後編
監禁されてから1時間以上が経った。
私には分かった。部屋に時計の類はないが、はっきり禁断症状が出ている。残り少なくなった髪を掻き毟り、私は何度も何度も貧乏ゆすりを繰り返した。
頭が痛い。さすがにアルコールは抜け始めていたが、依然ぼうっとしたままだった。部屋の中央には、先ほど放り出したタバコとライターが転がっていた。一本吸えば……一本吸えればそれだけで落ち着くのだが。喉がヒリヒリと灼けて、どうしようもなく安息のひと時を求めていた。
口の中に広がる葉の香り。
肺胞の隅々まで行き渡る安心感。
鈍い頭を覚醒させ、やる気を漲らせる約5300種類の化学物質。
吸いたい。吸いたい。肺がニコチンを求めていた。タールを求めていた。ヒ素を、アンモニアを、ダイオキシンを思いっきり吸い込みたかった。目の前にタバコがある。なのに吸えない。それが余計私を苛立たせた。
思えば私は社長になってから、我慢と言うものをほとんどしてこなかった。
やりたい放題やってきたし、欲しいものは何でも手に入った。部下は怒鳴り散らせば言うことを聞いたし、また大抵の相手は、鼻薬を嗅がせれば何とかなるものだった。その私が、まさかこんな形で我慢を強いられることになろうとは。
家族は、会社の者は今頃何をしているだろう?
急にいなくなって、警察に届けでもしてくれれば良いが。かかりつけの医者か、お抱えの運転手が異変に気づいてくれないだろうか? あの人のことだから、どうせ仕事をサボってまたゴルフにでも行っているのだろう。もしかしたらそんな風に思われているかもしれない。私は顔を顰めた。
部屋の隅に座り込み、霞む瞳で、私はぼんやりと虚空を見上げた。窓はないが、スピーカーの横に照明もまた埋め込まれている。あれから何度か試したが、やはり扉はビクともしなかった。今が朝なのか夜なのかも、中々判断が難しいところだった。此処は何処だろう? 何処か郊外の倉庫か、はたまた地下室か……。
「……君はあの娘の父親かね?」
見えない監視者に向かって、私は問いかけた。
「目的は復讐か。どうなんだ?」
『…………』
「しかし……君の気持ちも分からんではないが、私にだって言い分はある。私は社長として……何千人もの従業員の生活を預かる立場なのだよ」
『…………』
「あのゴルフ場を建設しなかったらどうなる? もし我が社が潰れたら、その何千人が路頭に迷うことになる。君こそ、その責任が取れるのか?」
『…………』
「……ええい、何とか言ったらどうなんだ!?」
カメラもスピーカーも、沈黙したままだった。私は苛立ちに任せ拳で床を強く叩いた。
……実際のところ、本当にメタンガスが充満しているのだろうか?
床に転がったタバコを一心に見つめながら、私は朦朧とする頭で考えた。ハッタリかもしれない。そこまで手の込んだことをするだろうか? だとしたらやはり、よほど私を恨んでいる人間に違いない。
……心当たりがありすぎて、とても1人に絞れそうになかった。
一本だけなら。胸を搔き毟りたくなるような衝動が私を突き動かした。無意識にタバコに手を伸ばし、それからハッとなって手を引っ込める。それを数回、いや数十回は繰り返した。一本だけなら……いや。メタンガスは家庭用スイッチのオンオフ程度でも着火してしまう。ダメだ、気が遠くなってきた……。
……そのうち私は、半ば気絶するように眠ってしまった。
それから。
どれくらい時間が経ったのだろうか。目を覚ますと、部屋の様子が微妙に変わっていた。中央に携帯用のガスコンロが置かれている。それからフライパンと、豚肉も。
『オハヨウゴザイマス。社長』
天井から無機質な声が降ってきた。恐らく男性だとは思うが、そこから人物は想定できない。気のせいか、先ほどとは口調が変わっているような。私は妙な違和感を覚えた。
『お腹が空いたでしょう。食事をどうぞ』
「き……貴様……!」
たちまち空腹が襲ってきて、私はギリギリと歯軋りを繰り返した。豚肉が生で食えないことくらい、今時小学生でも知っている。自分で火を着けさせようと言うのだ。あくまで私の手で、自らの首を絞めるように……何処までも陰湿で、卑劣な輩だった。
怒りと、空腹と、それから禁断症状と。このままでは私は気が狂ってしまいそうだった。乱暴に上着を脱ぎ捨て、それを何度か空中に投げて、監視カメラの前を覆うように引っ掛けた。
「どうだ! これで見えまい!」
スピーカーから返事はない。悪あがきとは分かっていても、叫ばずにはいられなかった。汗と、涙と、それから涎と。その全てを拭い、私は徐に立ち上がった。
何とかして此処から脱出しなければならない。
考えろ。
私は狭い部屋を見渡した。タバコがある。それからガスコンロとフライパンに、豚肉もだ。何か方法があるはずだ……何か……。
※
数時間後。大きな爆発音がして、幸人は体を起こした。
モニターは真っ黒で、部屋の様子は確認できない。
「やったのか?」
ガクガクと揺れ動く画面を見つめ、彼は一人呟いた。やった。恐らく奴は火を着けた。ライターか、ガスコンロかわからないが、とうとう痺れを切らしたって訳だ。
しばらくはこう着状態が続いていた。高砂社長は、監視カメラに映らないように上着でレンズを隠した。目が塞がれたが、幸人はそれほど心配していなかった。扉は一つしかなく、逃走手段はない。今頃奴はタバコと豚肉の前で、ダラダラと涎を垂らしているはずだった。
こちらが待ちくたびれるか、向こうが限界に達するか。我慢比べの戦いは数時間続いた。そうしてようやく、決着が付いたと言うわけだ。
幸人は弾かれるように立ち上がり、近くにあった監禁部屋へと向かう。事故が起きたゴルフ場の、裏山に密かに作った倉庫。そこに件の社長を閉じ込めておいた。倉庫に近づくと、火の手が上がり、巨大な煙が空に向かって立ち上っているのが見えた。
火を着けた以上もう助からない。メタンガス爆発は気相爆発ともいい、ジェットエンジンの仕組みに似ている。爆発の威力は密閉強度などで異なるが、今回幸人が用意した分なら、倉庫ごと木っ端微塵にするのに十分な量があった。
ハンカチを口に当てた。煙を吸い込まないように、幸人が慎重に近づき……そこではたと立ち止まった。
倉庫はまだ健在だった。爆発が起きたことは確かなのだが、予想とは違い、全壊している様子はない。不審に思いながら、彼はゆっくりと倉庫の扉を開けた。
「これは……」
中は滅茶苦茶になっていた。吹き飛んだ瓦礫が床に散らばり、その中で高砂が蹲っているのが見えた。
生きている。
幸人は目を見張った。
「うぅう……!」
「……どうやって」
「うぅ……糞ッ! しかし……はぁはぁ、やった、やったぞ! ハハハ! ハハハハハ!」
高砂が呻き声を上げながら哄笑した。その右手にはフライパンが握られている。恐らくそれで顔面を守ったのだろう。左手にはベルトが握られていた。
「……なるほど。天井を壊したのか」
頭上に登っていく煙を見つめながら、幸人は頷いた。天井には大きな穴があり、そこから濛々と煙が吐き出されていく。反面、壁や床は原型を保ったままだった。
天井の、恐らくスピーカー部分を壊した。ベルトのバックルで叩きつけ破壊したのだろう。メタンガスは空気よりも軽い。天井に穴を開ければ、そこからガスを上部へ逃すことができる。
しかし、それだけでは天井は打ち破れなかったはずだ。
「どうやって……?」
「うわはははは! どうだ、見たか!」
幸人は首を捻った。ライターにしろガスコンロにしろ、自分の手で着火しなくてはならない。爆心から離れることは不可能なはずだった。
再び社長に目を向ける。上着を脱ぎ捨て、シャツは煤だらけになっていた。何故かズボンも脱いでいる。そこで幸人はハッとなった。
「スーツの糸を解いて……それでスイッチを引っ張ったのか」
糸だ。ガスコンロを壊れたスピーカーの穴に設置し、床下から糸を引っ張って着火させた。即席の遠隔装置と言うわけだ。それで天井部分だけが吹き飛んだ。
「なるほど。伊達に社長をやっているわけではなさそうだ」
「貴様は……確か」
高砂が般若のような形相で幸人を睨んだ。
「医者か!」
高砂が幸人の顔を確認し吐き捨てた。幸人は黙って頷いた。幸人は高砂の、かかりつけの医者だった。
「どうしてこんな真似を……」
「禁煙させるためですよ」
「何?」
「わがまま放題な貴方を、無理にでも禁煙させるには多少強引な方法を取るしかなかった」
「貴様、私を殺そうとしたな!」
高砂はすでに幸人の話を聞いちゃいなかった。顔を茹蛸のように真っ赤にし激昂し始めた。
「こんなことをして、どうなるか分かっておるんだろうな!? 危うく死ぬとこだ!」
「社長、残念です。貴方にとっては最後のチャンスだった」
「今すぐ警察に突き出してやる! 覚悟しておけよ!」
「貴方はすでに肺がんに侵されています。今すぐ禁煙して専門的な治療を始めなければ、どっちみち貴方は死ぬんだ……」
……今回の件は、爆発事故で娘を亡くした親友に頼まれてのことだった。幸人が社長に近いことを知り、最初は、薬に毒を混ぜて殺して欲しいとお願いされた。
幸人は断った。医者として人を殺すような真似はできない。とはいえこのまま放っておけば、友人が殺人犯になりかねなかった。
「だったらアイツに自分で選ばせるってのはどうかな?」
憔悴する友を前に、幸人はそう提案した。
「俺だって悔しいよ。だけど、人為的な過失があったとはいえ、事故は事故に違いない。お前が人殺しになっちゃいけない。それだけはいけない」
「…………」
「法で裁けない以上……こっちも同じ状況に追い込んで、アイツに選ばせてやるんだ。運命がまだ奴に味方するのなら、自ら生きる道を選ぶだろうさ。そう言うことなら俺だって協力してやる」
なおも喚き続ける社長を見下ろし、幸人は胸ポケットからタバコを取り出した。そろそろ煙に気づいた近隣住民が通報している頃だろうか。親友は今頃、会社だろう。交代で番をする予定だったが、これもまた運命なのかもしれない。結局は自分も、自ら道を選んでしまった。
「社長、知ってましたよね? 東京の下には大規模なメタンガス田があって、たびたび爆発事故を起こしている……死亡者も出ています」
幸人はタバコを咥え空を見上げた。晴れていた。黒煙が、青空に混じり、水墨画を作っているようだった。綺麗だな、と彼は思った。
「地下鉄を作ったり、温泉を掘ったり……ゴルフ場を作ったり。メタンガスが噴き出してしまえば、いつ何処で爆発が起きても不思議じゃないってことですよ。たとえこんな、小さなタバコの火だろうともね」
魚のように口をパクパクと動かす高砂を見下ろし、幸人は笑った。思えばこの患者には散々苦労させられた。診察室でも構わず吸いまくる彼のせいで、幸人にもまた、ステージ1の疑いがあった。
「……あくまで噂ですけどね」
そう言うと彼は、最後のタバコに火をつけた。