王妃の最期
「熱い、熱いよお、母さまぁ……! 」
自分の耳元で聞こえてくる、我が子の悲痛な叫び。
王妃は、止まらない涙を、懸命に拭った。
自分の最後の記憶が、愛する子供の顔であれるように……。
涙は身体中の水分の全てを使ってしまうんじゃないかと言うほど溢れてくるのに、彼女たちを囲む炎は、益々燃え盛るばかりだった。
「母さま、父上はどこへ行ったの?」
涙をふいて、いくらかははっきりとした視界に最初に映ったのは、娘の無垢な瞳だった。その目は、諦めを知らぬ、純粋な……。
(なんて不憫な、私の娘)
王妃は、ふるふると首を振り、目を閉じた。
脳裏に映るのは、彼女が愛したーーその人の無惨な姿。
「あぁっ……ヘンリエッタ、あの方は、もう、」
真実を口にしかけた王妃に、少女は、いった。
「助けに、来て、くれるん…でしょ……? 約束、してくれたもの」
力なく笑う娘に、王妃は、パクパクと声にならない叫び声をあげた。
ーーあぁ、なんて愛おしい子。今この母にできることは、あなたの清らかな心を守ること、それだけね
王妃は、娘の乱れた髪を、手でゆっくりと梳いた。この可愛らしい子を、愛でるために。
そして、右手で、結い上げた自分の髪の中をさぐった。
「ねぇ、ヘンリエッタ」
娘は、母の顔を、ゆっくりと見上げた。
彼女たちがいる部屋は、息苦しく、視界は見渡す限り深紅の赤。本当は夢なのではないかと錯覚する程であった。
「……母さま?」
哀れな姫君の母は、泣きそうな顔をしていた。
彼女は、知っていた。この顔はーー
「……っ母さま!」
爛々と燃える赤い世界、2人きりのその世界に、悲痛な叫び声が響き渡った。
床に敷かれたカーペットが、赤く染まっていく。
ポタ、ポタ……それと同じ赤い色が、幼い少女の美しい白い肌をつたい……。
ーー栄光ある王の妃、国の一番の栄華を誇ったはずの女は。
ーー愛する我が子を、殺した。
「…ぁああぁあぁああぁっ!」
彼女は、出せる限りの声で、体の芯から叫んだ。
彼女の腕の中で、娘は静かに眠っている。赤い涙が、彼女の身体を染めていた。
「私の可愛い娘……苦しまずに、逝ってほしいの……どうか、分かってちょうだい」
王妃は、娘の首につき刺さったナイフを、力の限りで引き抜いた。グギイイッ、と、気味の悪い音がなる。
途端に、ぶぁぁぁっと、細く流れていただけだった赤い線が、滝のように吹き出してくる。
王妃の頬にも、それはつたっていた。
「ハハッ……」
王妃は力なく、かわいた笑い声を上げ、天を仰いだ。
そして目を閉じ、胸に手を当てた。
思い出すのは、彼女がたしかに幸せだった頃の記憶。
この城は、いつも笑い声で溢れていて……愛に満ちていた。
『愛しているよ、私の姫君』
自分の隣には、凛々しいあの人がいて……。
『母さまー! 父上!』
前からは、可愛らしい自分の娘が、とてとてと駆けてきて。
『お妃様!』
自分に忠誠を誓ってくれた、頼れる侍従たちがいて。
『王妃殿下!』
笑顔で自分たちに手を振ってくれる、民がいて。
「あぁ…、私、幸せだったなあ」
バリバリバリッ…軋む大きな音がして、王妃はその方を見た。
近くにあった背の高い棚が、全壊したようだった。
もはや私もこれまでか、と、王妃は迫り来る恐怖にも、目を開けたまま佇んでいた。
ーーさようなら、私の愛したすべてのものよ