですか?針の扱いには充分気をつけてくださいね」
「はい、ありがとうございます。ソルティセア」
時間が進む音だけが響く。
「ソル、そろそろ昼食にしましょう」
ベノン夫人の声でやっと12時をすぎていることに気がついた。
「いつも教えて頂きありがとうございます…。気をつけてはいるのですが、つい熱中してしまって…」
「いいのよ、気にしないで。それだけ集中できているということでしょう?素晴らしいことよ。」
「ありがとうございます。」
「気にしなくていいのよ。さぁ、昼食にしましょう。トーリス嬢も待っていますよ。」
「あ……すみません、ベノン夫人。今はそんなにお腹が空いていなくて…。ティータイムには必ず参加させていただきます!」
「大丈夫なの?一口だけでも…」
「すみません。本当に大丈夫ですので、ご心配頂きありがとうございます。」
「分かったわ。ゆっくり休むのよ」
「はい。ベノン夫人もごゆっくりお休みくださいね」
ベノン夫人が去ったのを確認した私は、2階の父の部屋に向かった。
ここにいる間は手の震えが止まった。安心できる場所だからなのかな。
「お父さん、私ちゃんとできているかな…。お父さんが守り通したこの工房を、私も守れるのかな……。」
時計の針は進んでいくのに、私の心はこの部屋のように時間が止まったままだ。
首から下げているロケットをギュッと握りしめた。
「もう戻らなきゃ」
普段はこんなに静かな工房ではない。
春から夏になる時期は衣替えで繁忙期になる。だから、みんな自然と口数が減り、静かになってしまうのだ。
赤い薔薇が、今日はやけに小さく感じる。いつもだったら、もう花弁が開いているのに。
未だ蕾のままだ
「ーーーィセア」
「え、ソルーー」
「ソルティセア」
肩にそっと手が置かれる。振り向くと、ベノン夫人の姿があった。そこでやっと、皆が私を呼んでいることに気がついた。
「ごめんなさい、また気が付かなかった……。」
「3時になったから声をかけようとしたんだが…。ソル、大丈夫かい?私達の声が聞こえなかったようだが」
「アストン、大丈夫よ。ごめんなさいね。」
「さぁ、ソルも気がついたみたいなので、ティータイムにしましょうか」
ベノン夫人の声で、みんなの顔に笑顔が浮かんだ。
私にはその笑顔がどこか羨ましかった。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
この回はティータイムのほんわかした空気が大好きで、書いていてとても楽しかったです!
次回もソルの小さな心の動きにご注目くださいね。
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