中山裕介シリーズ第6弾
やがて生放送の十九時が近付き、
「はい! 本番十秒前ー!」
いつも通りフロアディレクターがカウントを始めた。当の奥村アナは少し緊張しているように見える。
十九時になり、いつものように画面にはテーマ曲とタイトルが表示され、数秒後にスタジオへと切り替わった。
最初は平田アナのアップからカメラが引いて行き、セット内全体を映す。その後は平田、奥村両アナと安藤キャスターのアップに切り替わった。
「こんばんは」
平田アナの挨拶と同時に三人は一礼。奥村アナはやっぱり堅い表情……かと思いきや、満面の笑み。ニュースを読める嬉しさもあるのだろう。取り敢えず桝谷Pが出した条件はクリアした。
「良かったあ。笑ってくれて」
桝谷Pは安堵の溜息を吐く。
「あれが「プロ」ってもんじゃないですか」
下平Dは桝谷Pの言動を見て笑う。
「そういう事だな」
野瀬CPもモニターを見詰めたまま笑った。
「今日から奥村さんにもニュースを担当して頂きます」
平田アナの紹介に、
「はい。宜しくお願いします。新人に戻ったつもりでニュースを読ませて頂く所存です」
奥村アナは笑顔のまま、カメラに向かって再度一礼。
「では今日も今週のニュースからお伝えして行きます」
最初こそ、プロデューサーとディレクターを安堵させた奥村アナだったが――
「では火曜日のニュースです」
火曜日のニュースの始めは、あるセレモニーで明るい話題だったが、奥村アナはいつもの堅い表情に戻ってしまう。
「あれ程明るいニュースは明るめにって条件出したのに……」
桝谷Pがぼやく。
「あの表情が彼女の持ち味なんじゃないですか」
一応弁護する。
「そんな言葉じゃ片付けられないわよ」
桝谷Pはこちらを振り返って否定。そして今度は諦めの溜息。
「新人の頃からあの表情だけは変わらないですね。放送後の打ち合わせでこっ酷く注意してやりましょうよ」
下平Dは桝谷Pの方を見てニヤリとする。いたずら心満載なやっちゃ――
だが、
「そうね。これだけは確りと直して貰わなきゃ困るわ」
桝谷Pも下平Dの方を見てニヤリ。いたずら心満載な人がもう一人いたか――
「かわいそうに。今日は初日だから緊張してるだけだよ」
「そうですよね。二人共意地悪過ぎ」
野瀬CPと多部Dだけは奥村アナに同情するのだが――
「だってニュースはアナウンサーの印象も大事でしょ? それくらい二人も分かるでしょうよ」
「桝谷さんの仰る通り。多部もそう思ってるくせに」
「確かにそれは分かるけど……」
「オレも二人の気持ちは十分分かるけどな……」
野瀬CPと多部Dは、桝谷Pと下平Dに撃沈。こういう時の女は強い――
「分かってるなら、二人もちゃんと注意してよね」
桝谷Pが釘を刺す。それに対し、
「分かったよ」
「はい……」
野瀬CPと多部Dはこう答えるしかなかった。そして――
「では、また来週お目に掛かります」
平田アナの挨拶で出演者全員が一礼し、番組は終了した。その後の打ち合わせではやはり――
「ちょっと奥村、明るいニュースは明るめにって条件出したわよね」
桝谷さんは眼光鋭く奥村アナを睨む。
「済みません。緊張してて。(表情が)堅かったですか?」
奥村アナは頭を下げるも、
「堅くなかったら指摘なんかしないよ」
下平も奥村アナを鋭く睨む。
「お願いだから来週からは気を付けてくれ」
「次から気を付けてくれたらそれで良いから」
野瀬さんと多部は優しく注意する。が――
「そんな注意の仕方じゃ直らないわよ、この子は」
桝谷さんは今度は野瀬さんと多部を鋭く睨む。
「ごめん……」
「済みません」
野瀬さんも多部も神妙となる。
「別に謝らなくて良いけど。奥村、あんた新人研修の時に今回のような事を注意されて泣いてたじゃない。その時の涙を忘れたの?」
「本番中に「新人に戻ったつもりで」って言ってたけど、あれじゃ本当に「新人」に戻っちゃったね」
桝谷さんと下平に立て続けに責められた奥村アナは、
「別にあの頃の涙は忘れてはいませんけど……」
訥弁となってしまう。
目にはうっすらと涙が滲んでいるように見える。これが奥村アナの悔し泣きか。かわいそうだと思うが、桝谷さんと下平の態度を見れば、助けてあげられる自信はびた一文無し……。
「奥村、あの状態が続くようじゃ、ニュースからは抜けて貰って、また新しいキャスターを探すからね」
「そうした方が良いですね」
おい、桝谷さんも下平も、それは言い過ぎだろう。二人はドSだ――
「二人共、そこまで言わなくても良いだろう」
野瀬さんも困惑してしまう。
「だって明るい表情が(本番中に)出来なかったらそうするしかないでしょ?」
「その通りですよ」
「桝谷さんも下平も責めるのはその辺で良いでしょう」
多部も黙ってはいられなくなったようだ。それに乗じて、
「多部の言う通りですよ。二人共責め過ぎです」
やっと援護が出来た。
「別に責めてるんじゃないわよ」
「そうだよ。只注意してるだけ。あたし達は」
「その注意の仕方が酷過ぎるんです」
今度は沢矢さんが援護して来る。彼女も黙って見ていられなくなったようだ。
「酷過ぎるって言われても……」
「あたし達は番組と彼女の事を想って言ってるだけだし……」
今度は桝谷さんと下平が訥弁となった。
「本番中にも言ったけど、ニュースとアナウンサーの印象は大事じゃない」
桝谷さんが反論する。
「それは確かにそうですけど、二人で寄ってたかって」
「だから責めてるんじゃないって。「注意」だよ。注意してるだけ」
今度は下平が反論した。
「もう私の表情が堅いのは十分に分かりました。来週から身を引き締めて明るいニュースは明るく読めるように頑張りますので、新しいキャスターを探すのは勘弁してください」
奥村アナの目から遂に大粒の涙が溢れる。
「あ~あ。泣かしちゃったぞ、お二人さん」
今まで黙って見ていた虎南さんが茶化す。
「私達を苛めっ子みたいに言わないでくださいよ」
「そうですよ」
桝谷さんと下平は口を尖らせるが、今更かわい子ぶってももう遅い。
「奥村、ちょっと言い過ぎたのは悪かったけど、本当に来週からは気を付けてよ」
「プロデューサーが出した条件は確りと守るように」
桝谷さんと下平が注文を付けると、
「はい。十分に気を付けます。今日は本当に済みませんでした」
奥村アナは再度、今度は深々と頭を下げた。だが涙はまだ止まっていない。
が、もう一ついわせて貰うと、奥村アナの表情が堅いのは「今日」だけじゃなくていつもなんだけど……。
「分かってくれたらそれで良いのよ。もう泣かなくて良いから」
桝谷さんがやっと笑顔になり、ティッシュ箱を奥村アナに差し出す。
「ありがとうございます」
奥村アナは受け取り二枚取り出すと、涙を拭った。
「よし。今日の打ち合わせはこの辺で良いだろう。奥村、本当に頼んだぞ! 来週から心機一転でニュースを読んでくれ。な?」
野瀬さんの言葉に、奥村アナは「はい」と答える。奥村アナもやっと笑顔になった。
「今日はこれで解散だ。皆お疲れ様」
野瀬さんの号令により、打ち合わせは終わった。ああ、この重苦しかった雰囲気からやっと解放されるかと思うと何だかホッとする。
車で珠希を自宅近くまで送る為、珠希を助手席に乗せてTVヒーローズを後にした。
「奥村さんって、本当に悔し泣きするんだね。生で見ちゃった」
珠希は妙に嬉しそうに言う。
「オレも初めて見たよ。あそこまで責められたら、そりゃ泣いちゃうよな」
「友達にLINEしても良いよね?」
ははーん。嬉しさはここにあったか。LINE出来るネタが見付かった事に。でも――
「LINEなんて遣ってたんだ」
「うん。花魁居酒屋で働いてた頃の友達数人とね。「業界の裏話教えてー」ってせがまれちゃって」
「別に友達くらいに送るのは良いけど、あんまり無闇に送るなよ。機密な事まで拡散しちゃうから。何処から週刊誌とかにネタが漏れるか分からない時代だからさ」
だがその友達から拡散すのは必至――
「大丈夫。それは心得てるから。これは大丈夫。これは止めておいた方が良いって判断した上でLINEしてるからね」
「なら良いけど、後、奥村さんが泣いた事をファイスブックやツイッターに掲載したりするなよ。それこそ奥村さんのプライドを傷付ける事になるから」
それこそ週刊誌にネタを売る事になる。
「それも大丈夫。ファイスブックもツイッターも遣ってないから」
「そう」
車を走らせて約四十分。
何だかんだ話している内に、珠希のマンション近くに到着した。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。お疲れ様」
「お疲れー」
珠希と別れ、オレはチハルのマンションへと帰る。
翌週の木曜日。会議に行く前に事務所のデスクでノートパソコンをネットにつなぐと、『TVヒーローズの新人 水奈りかアナが『NEWS YOU』のスポーツキャスターに決定』という記事が掲載されていた。
その下の項目を見ると、ご丁寧にも『グチが実った! 奥村真子アナウンサー『NEWS YOU』のニュースキャスターに昇格』という、先週の放送を扱ったニュースもある。
水奈アナのニュース記事を読んでみると、『TVヒーローズの新人、水奈りかアナウンサーが、『NEWS YOU』の新スポーツキャスターに抜擢されたことが分かった。今週の放送から早速登場する予定だという』とあった。
「おい珠希、ちょっとこっちに来てみろ」
「何々? どうかしたの?」
自分のデスクにいた珠希は立ち上がり、オレのデスクの方へ向かう。
「新しいスポーツキャスターが決まったんだとさ」
「えっ、早いねえ。私達に報告もされずに?」
「きっと奥村さんが「ニュースに専念したい」って野瀬さんか桝谷さんに訴えたんだろうな」
「今日の会議でこの事を追求してみようね」
「何で?」
「何でって、私達に連絡もなく決まっちゃってるんだもん」
「キャスティングはAPの仕事で、普通作家には相談されないけど、新キャスターが決まった事も急だし、何より連絡もなかった事は確かにおかしいな」
「でしょでしょ? だから修一おじさんと桝谷のおばさんを追求してみよう」
「いい加減「おじさん」「おばさん」呼ばわりは止めてあげなさい」
十四時からの会議に間に合うように事務所を出、近くのコインパーキングに駐車した車の助手席に珠希を乗せ、TVヒーローズへと出発。
約三十分でテレヒロへ到着し、地下駐車場に車を停車させると、エレベーターで会議があるA6 会議室を目指す。
「少し(着くのが)早かったんじゃない?」
「遅刻するよりかは良いだろう。いつ渋滞するか分からないし」
「まあね」
A6 会議室に到着しドアを開けると、虎南さんと沢矢さんは既に到着していて、野瀬さんと桝谷さん、下平達と談笑していた。
「おはようございます」
と挨拶すると、
「おはよう」
「オッス!」
「ユースケ達も早いね」
などとそれぞれの返事が返って来る。
「所で修一おじさんと桝谷のおばさん、今日知ったんですけど新しいスポーツキャスターが決まったそうですね?」
珠希はいきなり本題に入った。追及する気満々だ。
「ああその話」
桝谷さんは「おばさん呼ばわりするな!」とは突っ込んで来ない。野瀬さんも然り。二人共諦めたか?
「え? そうなのか?」
虎南さんは知らなかったようだ。
「私も午前中、ネットのニュースで知りました」
と沢矢さん。
「っという事は、二人にも連絡はなかったという訳ですね?」
「そういう事だ」
「私もニュースを読んで驚きましたもん」
虎南さんはクールに、沢矢さんは苦笑した。
「あたしも昨日聞いたばっかなんだよ」
下平も苦笑。
「ディレクターにも知らせなかったんですか?」
「それだけ急だったんだよ。連絡しなくてごめん」
野瀬さんが頭を下げる。
「実は先週の放送の翌日に、奥村から「ニュースを読むのに専念したい」って相談されてね。急遽人選する事になっちゃったの」
桝谷さんも苦笑を浮かべて言う。
やっぱり予想した通り。奥村アナの願いを叶えてあげた訳か。
「それで、水奈さんに決まったという訳ですね」
珠希は眼光鋭く追及する。
「そうなの。新人の方が番組が弾むと思ってね」
「急だったから連絡出来なかったとか?」
珠希の追及は止まらない。
「そんなに責めないでよ。忙しくて連絡する暇がなかったの。本当にごめん」
今度は桝谷さんが頭を下げる。
「そういう訳でしたか。珠希、もう事情は分かったんだから追及はその辺で良いだろう」
「そうだね」
眼光鋭かった珠希の目がやっと柔らかくなった。
「珠希は好奇心の塊だね」
下平は呆れて笑う。
「どうしても事情を知りたかったんで」
会議十分前。
「ああ間に合って良かった」
「どうも、遅くなりました」
大畑と多部がどかどかと会議室に入って来た。
「お二人さん、新しいスポーツキャスターが水奈りかさんに決まったの知ってましたか?」
「もう良いだろう、珠希」
珠希はやっぱり追及する。但し、今度は笑顔だけど。
「ああ、昨日桝谷さんから電話があったよ」
「やっぱり多部も昨日聞いたばっかなんだ」
「やっぱりって、下平も?」
下平が黙って頷く。
「オレは今初めて聞いたよ」
大畑はふて腐れたような顔付きになる。
「急で忙しかったから連絡出来なかったんですって」
珠希から事情を告げられた大畑は、
「ああ、そういう事だったの」
とあっさり納得した様子。
「新しいスポーツキャスターの水奈りかも、男性器と同じだ」
大畑は頷きながらしみじみと言う。
「またそれかよ。下品な事を真顔で……」
オレも他の皆も呆れている。沢矢さんも然り。流石に飽きたのだろう。
「だって、お互い擦ると良いの出るだろうからさ」
室内にいる者は皆微苦笑を浮かべるのみ。でも大畑の満足そうな顔……仕方ないから付き合って遣っているのに。
「本人に言ってみろ。絶対引くから」
「引かれてもオレは構わない。試しに言ってみる」
大畑はニヤリとする。心が強いんだか何だか――
「止めておきなさい」
「そうそう。いつかセクハラで訴えられるよ」
桝谷さんと下平は諭すように言う。
「ちっ、つまんねえな」
大畑の不服そうな顔。確かに止めておいた方が賢明だ。
やがて定刻の一四時となり、
「よし! 十四時になった。大畑君、気を取り直して会議を始めよう」
「そうだな。大畑、良いギャグだったぞ」
野瀬さんと虎南さんの致し方ない説得により、「分かりましたよ」大畑は尚も不服顔のまま、会議は始まった。
土曜日の放送終わり、いつものように打ち合わせをしていると、
「奥村、明るいニュースは明るめに読めるようになったじゃない。先週とは全然違ったわよ」
「桝谷の言い付けを確り守ってくれたんだな。大きな進歩だぞ」
桝谷さんと野瀬さんに立て続けに褒められた奥村アナは、
「ありがとうございます。今日は特に気を付けました」
はにかんで笑う。奥村アナのキャリアからすれば少し大甘な気もするが、プロデューサー二人が満足しているんならまあ良いか。
「これからも気を付けるんだぞ」
野瀬さんの言葉に奥村アナは「はい!」と元気良く答えた。
「所で、木曜日の会議で十月から『ニュース7』対策で、十八時四五分から番組をスタートさせたらどうかという案が出たの。平田にお願いしても良い?」
桝谷さんが本題に入る。
「私は構わないですけど、何を遣るんですか?」
「十五分間で土曜日のニュースと特集のヘッドラインを紹介するの。どう?」
「なるほど」
平田アナは頷きながら桝谷さんの説明に聞き入る。
この案は虎南さんが出したもので、そこにオレ達が肉付けして行った。
「それ、私に担当させてください」
突然、奥村アナが手を挙げた。
「え!? 奥村が?」
桝谷さんは意表を突かれたご様子。
「平田にばっかり負担を掛けさせちゃかわいそうじゃないですか。今日のように明るいニュースは明るく紹介するよう心掛けますんで、お願いします」
奥村アナは頭を下げて懇願する。
平田アナばかりに負担を掛けてはかわいそうではなく、平田アナより目立ちたいだけではないのか? こう邪推してしまうオレ。本心はどうか分からないけど。
「どう思う?」
桝谷さんが野瀬さんに振る。
「奥村がそこまで言うんなら、奥村に任せよう」
「ちょっとマジで言ってるの? 私は平田の方が良いと思うんだけど」
桝谷さんは折れない。
「本当に明るいニュースは明るく読みますんで、お願いします!」
奥村アナは、今度は語気を強めて懇願する。こんなにガチな奥村アナを見るのは初めてだ。よっぽど平田アナより目立ちたいのか、よっぽどニュースに対する拘りが強いのか、それとも両方か。また邪推。
「さっき奥村も言ったように、平田にばかり負担を掛けさせる訳にはいかないだろう」
「そりゃそうだけど……平田はどう思う?」
「私ですか? 私は先輩の奥村さんにお任せした方が良いと思います」
平田アナは先輩を立てる。
「優しいね、平田は」
下平は感慨深げに言う。
「どうでしょう、桝谷さん、平田がお任せした方が良いと言うんなら、奥村に任せてみるっていうのは」
下平の発言に対し、
「そうね。そこまで言われちゃしょうがないわ。奥村、頼んだわよ」
桝谷さんはやっと折れた。
「よし! 決まったな」
野瀬さんが柏手を打つ。
「ありがとうございます。明るい表情を心掛けます」
奥村アナは深々と頭を下げるが、顔は満面の笑み。こんなに嬉しそうな奥村アナの表情を見るのも初めてだ。「ニュースを読め」と命じられた時よりも喜んでいるような気がした。
こうして十月の改編で番組は十八時四五分からの開始となり、奥村アナも「番組の顔」の一人として、一人でカメラの前に立つ事になった。
この話題は九月下旬にスポーツ各紙でも、『TVヒーローズの奥村真子アナ『NEWS YOU』の新たな顔に』と報じられ、奥村アナは取材に対し、『身の引き締まる思いで、報道の仕事に専念する決意もしました。私らしく視聴者の皆さんに分かり易くニュースをお届け出来るよう頑張りたい』とコメントした。
土曜日の放送終わり、打ち合わせも終えた後、
「もうバラエティに出るつもりはないの」
それとなく訊いてみると、
「うん。スポーツ紙での取材でも答えたように、報道の仕事に専念したいから」
と奥村アナは笑顔で答えてくれる。
「うちは「報道」ではなく「報道系情報」番組なんですが……」とは思ったものの、ニュースを扱った番組でもあるから、まあ良いや。
「そう。決めたんだ」
「うん。私は元来報道志向だから」
「バラエティに出演してる奥村さんも面白かったけどな」
「そうなんだ。ありがとう。でももうバラエティに出演する事はないから」
奥村アナは頑なである。
「そうか。ちょっと残念な気もするけど」
「面白いって言ってくれたのユースケさんだけだけど、もう報道の仕事に専念する」
奥村アナは折れなかった。これくらいの説得では駄目な人である。
だがその矢先の十月中旬の土曜日。いつものように奥村アナは他の出演者よりも一足先にスタジオ入りし、カメラの前に立つ。
「はい! 本番十秒前ー!」
フロアディレクターのカウントが始まり、奥村アナは大きく深呼吸していざ本番。
「こんばんは。では今日入って来たニュースのヘッドラインからです」
奥村アナは笑顔で進行して行く。ここまでは良かったのだが――
「おい。原稿入ってねえよ」
突然、男性の声が流れる。一体誰の声? と思って観ていると、実は奥村アナに原稿を渡す係りの多部の声を、奥村アナのピンマイクとテーブルに置かれたマイクが拾ってしまっているのだ。
その後も、「おい。(原稿は)まだかよ」、「遅せえんだよお前」と、マイクは多部の声を拾いっぱなし。
男性ADが駆け足で原稿を多部の所まで運び、
「では今日の特集です」
何とか番組は進行して行くのだが、
「何遣ってるのよ多部」
桝谷Pは舌打ちし、
「あれは酷いな」
野瀬CPは溜息を吐く。
「以上、今日のニュースと特集の内容をお伝えしました。詳しくはこの後直ぐの『NEWS YOU』でお伝えします。ぜひご覧ください」
奥村アナは何事もなかったかのように、笑顔で担当コーナーを締め括った。
サブに戻って来た多部を、桝谷Pは鬼の形相で睨み付ける。
「何ですか、そんな怖い顔して。何か問題でもありましたか?」
多部は自分が犯したミスを全く分かっていない。
「大ありよ!」
「お前の声、全部マイクが拾ってたぞ」
桝谷Pは声を荒げ、野瀬CPは渋い表情で告げる。
「えっ!? マジっすか。済みません」
急に神妙になる多部。やっと自分が犯したミスに気付く。が――
「もう遅いわよ! (番組終了後の)打ち合わせの時覚えてなさいよ」
桝谷Pにこう言われた多部は、
「済みませんでした……原稿の入りが遅かったんでつい」
しょんぼり。
「こっ酷く叱られるよ」
場の雰囲気を察した下平Dが冗談っぽく言うが、多部Dは黙って頷くだけ。
「こんばんは」
いつものように平田アナの挨拶から本格的に番組は始まる。
「では今週のニュースからお伝えします」
本番が始まっても多部Dはいつもの元気はなく、黙ったまま。
オレ達作家は、いつものように後ろの席で本番を見守っているが、多部Dは後ろから見ていてもしおらしく、背中も小さく見えた。
因みに、セット内のテーブルは水奈りかアナも加わった為、それに合わせて長く造り直してある。
「ではまた来週お目に掛かります。皆さん良い週末を」
出演者全員が一礼し、番組は終了。
さあ、これから多部にとって恐怖の打ち合わせが始まる。
出演者、主要なスタッフがスタッフルームに集まり、開口一番、
「多部、あんた何年ディレクター遣ってるのよ」
桝谷さんのお説教が始まる。
「六年目に入りました」
多部は本番よりも更にしおらしく答えた。当然といえば当然。不穏当な言葉を本番中に流すケアレスミスを犯したのだから。
「六年もディレクター遣ってて普通あんなミス犯す?」
「本当に済みませんでした」
多部は深々と頭を下げる。
「謝って済む問題じゃないわ。立派な放送事故よ!」
桝谷さんがまた声を荒げた。
「そうだな。謝ってももう放送されちゃったんだからな。明日当たりネットニュースになるかもしれないぞ。「あの声は誰だ?」ってな」
そこに野瀬さんが加わる。
多部は何も言い返す言葉が見付からないのだろう、黙ってしょんぼりしている。
「それから戸倉(男性AD)、原稿はちゃんと本番までに用意しておきなさいって言ったでしょ」
あのAD、トクラっていうんだ。小さな発見。
「済みません。他の仕事の事で忘れてました」
「忘れたじゃ困るわよ。一番大事な事なんだから」
「済みませんでした」
トクラ君は再度頭を下げる。こちらもしおらしい。今日はよく頭を下げる光景を見る日だ。
「私も気にはなってたんですよ。あんな近くで声出されたら、そりゃ(マイクが)拾っちゃいますよ」
奥村アナは呆れた様子。
「本当にごめん、奥村ちゃん。来週からは気を付けるから」
多部は奥村アナにも頭を下げるが、
「私に謝れても……」
少々困惑気味。
「本当に来週からは気を付けてくれよ多部。生放送で編集が利かないんだからな」
「はい。以後絶対に気を付けます」
野瀬さんの言葉に、多部は神妙に答え、再度頭を下げた。
「本当に頼んだわよ多部。でも、編成制作局長からもお叱りがあるかもね。「先週の放送は何だ!?」ってね」
「もう十分反省してますから脅かさないでくださいよ、桝谷さん」
多部は気弱な口振り。
「別に脅しじゃないわよ。事実そうなると思ったから言っただけよ」
桝谷さん、もうその辺にしてあげなさい。
「ああ、また怒られるのか。声のトーンを落とすべきだった……」
多部は頭を抱える。
「だから今頃後悔しても遅いわよ」
それはその通り。
「あんまり気を落とすな多部、弘法にも筆の誤りってやつだ。もし(編成制作)局長に怒られてもオレが守ってやるから気にするな」
野瀬さんが頼もしい言葉を掛けてあげる。
「ありがとうございます」
多部の表情が微笑に変わった。
「私は守ってあげられないわよ」
「あたしも。我関せずだからね」
「桝谷も下平も、そう意地悪な事を言うな。仲間を守ってあげる気はないのか」
野瀬さんの言葉に対し、
「だって相手は局長よ」
「そうですよ。あたし達には敵わない相手ですから」
桝谷さんも下平も鬼畜な人よのう――
「二人共冷たい事言うなよ」
多部は哀願する眼差しで二人を見る。
「だから私は無理だって」
「あたしもお手上げ」
桝谷さんと下平は冷たく突き放す。二人の言葉からして、この二人に幾ら哀願しても駄目だこりゃ。
多部はまた頭を抱えて溜息を吐く。
「だからそう気を落とすなって多部。桝谷と下平が駄目でもオレが一人で守ってやるから安心しろ!」
野瀬さんの再びの頼もしい言葉に、
「宜しくお願いします」
多部は野瀬さんに哀願した。本当に頼もしくて熱いCPだ。
「よし、多部は猛省してるし、今日の打ち合わせはこの辺で良いだろう」
野瀬さんの号令で打ち合わせは終了。
「今日は多部の話題で持ちきりでしたね」
男性プロデューサーが「ヒヒヒッ」と笑った。
だが、やはり木曜日の構成会議中――
『トントン』とドアをノックする音がし、次に「おい、入るぞ」という声がした。
「どうぞ」
野瀬さんが言うとドアが開き、現れたのは編成制作局長。局長の顔を見るなり多部の表情が強張る。
「どうかしましたか? 局長」
「どうもこうもないよ。何だ先週の放送は。冒頭に奥村以外の男の声が入ってたじゃないか。あれは誰だ?」
やっぱり桝谷さんの予想通り。局長は多部のケアレスミスを注意しに来たのだ。
「済みません。僕です」
多部は素直に手を挙げた。
「君は確か制作会社のディレクターだな。何故あんなミスをしたんだ」
局長は多部に対して御冠。当然だ。
「原稿が入ってなかったんです。それで奥村ちゃんのピンマイクが拾うような声を出してしまいました。本当に済みませんでした」
多部はしんみりと答え、深々と頭を下げた。
「謝られてももう遅いんだよ。不穏当な声が放送に乗っちゃったんだからな。社長も観てて不快に感じたそうだぞ。君新人じゃないんだろ?」
局長の怒りは収まらない。
「普段は優秀なディレクターなんです。只、あの日は弘法にも筆の誤りってやつで、あんなミスを犯してしまったんです。本人も猛省してますし、何とか許してあげてください」
野瀬さんは土曜日の宣言通り、多部を弁護する。
「優秀なディレクターねえ……原稿を運ぶ係りは誰だったんだ?」
局長の言葉に、
「済みません。僕です」
トクラ君が手を挙げた。
「君は我が社の新人社員だったな。何で一番大事な原稿を忘れたりしたんだ」
局長の怒りがトクラ君の方へ移る。それにしても彼、TVヒーローズの社員だったんだ。また小さな発見。
「済みません。他の仕事で手一杯だったもので」
トクラ君もしんみりと事の成り行きを説明する。
「ADは仕事が多いから分からなくもないけどな、本番までに原稿を用意しとくのが先決だろ」
「申し訳ありませんでした」
トクラ君も深々と頭を下げた。
「二人共、謝ってもあれは立派で重大な放送事故だからな」
「はい」
「済みません」
二人共、局長にペコペコしっぱなし。でも、土曜日の打ち合わせの時もそうだったけど、あんなに神妙にしている多部の姿は初めて見た。
「局長、二人共十分反省してますので、どうか勘弁してやってください。今後二度とあのような事がないよう十分指導しますので」
野瀬さんは二人の様子を見ている内にいたたまれなくなったのだろう、また弁護に回る。
「当たり前だ。二度も三度も同じミスをしでかして貰っちゃ困る。野瀬、ちゃんと指導してくれよ」
「はい!」
野瀬さんは快活に答える。
「桝谷、お前もだぞ」
突然振られた桝谷さんは、
「えっ!? ああ、はい、分かりました」
慌てて返事をした。
「頼んだからな。会議中に邪魔したな。続けてくれ」
そう言い残して、局長は会議室を出て行く。果たして怒りは収まったのだろうか?
「ああびっくりした。局長、いきなり私に振るなんて思わなかった」
桝谷さんは胸を撫で下ろす。
「お前もプロデューサーだからだろう」
野瀬さんは失笑。
「でも何で私だけ?」
「我関せずみたいな顔してたからじゃないですか」
沢矢さんも失笑。
その指摘に対し、
「だって土曜日の打ち合わせで言ったじゃない。「私は守ってあげられない」って」
桝谷さんは少々ムッとした表情。
「それにしても、桝谷ちゃんもシモダイラも全くフォローしてあげなかったな」
虎南さんが茶化す。
「だからあたしは「シモヒラ」ですって。「江戸川」さん」
下平の仕返しに対し、
「だからその「コナン」じゃねえよ」
虎南さんはやんわりと突っ込む。
「あたしも言ったじゃない。局長が相手だから我関せずだからねって」
「二人共鬼畜なんですよ。仲間の事をどう思ってるんですか」
オレの指摘に対し、
「ちょっと鬼畜は言い過ぎじゃない。私だって仲間は大事に思ってるわよ。只、相手が局長だからフォローしきれないって言っただけで」
「そうだよ、ユースケ。別にあたしも仲間を邪慳に扱おうとは思ってないよ」
桝谷さんと下平は口を尖らせて抗弁する。
「でもフォローしてあげる気はなかったんですよね」
珠希の言葉に、
「だからそれは相手が局長だったからだよ! あたしが敵う訳ないじゃない!」
下平は声を荒げた。
「もう良いんだよ。ユースケに珠希ちゃん。もともとミスしたのはオレなんだから」
多部は微笑を浮かべて穏やかな口振り。
「そうだな。もう既済だ。桝谷と下平の代わりにオレがフォローしたんだからそれで良いだろう。よし、多部のミスは一件落着した。さあ会議を再開しよう!」
野瀬さんの号令により、会議室は何事もなかったかのように再び会議の雰囲気に戻った。
因みに、多部が犯したミスは、ネットニュースにもスポーツ紙でも報じられなかった。野瀬さんが言うように、これで一件落着。
十二月中旬、番組の数字は十月の改編で番組開始時刻を十八時四五分からにしたにもかかわらず、未だ八~九%台をうろうろし、『ニュース7』には遠く及ばないが、社長の定例会見での事。
「御社の『NEWS YOU』の今後はどうなるのですか」
男性スポーツ紙記者の質問に対して社長は、
「我が社と致しましては、目標の数字には達しています為、来年度も番組を継続して行く予定です」
社長はきっぱりと言明。
「『ニュース7』に負け続けている現状はどのようにお考えですか」
別のスポーツ紙の女性記者の質問には、
「番組スタッフは、どのようなニュースの伝え方、企画を放送すれば多くの方に観て頂けるのか、会議以外でも寝ずに講じています。本当に頼もしいスタッフです。私も数字が上がる事を期待して見守っている所です」
社長は微笑を交えて答えた。
こうして、『NEWS YOU』は開始二年目に入る事となり、翌日のスポーツ紙、ネットニュースでは、『『NEWS YOU』継続へ』の記事が彩っていた。
オレはそのスポーツ紙を某キー局の会議室で会議前に読んだ。
「テレヒロの社長が『NEWS YOU』の継続を発表したんだとさ」
新聞を珠希の方へ向ける。
「ほんとに? 打ち切りの話は出てなかったもんね。良かったあ」
「随分と嬉しそうだな」
「だってレギュラー一本なくならなくて済むんだもん。私にとっては死活問題だからさ」
「オレにとってもそうだけど、まだ気は抜けないぞ」
「何で?」
「このままの数字が続いたら「作家を変える」っていう話も出るかもしれないからね」
「ええ、そんな事あるの?」
珠希は意想外だった様子。
「そうだよ。ある日呼び出されて「作家を変えたい」って申し渡されてね。その時オレ達作家は為す術もなく従うしかないんだよ」
「ユースケ君はそんな経験あるの?」
「今の所はないけどね」
飽く迄も今の所はの話だけど、オレもいつそんな目に遭うか分からない――
「へえ、やっぱり厳しい世界なんだね。放送作家って。でも修一おじさんはそんな事しないでしょ」
「いや、分からないぞお」
「脅かさないでよ!」
珠希に左肩を『バーン!』と叩かれた。少し脅しもあったのは事実だけど――もう少し力の加減をして欲しい。
木曜日の会議の冒頭。
「『ニュース7』にはまだまだ勝てないけど、皆も承知のように、上層部は番組の継続を決めた。来年こそは『ニュース7』に勝てるように、皆気を引き締めて頑張って行こう!」
野瀬さんが力強く檄を飛ばす。別に来年じゃなくても年内で良いんじゃないですか?
「修一おじさん、『ニュース7』に勝てなかったら作家の「派遣切り」とかあるんですか?」
珠希はやっぱり不安だったようだ。
「その前に「おじさん」はもう止めてくれよ。まだまだ「ヤング」のつもりなんだからさ」
出た。また「ヤング」発言。
「オレはそんな事はしない。仲間を大事に思ってるからな」
野瀬さんは破顔して優しい口振り。
「本当ですか。良かったあ」
珠希は安堵した様子。
「作家の「派遣切り」はいつもあっけないからな。オレも一度だけ経験あるけどさ」
虎南さんは苦虫を噛み潰した表情で言う。
「大丈夫ですよ虎南さん。オレはそんな事しませんから」
「頼んだよ」
「あっけないってどういう事ですか? 虎南のおじさん」
珠希の心は安堵から興味へと変わる。
「「おじさん」ってオレは一応先輩なんだからな。お前チューしてやろうか!?」
虎南さん、それはセクハラ発言。珠希も無言で苦笑い。
「特番の構成遣ってた時期に、ある日突然高級料亭に誘われたんだよ。その時点で何か怪しいなとは思ったけど、のこのこ付いて行ったら食事の終わりがけに、「虎南さん、大変言い難いんですが、番組の作家を一新したいんです」って言われちゃってさ、食事も美味い物をたらふくご馳走になった後にそんな事言われたら、「嫌だ」って言えないだろ?」
「それで虎南のおじさんはクビになったんですか?」
「また「おじさん」って、本当にチューしてやろうか!」
出た。またセクハラ発言。珠希も悪いんだけど。
「まあ接待に釣られてクビにされたって事だな」
「そんな事本当にあるんだね」
「な。オレが言った通りだろ」
「大丈夫だよ。ユースケ君に珠希ちゃん。オレはそんな事しないから」
野瀬さんの言葉に釣られるように、
「そうよ。二人共、野瀬さんは仲間を切ったりしないから安心しなさい」
桝谷さんも微笑みを浮かべて優しい口振りだった。
年が明けて一月上旬。新年一回目の放送。
「こんばんは」
いつもと同じく三人が一礼する。
「皆さん、明けましておめでとうございます。今年も皆さんに分かり易く情報をお届け出来るよう、頑張ります。どうか今年も『NEWS YOU』を宜しくお願い致します。では今日も一週間のニュースからお伝えします」
平田、奥村両アナ、安藤キャスターがニュースを読み始める。ここまでは問題なく順調に番組は進行して行く。
だが今日のニュースのパートに差し掛かった時だった。「セクハラ!」という女性の声がスタジオに木霊する。この日セクハラのニュースはゼロ。一体何が起きたのだろうか。
「ねえ、今の声誰」
下平Dの問い掛けに対し、
「多分、うちのADだな。何遣ってんだよもう」
多部Dはモニターを見詰めたまま不快な口振り。自分も同じようなミスをしたくせに。
「多部の次はAD? また放送事故なの」
桝谷Pが溜息を吐く。
「しかも新年一回目でな。何か問題があったんだろう」
野瀬CPは冷静だ。
「あれ、虎南さんがいない。何処行ったんだろう」
「さっきまでいましたよね」
沢矢さんも気付いていなかったようだ。
「さっきサブからスタジオに降りるの見たぞ、オレ」
大畑が答える。
「作家が何しにスタジオに降りたの」
下平Dの問い掛けに、
「さあ、オレにも分かんないけど」
大畑も不思議そう。
「もしかしたら虎南さんがADに何かしたんじゃないの」
下平Dの追及は続く。
「あり得るかもな。さっきオレ、あいつ(女性AD)を叱ったから。慰めのつもりで身体に触れたんじゃないか」
とは、多部Dの推測。案外その通りかもしれない。
平田、奥村アナと安藤キャスターは「セクハラ!」という声に動揺する事なく、何事もなかったかのように番組を進行させて行く。
「今日の打ち合わせのテーマは決まったね」
下平Dは澄ました口振り。
「そうね。立派な放送事故だもん」
桝谷Pも同調した。
「あんまり虎南さんをとっちめるなよ」
「多部の言う通りだ。悪気はなかったんだろうから」
野瀬CPは虎南さんに同情する口振り。三人共、多部Dの推測に則り、虎南さんが犯人だと決め付けて疑わない。まだ何も分かってないのに――
「いやあ、参っちゃったよ」
そう言いながら虎南さんがサブに戻って来た。
「スタジオで何してたんですか?」
「どうもこうもないよ。さっき多部に怒られてた女の子のADに慰めのつもりで肩に手を回したんだよ。そしたら「セクハラ」って言われちゃってさ」
虎南さんは頭を掻きながら説明する。やっぱり多部Dの推測通りだったか……。
「その声、ガンマイクが拾っちゃいましたよ」
「また放送事故です」
下平Dと桝谷Pの言葉に、虎南さんは血相を変える。
「えっ!? 本当に? ごめん!」
「今日の打ち合わせ、覚悟しといてくださいね」
桝谷Pの言葉に、虎南さんは押し黙り、身体を小さくしてしまった。
「お正月疲れも残ってる方もいらっしゃるかと思いますが、皆さん元気良く良い週末をお過ごしください。ではまた来週お目に掛かります。失礼します」
出演者全員がお辞儀し、番組は終了。問題なのはこの後の打ち合わせだ。
「多部の次は虎南さん。えらい事してくれましたね」
桝谷さんの追及が始まってしまう。
「本当ですよ。何で肩に手を回す事なんかしちゃったんですか」
そこに下平も加わった。
「本当に只慰めようとしただけなんだよ。申し訳ない」
虎南さんがいつになくしおらしい。
「どうして本番中にそんな事するかなあ」
桝谷さんは呆れる。
「東も東だぞ。本番中にマイクが拾うような声出してんじゃねえよ」
「済みませんでした。後ろから突然肩に手を回されたんでびっくりして……」
多部の説教に、東と呼べれたADもしおらしく頭を下げた。
しかしこの女性、東って苗字だったんだ。また小さな発見。
だが、同じミスを犯した過去がある多部に、「マイクが拾うような声を出すな」と説教する資格はない。
「多部、あんたは人の事言える立場じゃなくない?」
下平の指摘に、
「ごめん……」
多部は身体を小さくさせる。ほら見ろ。
「でもオレは十分反省したんだからもう良いだろう。局長にも怒られたし」
多部の抗弁に、
「虎南さんも東も十分反省してるじゃないか。確かに今日のも放送事故だけど、もう済んだ事だからさ」
野瀬さんは寛容だ。
「野瀬さんは優しいですね」
下平は若干呆れた口振り。
そもそも、何故AD東が多部に叱られたのかというと――
情報コーナーで、「スーパーで買える! 新鮮なお刺身」を特集する事になり、多部は東さんに近くのスーパーで刺身を買って来るよう申し付けた。
東さんは多部に従い、スーパーで打ち合わせ用と本番用の鰤と鯵の刺身を2パックずつ買って来る。
だが、本番前のスタジオでの打ち合わせ中に「事件」は起こる。平田アナが鯵の刺身に顔を近付けると、
「キャーーー!!」
突然悲鳴を上げた。
「どうした!?」
多部が近付くと、刺身の中に青虫が入っていた。それがうねうねと出て来てしまったのだ。
「別に腐ってる訳じゃないみたいだけど……」
多部は何とか取り繕おうとするが、
「私無理です! 食べられません」
と平田アナは拒否する。
だが、
「青虫退ければ良いだけじゃない」
「そうですね」
奥村アナと安藤キャスターは平気で「美味しい美味しい」と食べたという。流石いつも冷静な二人。
とは思ったのだが、打ち合わせが終わった後、多部は東さんを呼び出し、
「何であんな物買って来たんだよ!」
と説教を始める。
「済みません……」
東さんはしょんぼりした声で謝罪した。が、多部は部下のミスにヒートアップする。
「どうせ陸に確認もせずかごに入れたんだろ。買う時にちゃんと確認しろよ!」
サブでその光景を見ていたオレは女性AD(東さん)がかわいそうに思った。
「何か不憫だよね。別にADさんの責任じゃなくて作った人の確認ミスなのに」
珠希も女性ADに同情する。
この時、虎南さんは何も言わなかったが、オレ達と同じ心境だったと思う。だから、あんな事を――
「「江戸川」さんもたまにはへましますね」
「だからその「コナン」じゃねえよ……」
虎南さんの突っ込みはいつになく力がない。当然といえば当然か。
「今度こそ明日のネットニュースかスポーツ紙に載るんじゃない?」
桝谷さんの言葉に、
「そうでしょうね。だってニュース中のハプニングですからね」
下平は虎南さんをジロッと見ながら付け足す。
「だから悪かったって言ってるだろ。まさかガンマイクが拾ってるとは思わなかったんだよ」
虎南さんは力なく抗弁し、頭を抱える。
「東、あんたもだよ。もし今日の事が報道されれば、また局長に叱られるだろうから覚悟しときな」
下平の言葉に東さんの表情が強張った。
「ああ、オレもこの歳で局長に怒られるのか……」
虎南さんは脅えた表情でまた頭を抱える。
「大丈夫ですよ。虎南さんに東。局長は根が優しい人だから、叱咤される事はありませんって」
「野瀬君、そんな気休めは良いよ」
虎南さんは頭を抱えたまま呟いた。
翌日、事務所のデスクでノートパソコンをネットにつなぐと、『『NEWS YOU』の本番中に「セクハラ!」スタジオで何が起きたのか!?』というニュース記事が掲載されていた。
興味本位で観てみたが、まさか本当にネットニュースになるとは――
記事によると、『TVヒーローズの『NEWS YOU』の放送中、突然「セクハラ!」という女性の声が聞こえ、話題になっている。「誰かが女子アナに何かしたのではないか」という憶測も呼んでいる。
問題の声は、奥村真子アナウンサーが読むニュース映像からスタジオに切り替わる直前に聞こえた。スタジオに映像が切り替わると、平田菜水アナウンサー、安藤明キャスターが映り、何事もなかったように安藤キャスターがニュースを読み始めた。その後のニュースでもセクハラに関する内容は全くなく、本当に唐突な「セクハラ!」という声だったのだ。
実際スタジオでセクハラ行為があったのかどうか、TVヒーローズ広報部に問合せたが、現時点で回答は得られていない』とある。
昨日の放送事故は、既に野瀬さんや桝谷さんから上層部に詳細な情報は上がっているとは思うが、テレヒロも回答のしようがないのだろうて。
「おい珠希、ちょっと来てみろ」
自分のデスクにいた珠希に声を掛けると、
「何々? 何か見付かったの?」
珠希は興味津々といった表情で近付いて来る。
「昨日の虎南さんのへまがネットニュースになってるぞ」
「本当に? じゃあ虎南のおじさん、局長に怒られる事間違いなしだね」
珠希は妙に嬉しそう。他人の不幸は蜜の味といった所か。悪い奴よのう。
パソコン画面を珠希の方へ向けると、珠希はニヤニヤしながら記事を読み始めた。
「TVヒーローズの広報部に問合せたんだ。まさか「番組の作家が上司に叱られた女性ADに慰めのつもりで、肩に手を回してしまいました」とは、TVヒーローズも回答出来ないよね」
「そういう事だろうな」
珠希に釣られてオレも笑ってしまう。オレも他人の不幸は蜜の味ってやつか。人の事はいえなかった。
木曜日の会議では、ネットニュースの話題で持ち切りである。
「スポーツ紙には載らなかったけど、やっぱりネットニュースにはなってしまったか」
野瀬さんは頭を掻きながら困惑した口振り。
「良いんだよ野瀬君、へましたのはオレなんだから」
虎南さんは少し元気になって笑みを浮かべて言う。
「編成制作局長も放送を観てたらしくてもうカンカンだったわよ。虎南さん、東、覚悟しときなさいよ」
桝谷さんの言葉に、虎南さんと東さんは無言で委縮してしまう。局長は根が優しい人じゃなかったんですか?
「他にも「あの声は何だ?」って問合せの電話が、本番中に約六百件寄せられたらしいですよ」
下平はニヤニヤしながら告げる。こいつも他人の不幸は蜜の味か……オレも含めてこの番組のスタッフは悪い奴ばっかり。
「でも数字は良かったんですよね」
沢矢さんの問い掛けに、
「平均十一%。番組史上最高だな。ツイッターやLINEなんかで情報が拡散したんだろうね」
野瀬さんは数字は数字で嬉しいのか、微笑を浮かべた。
その直後、廊下から靴音が近付いて来る。多分局長だ。野瀬さんは押し黙り、会議室内に緊張が走る。
『コンコン』とドアをノックする音が聞こえ、「オレだ。入るぞ」という声。多部が叱られた時と全く同じ展開だ。
「どうぞ」
野瀬さんが答えるとドアが開き局長の登場。
「何でオレがここに来たか分かるな」
局長は鬼のような顔。
「はい。分かってます。先週の放送事故の件ですよね?」
「そうだ野瀬。数字は稼げたがあの声は誰だ?」
えっ? 局長には情報が上がっていないのか?
「申し訳ありません。私です」
東さんがしおらしく立ち上がる。
「違います局長。その子は悪くありません。「セクハラ」という声を出させたのは私です」
虎南さんは緊張した面持ちで素早く立ち上がった。
「あなたは確か、ベテラン作家の「江戸川」さんでしたっけ?」
と局長。まさか「江戸川」ネタが局長にまで浸透しているとは思わなかった。
皆笑いを堪えるのに必死だが、珠希だけは笑いを堪えきれず、笑いを噛み殺している。
「いえ、その「コナン」じゃありません。「虎」に「南」と書いて「コナン」です」
虎南さんは局長が相手だけにソフトに突っ込む。
「そうでしたか。そりゃ失礼。なら虎南さん、何故彼女にセクハラ行為をしたんですか?」
局長は相手がベテラン作家だからか、表情が少し柔和になる。
「あの日、東さんは上司である多部君に本番前に叱られたんです。直接は彼女のせいではなかったものですからかわいそうに思って、それで本番中に慰めのつもりで肩に手を回しちゃったんです。別にセクハラ行為のつもりはありませんでした」
虎南さんは素直にいきさつを説明した。
「大体野瀬から聞いてましたけど、でも本番中にそんな事するかなあ」
やっぱり局長にも情報は上がっていたんじゃないか。局長は打ち合わせの時の桝谷さんと同じ事を言って同じように呆れる。
「まさかガンマイクが彼女の声を拾ってたとは思わなかったんです。本当に申し訳ありませんでした」
虎南さんは深々と頭を下げた。
「今頃謝られてもあれは立派な放送事故ですからね」
「はい……」
局長の言葉に虎南さんは言葉が続かない。
「君も君だぞ。本番中にマイクが拾うような声を出すなんて」
「済みません……」
東さんもしおらしく頭を下げた。
「上司に叱られたって事は、君はまだADか?」
「はい」
「将来はディレクター、プロデューサーに出世して行くんだぞ。あんなミスしてたら困るじゃないか」
「はい。申し訳ありません」
東さんは再度頭を下げた。
「局長、二人共先週の事は重々反省しています。数字も最高を記録しましたし、この辺で勘弁してあげてください」
野瀬さんが弁護に回る。
「あんなスキャンダラスな事で数字が上がって嬉々としてる場合じゃないだろ」
「済みません……」
今度は野瀬さんがしょんぼりしてしまう。
「まあ良い。事情は分かった。今後は二度とあんな放送事故がないように。それと、今後はスキャンダラスな事じゃなくて、ニュースと企画で数字を取れるように頑張ってくれ」
「はい! 重々承知しています」
野瀬さんは快活に答える。
「会議中に邪魔したな。続けてくれ」
そう言い残して局長は会議室を出て行く。これも多部の時と同じ展開。
「「江戸川」さん、あんまり怒られなくて良かったですね」
下平がニヤニヤして言う。悪いやっちゃ……。
「だからその「コナン」じゃねえよ! シモダイラ。十分怒られたじゃないか!」
「あたしはシモヒラです! 多部の時よりもソフトだったじゃないですか!」
「あれでもオレには十分突き刺さったよ!」
虎南さんと下平の応酬。虎南さんがいつもの調子に戻って良かったが、今日も桝谷さんと多部は無言で部下を弁護しなかった。
「多部、桝谷さんもだけど、少しは仲間を庇ってあげたらどうですか」
少々皮肉っぽく言うと、
「だって相手は局長だもん。仲間は大事だけど敵う相手じゃないじゃない」
「そうだよユースケ、相手が誰か分かってるのか」
二人はこの前のように反論。下平が多部に変わっただけ。「敵わない」んじゃなくて、単に局長が「怖い」だけなんじゃないのか? 本当は。
「この前の下平と同じような事言っちゃって」
「悪かったね。あたしも局長には敵わないんだよ!」
下平は口を尖らせた。只怖いだけなくせに。
日曜日の午後。虎南さんと東さんが怒られたあの日の会議で、来週の特集で涙活を取り上げる事になり、多部、虎南さん、オレ、珠希で港区内の現場に事前取材に行く事になった。
「「涙活」って何」
沢矢さんに訊くと、
「月に二、三分だけでも能動的に涙を流す事によって、心のデトックスを図る活動の事です」
「泣ける映画や音楽、詩の朗読とか毎回テーマを変えて月に一、二度開催してるんだって」
珠希が付け加えた。
「最近は『涙活ダイエット』なんて本も出てるらしいですよ」
何を特集するか案を出した沢矢さんは、自慢げに微笑を浮かべて紹介してくれる。
「そうなんだ」
これは勉強不足だったと後で自分なりに調べてみると、涙活とは意識的に泣く事でストレス解消を図る活動とあった。離婚式プランナーが二○一三年に発案したそうだ。
因みに離婚式とは、離婚を決めた夫婦が、離婚にあたって人生の区切りを付ける為に行う儀式の事。離婚した二人が結婚指輪をハンマーでぺちゃんこにするなど、情報番組でも特集されて少し話題となっている。
それはそうと、特集の現場となる涙活は、港区北青山二丁目の八階建てのビルの三階で開催されていた。
「悪いなユースケ」
「本当、恩に着るよ」
虎南さんと多部は取って付けたかのように礼を言う。運転手がオレだからだ。
「良いですよ、別に。もう着く頃になって礼を言わなくても」
少し皮肉っぽく言う。この中で自家用車を所有しているのはオレだけだ。
「ユースケ君って運転上手いでしょう」
珠希が笑顔で言った。これも取って付けたかのような発言。
近くのコインパーキングに駐車していざ現場へ。リサーチャーが入手したパンフレットに目を通すと、開催されるのは十四時からとなっている。
会場に入ると、八畳はあろうかと思うフロアに、まだ開催二十分前なのに既に二十人くらいの参加者達がパイプ椅子に座っていた。
「随分と参加者がいるんだな」
虎南さんは率直な感想。
「流石は今話題になってるだけありますね」
多部が微笑を浮かべる。
こんなに話題になってたんだ。知らなかった事は放送作家として本当に勉強不足――
「四人分の席がちゃんと空いてるよ」
珠希は前列を指差す。
「事前に予約してたからな」
ここの涙活は予約制。多分他の所もそうだろう。見ると最前列に二席、その後ろに二席が空いている。
「オレ達は後ろの席で良いから、ユースケと珠希ちゃんは前の席に座んなよ。良いですよね? 虎南さん」
「ああ、オレは構わないよ」
「じゃあお言葉に甘えて。ユースケ君、座ろう」
珠希がオレのジャンパーの左袖を掴んで最前列の席へ向かって行く。珠希は右の席に、虎南さんは珠希の後ろの席にそれぞれ着席した。
やがて定刻の一四時となり、一冊の絵本らしき物を持った女性がフロアに入って来る。多分、この人が朗読するのだろう。
「皆様、本日はお忙しい中お集まり頂き、ありがとうございます。本日のテーマは、童話、『マッチ売りの少女』です。どうか感情を込めてお聞きください」
『マッチ売りの少女』。デンマークの童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの創作童話として有名な作品だ。他にも『みにくいアヒルの子』や『裸の王様』の作者としても知られている。
絵本を手にした女性もパイプ椅子に座り、ゆっくりとした口調で朗読を始めた。
大晦日の夜、小さな少女が一人、寒空の下でマッチを売っている。マッチが売れなければ父親に叱られるので、全てを売り切るまでは家には帰れない。
しかし街行く人は、年の瀬の慌ただしさから少女には目もくれず、目の前を通り過ぎて行くばかりだった。
物語が佳境に入って行くと、あちこちで「しくしく」と泣き声が聞こえて来る。が、オレは感情を込めていない訳ではないが、一滴の涙も出て来ない。隣の珠希も真剣に聞き入っているが同じだ。
やがて物語は終盤に差し掛かり――
天を向くと流れ星が流れ、少女はかわいがってくれた祖母が、「流れ星は誰かの命が消えようとしている象徴なのよ」と言った事を思い出す。
マッチを擦ると、その祖母の幻影が現れた。マッチの炎が消えると、祖母も消えてしまう事を恐れた少女は、慌てて持っていたマッチ全てに火を点ける。
祖母の姿は明るい光に包まれ、少女を優しく抱きしめながら天国へと昇って行った。
新年の朝、少女はマッチの燃え滓を抱えて幸せそうに微笑みながら死亡していた。
人々は、この少女がマッチの火で祖母に会い、天国へ昇った事などは、誰一人として知る由もなかった――
そんな悲しい物語。参加者の女性達は感傷的になり、「しくしく」と泣いている。これが心のデトックスってやつか――
そう思っていると、珠希の後ろの席で鼻水を啜る音が。見ると虎南さんも「しくしく」泣いているではないか……。
「ちょっと嘘でしょ!?」
珠希は振り返って呆れた表情。多部も苦笑を浮かべている。
「朗読をする人が上手いんだよ」
虎南さんはそう言い訳をして、手で涙を拭った。虎南さんも立派に心のデトックスが出来たようだ。だが――
涙活が終わり、車に戻る道すがら、
「虎南のおじさんがあんなに感受性豊かだとは思わなかった」
「おじさんは止めろって言ってるだろ。次言ったら胸揉むぞ!」
「出た。涙の後はセクハラ発言」
珠希は苦笑。
「良いだろ別に。オレだって涙を流す事だってあるよ」
「でもあんなに号泣するとはね。ハンディーカメラ持ってくりゃ良かった」
多部はいたずらっぽく笑う。
「皆オレをどんな風に思ってるんだよ。優しい心の持ち主だぞ、オレは」
それ自分で言う?
「どんな風にって、クレーマーだと思ってましたけど」
少しからかってみる。
「クレーマーな訳ねえだろ! もしクレーマーで金貰ってたら大したもんだろうよ!」
「仰る通り。大したクレーマーです」
「先輩をバカにしやがって」
虎南さんは少々ムッとした表情。からかい過ぎたか。
「虎南のおじさんがクレーマーという事は分かったんだけど……」
「だからクレーマーじゃねえって!」
「分かりました。それはそうと多部君、カメラ持って来なかったの」
珠希が率直に訊く。
「ああ、今日は体験取材だからな。もう別の所にアポ取ってあるし、そっちにカメラを持って行って、後は放送日に間に合わせるだけだから」
多部も率直に答えた。
「一週間でプレビューまで間に合うのか?」
普通何かを特集する場合、リサーチの時間やアポイントメントの時間も必要な為、最低でも約一ヶ月前には決定させる。
が、今回は特別で、
「涙活か。それ良いね。来週はそれで行こう」
野瀬さんがGOサインを出した為、急遽予定を変更して、涙活を特集する事になった。チーフプロデューサーも心のデトックスが必要という訳かいな――
「それはオレ達ディレクターの腕の見せ所だよ」
多部は自慢げに言う。
「そう」
「今までも間に合ったんだから大丈夫だよ」
珠希は何も心配していない口振り。
「頼んだぞ多部。もう放送事故はこりごりだからな」
虎南さん、あなたがそれを言うな。
「だから大丈夫ですって」
多部は自信を覗かせる口振り。ディレクターがそこまで言うのなら、多分大丈夫だろう。
何だかんだ話している内にコインパーキングに着き、四人で車に乗り込み再びオレの運転で北青山を後にした。
翌週土曜の放送日。多部が自信を覗かせた通り、涙活のVはプレビューするまで完パケの状態だった。
撮影現場となったのは新宿区内の会場。そこに取材ディレクターの代表として下平が映っていた。
「下平が行ったんだ」
「そう。野瀬さんに頼まれてね」
下平はやや嫌々な口振り。その訳は後程。
会議中Vが流れているが、多部は嬉々としている。その訳も後程分かると思う。
「今話題となっている涙活がこちらで開催されるという事で、早速現場にやって来ました。会場に入ってみます」
スタッフジャンパーにジーンズというラフな服装の下平が、会場となるビルに入って行く。
『足早に会場に入って行く取材ディレクター。果たして涙活とはどのような催しものなのでしょうか』
生放送の場合、ナレーションも生で放送に乗せて行くのが通例だが、今日はナレーターのスケジュールの都合上、事前にナレーションが録音されている。
下平が会場に入ると、この前オレ達が事前取材に行った場所と同じくらいの広さで、三十人くらいの女性が中心の参加者達が、白を基調とした椅子に座っていた。下平の席は最前列の席。
「随分と参加者の方が集まってますね。よく来られるんですか?」
隣の女性に声を掛ける。
「はい。開催される度に来てます」
「そうなんですか」
「心のデトックスが出来て、終わった後にスカッとしますね」
「私初めてなんですけど、そういうものなんですね」
やがて開催時間が近付き、一人の男性が会場に入って来た。
「皆さん、今日はお集まり頂き、ありがとうございます。本日のテーマは、映画『余命一ヶ月の花嫁』です。皆さん心を穏やかにしてご鑑賞ください」
男性MCの紹介で会場が暗くなり、スクリーンで映画が始まる。映画館でも観た人もいると思うのだが……。
『余命一ヶ月の花嫁』は、二○○七年に情報番組で「二四歳の末期がん」としてドキュメンタリー特集で放送され、放送終了後も反響を呼び、同年七月には『余命一ヶ月の花嫁 乳がんと闘った二四歳 最後のメッセージ』が高視聴率を記録。十二月にはそれに関した本が刊行され、累計発行部数四十万部を突破したベストセラー作品だ。
二○○九年には榮倉奈々と瑛太(現、永山瑛太)のW主演で映画化もされ、興行収入三一億五千万円を記録した、あまりにも有名な作品である。
物語が佳境に入り、挿入歌のベット・ミドラーの『The Rose』が流れる頃になると、あっちで「しくしく」、こっちで「しくしく」と参加者が感涙し始め、ハンカチで涙を拭い出した。その中には、何と下平の姿も――
『あらあら、取材ディレクターも感動して泣き始めてしまいました』
下平は『The Rose』が流れる度に号泣。
「フフフハハハハハッ!」
この時点で吹き出してしまった。
「ちょっとユースケ、何笑ってんだよ!」
下平がムッとした表情で言う。
「だって下平が泣いてんだもん。珍しいじゃん」
「な? 面白いだろユースケ」
多部も堪えきれず失笑。多部が嬉々としていた理由はこれ。
ヤンキー上がりの下平が感涙するのは本当に珍しい。
「あんた達バカにしてんでしょ!? あたしだって感情はあるっつーの!」
下平は声高に抗弁するが、
「下平さんも感涙する事あるんですね」
水奈アナも笑いながら言う。
「あんた新人のくせに年上をバカにしないでよ!」
「別にバカにしてるつもりはありませんけど……」
水奈アナは応えに困りながらも笑いが止まらない。
「笑ってるって事はやっぱバカにしてんじゃん。だから嫌だったんだよロケに出るの」
下平が頭を抱える。下平がやや嫌々な口振りだった理由はこれ。笑われる事は事前に分かっていたのだ。
「まあまあ下平、そうムッとするなよ。お前も全うな人間なんだよな。ちゃんと心のデトックス出来たみたいだし」
野瀬さんはフォローするが、顔はやっぱり笑っている。
「笑いながらフォローしないでくださいよ! もうどいつもこいつもバカにして。あたしをどういう人間だと思ってんの!?」
下平の機嫌は直らない。
「どういう人間って、ヤンキー」
虎南さんの時のように少々からかってみる。
「もうヤンキーからは卒業したよ! ヤンキーでお金貰ってたら大したもんだっつーの!」
虎南さんと同じ答えが返って来た。
「オレの事をクレーマーって言ったり、下平をヤンキーって言ったり、ユースケも相当な意地悪人間だな」
虎南さんは苦笑。
「虎南さんがクレーマー?」
下平は不思議そうに言う。
「虎南のおじさん、事前取材の『マッチ売りの少女』の朗読で号泣したんです。それで「オレをどんな風に思ってるんだよ」って訊かれた時に、ユースケ君がからかって「クレーマーだと思ってた」って」
「珠希、オレをまた「おじさん」呼ばわりしたな。後で胸揉んでやるからな!」
出た。またセクハラ発言。これには珠希は再び苦笑。でも「おじさん」呼ばわりを止めるつもりはないだろう。実際、虎南さんは寛大な人だから。
「本当、ユースケって人の揚げ足ばっかり取って冷たい奴だね」
下平よ、その言葉、そっくりそのままお返しします。あんたも人のミスを散々非難したんだから。
やがて映画はエンディングとなり、主題歌のJUJU with JAY‘EDの『明日がくるなら』が流れると、下平は鼻水を啜りながら大号泣。さっきインタビューした女性よりも凄い状況。十分に心のデトックスは出来たようだが――
この状況を観た出演者、スタッフは大爆笑。こんなに涙脆い奴だったのか。
「何なの、皆であたしを笑い者にして! 本っ当いい加減にしてよね!!」
「いや、本当に下平さんのあのような姿を見るのは初めてなんで。下平さんって結構良い人なんですね」
平田アナの言葉に、
「何なの「結構」って。あんたもバカにしてんじゃん!」
下平はムッとした表情から怒りの表情に変わる。
「別にバカにはしてないですよお」
平田アナは両手を左右に勢い良く振って否定した。平田アナのぶりっ子に、
「あんたのその態度がバカにしてるっつーの!」
「済みません……」
平田アナは謝りながらも顔はやっぱり笑顔。その態度に下平は「チッ」と舌打ちして怒りを表す。ぶりっ子は最早、平田アナの個性としかいいようがない。
Vの最後、下平は閉めのコメントでやらかしてしまう。下平は映画の上映が終わってもまだ号泣している。そして一言。
「色んな感想を言おうと思ってたんですけど、特に言う事はないです」
なんじゃいそりゃ――
『取材ディレクターは完全に映画に感動し過ぎて、何も言えなくなったようです』
「何だよ、「特に言う事はないです」って」
「「胸が一杯で何も言えません」とかなら分かるけどな」
オレと多部の突っ込みに、
「本当に何も言えなかったんだよ! ナレーションの通り感動し過ぎた。演出家にやられたんだよ!」
下平は怒りをぶちまける。
本当は、Vの最後に主催者にインタビューする筈だったのだが、下平はとても主催者に話を聞ける状態ではなく、一旦Vを切り、後日別の男性ディレクターが主催者にインタビューする形でVは終わった。
「主催者にインタビューする状態じゃなくなるまで号泣するなんて、ディレクターとして最大の汚点だな」
「でも面白いⅤだったよな」
オレと多部のからかいに、
「悪かったね!」
下平は怒りっぱなし。
「まあそう怒るなって下平。涙活の魅力は十分視聴者に伝わるⅤだったぞ」
「良いですよ野瀬さん。もうフォローしなくて」
「平田に奥村、安藤さんもだけど、本番中にあんまり下平をイジらないようにね」
今まで黙ってVを観ていた桝谷さんがここで口を開く。
「はい」
「分かりました」
「承知してます」
平田、奥村アナ、安藤キャスターの順で返事をするものの――その本番中。
特集のVが流れる中、三人と他の出演者も笑いっぱなし。
「取材ディレクターは相当心に老廃物が溜まっていたようですね。あれですっきりしたんじゃないですか」
奥村アナが言えば、
「あれだけ号泣すればそうでしょうね」
安藤キャスターも同調。
「普段は涙を見せない人なんですけどね」
平田アナのコメントに、
「そうなんですか。相当ストレスが溜まってたんでしょうね。心のデトックスは大事なんだと十分に伝わりました」
と、コメンテーター。
四人は嬉々とした表情でコメント。それを観た下平Dはというと……。
「あいつら達、本番中もあたしを笑い者にして、後で覚えてやがれ!」
「チッ」と舌打ちして不快感を表す。
「まあ良いじゃない下平。あまりイジられなかったし笑ってただけなんだからさ」
桝谷Pがフォローするも、
「でもさっき笑ったのに本番でも皆で笑う事ないじゃないですか!」
下平の不快感は収まらなかった。
二月に入り、番組では消費税率十%引き上げの件をどう思うか、街頭インタビューする事になった。
担当ディレクターは多部。放送前日の金曜日の午後、早速、多部D、カメラマン、音声の三人でロケに出たのだが――
その中に犬の散歩中で、ロングヘアで革ジャン。ダメージジーンズを穿いた男性が一人。
「国の借金を考えると増税はやむを得ないとは思うけど、我々国民にとっては痛い出費ですよね」
男性はこう答えてくれた。消費税率十%引き上げは子育て支援と、少子化対策、社会保障関係費に充てられるのだけど――
そして翌日の本番前の会議。完パケしたⅤを出演者、スタッフで観たが、皆自然に受け流す。
インタビューに答えてくれたのは、この男性を含めて男女五人。中には、
「安保法制(安全保障関連法)の時もそうでしたけど、国民の声を無視してますよね。もっと十分に議論して欲しいと思うんですけど」
と答えてくれた女性もいた。
それを観た桝谷さんは、
「この女の人が言うように安全法制も強引に通しちゃったわよね。その上消費税十%でしょ。やっぱり民主党政権の方が良かったのかしらね」
と主婦目線で言う。まだ独身なのに。
「どっちみち同じだったんじゃないですか。マイナンバーカードを使って生活必需品は消費税が緩和されるとか言ってますけど、さてそうなる事やら。世知辛い世の中になりましたね」
と多部。それは軽減税率といいます。
しかし、政治に明るい話題は中々出て来ないものだ。それが政治の世界だといってしまえばそれまでだが――
Ⅴが終わり会議再開。
その後、出演者、スタッフは本番に臨む。その本番での事。
「消費税率十%引き上げをどう思うのか、街の意見です。VTRをご覧ください」
奥村アナのⅤ振りにより、さっき観たⅤが流れる。
出演者全員、真剣な表情でⅤを観ていたが、コメンテーターのエッセイスト、大賀さんだけはロングヘアの革ジャン姿の男性のくだりを観た時だけ、小首を傾げた。
その光景をサブのモニターで観ていた虎南さんは、
「あの人、今首を傾げたよな。何か反論でもあるんだろうか」
疑問を持った口振り。
「容姿に少しびっくりしただけじゃないですか」
「いや多部、エッセイストだから何か意見があるのかもしれないぞ」
野瀬CPはⅤ終わりに期待している様子。
五人の意見を編集したⅤが終わり、画面はスタジオに切り替わった。
「色んな意見がありましたけど、確かに(消費税率)引き上げを先送りにしたとはいえ、私達国民にとっては負担が増えるのは確実ですよね」
平田アナの言葉に、
「マイナンバーカードを使えば、生活必需品の分は引き戻されるようですけど、レジで専用の機器にタッチしないといけないみたいで、少し面倒になりそうですね」
奥村アナは多部が会議中に言った事を少しだけ拝借する。
「さっき革ジャンを着てた男性の言う通り、国の借金を鑑みれば増税はやむを得ない事でしょうけど、あの人、俳優の北村政樹さんに似てませんでしたか?」
大賀さんが口を開く。
「えっ!? そうでした? その場面をもう一度観れますか」
平田アナがフロアディレクターに訊く。
「Ⅴを巻き戻してください」
直ぐにフロアディレクターがインカムを使ってサブに注文を出す。
「おい、さっきの革ジャンの男性の所までⅤを巻き戻せ」
野瀬CPがⅤ担当のディレクターに指示を出した。
「多部、インタビューする時に気付かなかったの」
桝谷Pの質問に、
「全然気が付きませんでした。皆さんもプレビューの時も会議中の時も気が付かなかったでしょう?」
多部は意表を突かれたように答える。
「確かにそうだけどね。オーラとか感じなかったの」
下平の質問には、
「全然、全くの一般人だと思ってた」
こう答え首を左右に振った。
「大賀さんが小首を傾げたのは、そういう意味だったんですね」
「別に意見でも容姿にびっくりした訳でもなかったって事だな」
オレと虎南さんは他人事のように笑う。
北村政樹。最近は俳優業だけではなく、ユニークなキャラクターが世間にウケて、トーク番組などバラエティでも活動の場を広げている売れっ子。その人を見逃してしまうとは、多部Dの痛恨のミス。
「そこだ止めろ」
野瀬CPの指示で、Ⅴは革ジャンの男性のアップで止まり、画面にはその静止画が映る。
「この方ですよね。確かに似ている気も……」
平田アナの戸惑いに対し、
「似ているというよりご本人でしょう」
奥村アナは確信する。
「そうですね。この方は北村政樹さんで間違いないでしょう」
安藤キャスターも今頃になって冷静に認める。二人共、本番前には気付かなかったくせに。
「私は一目見て直ぐピンと来ましたよ」
大賀さんは苦笑いなのかドヤ顔なのか、笑みを浮かべている。
「北村政樹さん、番組をご覧になっていらっしゃるか分かりませんが、全く気が付かず、本当に申し訳ありませんでした」
平田アナがカメラに向かって深々と頭を下げた。
「また放送事故かよ……」
多部Dは頭に両腕を当ててのけ反る。
「多部、他人事みたいに言ってるけど、そのうちの一回と今回もあんたのミスなんだからね」
下平Dの指摘に、
「分かってるよ」
多部Dは投げ遣りな口振り。本当に反省しているのか?
「いや多部、これは事故じゃなくて確認ミスだ。オレ達も気付かなかったんだから同罪。多部だけの責任じゃない」
野瀬CPは優しい口振りで多部Dの背中に左手を置いて、のけ反ったままの多部Dを起こそうとする。
「そうね。誰一人気付かなかったんだもん。それにしても大賀さん、よく一発で気付いたわよね」
桝谷Pは大賀さんの洞察力の凄さに感服している様子。
「流石はエッセイストですね。でも芸能人と分かったらギャラが発生するんじゃないですか」
下平Dの疑問に、
「いや、それはまだ分からない。北村さんの事務所と掛け合ってみないと」
野瀬CPは苦渋に満ちた様子で答える。多分、テレビ業界のプロとして有名人を見抜けなかった事にプライドが傷付いたのだろうて。
「そうよね。今回はオファーしたんじゃなくて完全なプライベートな時間だから、多分ギャラは発生しないとは思うんだけど」
桝谷Pが付け足した。
「そうだな。後で事務所に本当に本人だろうか確認を入れてみる」
今度は野瀬CPが「ハー」と溜息を吐いてのけ反ってしまう。
「済みません。オレが取材中に気付いていればこんな事にはならなかったんだよな」
「良いんだよ多部、オレ達も同罪だって言っただろ!」
野瀬CPは上体を起こして多部Dの左肩に『ポン』と左手を置く。
その後、番組は滞りなく進行されて行き、
「ではまた来週お目に掛かります。皆さん良い週末を」
出演者全員が一礼して番組は無事終了した。さあこれから大変なのが野瀬CPだ。
約二十分後、野瀬さんが打ち合わせ中のスタッフルームに現れた。
「どうだった」
桝谷さんの問い掛けに、
「やっぱり北村さんで間違いないようだ」
野瀬さんは頭を掻きながら答えた。
スタッフルームには「でしょうね」という雰囲気が充満する。
野瀬さんの話を集約すると――
本番終わりに早速、北村政樹の所属事務所に電話を掛けた野瀬さん。すると、
『はい。オフィスリトライです』
若い女性が出たそうだ。
「あのう、私、TVヒーローズの野瀬と申しますが」
『はい。お世話になっております。どのようなご用件でしょうか』
女性は事務的に訊いて来たという。
「はい。私『NEWS YOU』のチーフプロデューサーを担当しておりまして、今日の放送でお宅に所属されている北村政樹さんらしき人が、当番組のインタビューに応じておりまして、ご本人かどうか確認して頂きたいのですが」
『そういう事でしたか。今北村は収録中なんですが、マネージャーに連絡してみますね』
「お願いします」
女性は北村のマネージャーに連絡を入れる為、ここで電話は一旦保留となったそうだ。
約五分後。
『北村本人に確認が取れました。北村本人で間違いないそうです』
女性の報告に、
「やはりそうでしたか。私共も本番になるまで全く気が付きませんで。それで申し訳ないんですが、来週の放送の冒頭でご本人に謝罪したいのですが、電話出演して頂いても宜しいでしょうか?」
『電話出演ですか。私にはスケジュールが分かりませんので、またマネージャーに問合せてみますね』
「お願いします」
ここで再度電話は保留となる。そして三分後。
『お待たせしました。来週の土曜日は北村はオフで空いているそうです』
「そうですか。ありがとうございます。それで、今回の件はギャラをお支払いした方が宜しいでしょうか?」
『今回はプライベートな時間なので、多分大丈夫だとは思いますけど、ちょっと社長に確認しますね』
「申し訳ありません」
再び電話は保留。約五分後。
『お待たせしました。社長に確認しました所、今回はプライベートで偶然インタビューされただけですので、ギャラはお支払い頂かなくても結構だそうです』
「本当ですか。ありがとうございました」
ギャラが発生しないと聞いて、野瀬さんは少し浮かれてしまったそうだ。
「来週はギャラをちゃんとお支払い致しますので」
『はい。お世話になります』
来週の放送の電話出演をオファーして、電話を終えたという。
「ええ! それじゃあ来週の電話出演まで勝手にオファーしちゃったの?」
桝谷さんは目を丸くする。
「有名人だし、そのまま触れない訳にもいかないだろう」
「それはそうですけど、オファーする前にオレを呼んで欲しかったですね」
APが不満を漏らす。出演者のブッキングやギャラの管理はAPの仕事だ。
「その事に対しては本当にごめん。勝手に専決してしまって」
野瀬さんはAPに頭を下げた。
「仕方ありませんね。今回の一件は誰も気付かなかった事ですから。電話出演なら、ギャラもそう高くはないでしょうし」
APは今回はしょうがないと折れてくれる。
「済みません。オレがインタビューする時に気付いていれば、こんな事にはならなかった」
多部は再度謝罪した。
「良いんだよ多部。オレ達も同罪だって言っただろ!」
野瀬さんは本番中の時みたいに優しい口振り。
「そうね。今回の事は仕方ないわ。電話で清々と謝罪しましょう」
桝谷さんも折れてくれた。
「謝罪は平田、来週頼んだわよ」
桝谷さんは平田アナに注文を付ける。
「はい。分かりました」
平田アナは素直に応じてくれた。しかし、また平田アナの負担は増える事になるけど。これはメインキャスターの宿命。
その翌週の土曜日がやって来た。
平田アナは会議中、野瀬さんとどう北村に謝罪するか綿密に打ち合わせ。そして本番。
「こんばんは」
三人はカメラに向かって一礼。その後に平田アナのアップになる。
「今週はニュースをお伝えする前に、先週の放送を振り返ります。先週お越し頂いた大賀さんも指摘された通り、先週の放送で消費税率十%引き上げをどう思うか街頭インタビューした際、お答え頂いた方の中に、俳優の北村政樹さんがいらっしゃいました。私共は本番まで全く気付かないというミスを犯しました。今週は北村政樹さんと電話がつながっています。もしもし、北村政樹さんでしょうか?」
『はい。北村政樹です。こんばんは』
「こんばんは。先週の放送の方は北村さんで間違いないそうですね?」
『はい。あれは私で間違いないです』
「取材ディレクターも私達も事前にVTRを観たんですけど、全く気付かず、本当に申し訳ありませんでした」
『全然問題ありません。私の方こそ名乗らなかったんで。申し訳ない』
北村は最後の方は声のトーンを落として謝罪した。
「こちらこそ完全な確認ミスでした。済みません」
『良いですよ気にしなくて。それより二月中旬に私が出演した『FOREVER』が公開されるので、そっちを宜しくお願いします。エンタメニュースありますよね?』
「はい。あります。分かりました。『FOREVER』、確り宣伝させて頂きます」
『宜しく頼むぜ!』
最後はバラエティの乗りで締めた。
「本日はお忙しい中、本当にありがとうございました」
『今日はオフだから最後まで番組を拝見します』
「ありがとうございます。では失礼します」
『はい。映画の告知宜しく!』
念を押され、電話を終えた所で謝罪終了。
「では改めまして、本日も一週間のニュースからお伝えします」
番組はいつも通りの進行に戻った。
「謝罪の電話だったのにちゃっかり宣伝を入れて来るのね」
桝谷Pは少し呆れた様子。
「そりゃ芸能人だからな。元々『FOREVER』はエンタメで宣伝する予定だったし、一足早くて良かったんじゃないか」
野瀬CPは本番を見守りつつ理解を示した。
翌日、昨日放送された『NEWS YOU』の数字が発表される。事務所で視聴率表に目を通すと、平均十一・五%。
「珠希、昨日の数字が出たぞ」
「そう。何パーだった?」
珠希が自分のデスクから近付いて来る。
視聴率表を珠希に渡すと、
「凄い! また二桁行ったんだね」
彼女は素直に喜ぶ。
「またSNS効果かもな」
「でもあの番組、何かスキャンダルがないと数字取れないのかなあ」
珠希の言う通りだ。今まで数字が二桁に届いた回は全てスキャンダルによるもの。
「何とか通常の回で二桁取りたいものだよな」
「そうだよね。数字が二桁に行くのは嬉しいけど、せっかく一生懸命構成会議で企画出してるんだもんね」
珠希は最初こそは素直に喜んだが、後の方は少し残念がった。
二月下旬の構成会議。
「皆に報告しなきゃいけない事がある」
野瀬さんは神妙な面持ちで言う。
「自由党がTVヒーローズに対して、幹部への取材や番組出演を当面拒否すると発表したんだ」
野瀬さんは言い終わると深く溜息を吐いた。
「それ、今日の新聞で読んだよ。『政権与党の自由党のTVヒーローズの出演拒否、「党としての抗議」妥当と認識』ってな記事があった」
虎南さんも苦渋に満ちた表情。
「オレも読みました。どうもうちの番組がきっかけみたいですね」
「うん。そうみたいね」
桝谷さんも神妙とした面持ち。
発端は一月下旬の放送で、消費税率十%引き上げについてコメンテーターが、
「十分な議論もせず、強引に可決させたのは見え見えですよね。幾ら(消費税率アップを)先延ばししたとはいえ、増税ショックを加速させるだけですよ」
と発言した事だった。
この報道に対し自由党の小菅幹事長は今朝の会見で、「全て与党に責任があると、視聴者が誤解するような内容があった」、「我が党へのマイナスイメージを巧妙に浮き立たせた」と述べる。
「うちだけが突出した内容じゃなかったのに何故?」
桝谷さんは小首を傾げた。
「多分、過去の事が影響してるんだと思う。目の敵にされてるのかもな」
何気なく発せられたと思われる野瀬さんの発言に、
「それってオレの痴漢事件の事か?」
虎南さんは不快な表情。
「いや、それは分かりません」
野瀬さんは慌ててフォローした。
「オレの失言した回の事かもな。奥村ちゃんのピンマイクが声を拾っちゃったから。それにしても、また消費税の事で問題発生かよ」
多部は溜息を吐いて頭を抱える。
「案外二人の「事件」が自由党の幹部に目を付けられたのかもしれないよ」
下平はにやついて言う。
「下平、笑ってる場合か。オレは態と遣ったんじゃねえよ!」
虎南さんは尚も不快な表情。
「オレもあの件は態とじゃなかったんだよ!」
多部は困惑気味。
「いや下平、虎南さんと多部を責めてもしょうがない。オレも言い過ぎた。過去の事は問題じゃないかもしれない。この問題はオレ達では解決出来ない事だ」
野瀬さんは優しい口振りで下平を諭す。
「それもそうですね」
下平は素直に納得。
「さあ、私達は心機一転会議を再開させましょう!」
「そうだな。オレ達は会議に集中しよう!」
桝谷さんと野瀬さんの号令により、会議は再開された。
この翌日の金曜日。報道局次長と報道局報道センター室長が自由党本部を訪ね、事情を小菅幹事長に説明したそうだ。
オレはこの事をネットニュースで知った。記事の内容はというと――
『ご迷惑をお掛けしました。消費税率十%に至る過程についての説明が足りていなかった。コメンテーターのコメントが、野党の立場の代弁と受け止められかねないものであった。
今後一層、様々な立場からの意見を事実に即して、公明公正に報道してまいる所存』
と説明したという。自由党はこれらの発言を受けて、
『我が党としても、それら全てを合わせてTVヒーローズ側からの事実上の謝罪と受け止めた』
と発表したそうだ。
翌日の放送前の会議での事。
「これで問題は全て解決したぞ。自由党は党役員の出演や取材に関して、一時停止を解除したそうだ」
野瀬さんは浮かれ顔。
「何とか放送までに間に合って良かったわよね」
桝谷さんも然り。
「本当、過去の事が引き金になってなくて良かったですよね」
「そうだな」
多部と虎南さんは安堵の表情。
「さあ問題も解決したし取材しまくるぞ!」
野瀬さんだけは張り切る。
「はいオッケーでーす! お疲れ様でしたー!」
フロアディレクターからカットが掛かり、本番は終了。この後はスタッフルームで打ち合わせだ。
「さっき(報道局報道センター)室長に、「この度はご苦労様でした。うちの番組がきっかけでご迷惑をお掛けしました」って挨拶したら、「私達は謝罪も訂正もしていない」って言われたんだ。一体どうなってるんだろうな?」
野瀬さんはのっけからこう言うと首を傾げる。
「でも自由党は謝罪と受け止めたんですよね」
沢矢さんの問い掛けに、
「確かにそうなんだけど、室長達は自由党本部を訪ねて、「抗議に対して文書で回答すると共に、事の成り行きを説明したのは事実だけど、放送内容について訂正や謝罪はしていないんだ」って言うんだよ。飽く迄も「公平公正に報道して参る所存です」と表明しただけだそうだ」
野瀬さんは尚も不思議そう。
「でも最初に「ご迷惑をお掛けしました」って言ったんなら謝罪よね」
桝谷さんは微笑を浮かべる。多分、自由党とTVヒーローズの見解の相違を面白がっているのだろう。
「「事実上の謝罪」を巡って両者は平行線を辿ってるな」
「そうみたいですね虎南さん。だから室長からも最後に、「訂正はしてないから気にするな。今まで通りどんどん遣れ」って励まされましたよ」
野瀬さんの言葉に、スタッフルームは失笑に包まれた。
見解の相違があろうが何であろうがこれで一件落着。本当に良かった。
打ち合わせが終わり、オレと多部は一服しようと喫煙ルームへ向かう。
「珠希、オレ達一服して来るからあそこのソファで待ってな」
エントランスの方を指差す。が、
「私も喫煙ルームに入っちゃ駄目?」
「別に駄目じゃないけど、珠希タバコ吸わないだろ」
「興味本位」
そう言って珠希は破顔。
「あんな所に入っても服がヤニ臭くなるだけだぞ」
「良いよ。うちに帰ったら洗濯するから」
「そう」
本人がそう言うならもう何も言うまい。しかし物好きなやっちゃ。
「ユースケ、珠希ちゃんが興味本位で入りたいって言ってるんだからそれで良いだろう」
多部も珠希の味方か――
多部がガラス張りの喫煙ルームの方に目をやる。すると――
「ユースケ、(報道局報道センター)室長と(編成制作)局長が談笑中だぞ。一服するの止めるか?」
確かに喫煙ルームの中は室長と局長の二人だけ。
「ちゃんと挨拶すれば大丈夫だろう。そう怖がらなくても」
「そうだよ。ユースケ君の言う通りだよ」
「そうかなあ……」
多部は渋い表情。多部は上層部の人達を恐れている。
「だから礼儀良くしてれば大丈夫だって」
珠希が多部の背中を押す。彼女は上層部の人達であろうがプロデューサーであろうがお構いなし。怖いものなしとはこの事をいうのだろう。
多部は仕方がないという表情で喫煙ルームの方へ歩き出した。オレ達も後に続く。
「おはようございます」
多部、オレ、珠希のユニゾンの挨拶で喫煙ルームの中に入った。
「おう。おはよう。君達は確か、多部君とユースケ君。『NEWS YOU』のディレクターと作家だよな?」
最初に話し掛けて来たのは局長。三回も会議中に押し掛けて来られたら顔も名前も覚えられている。オレに至っては「仕事を急にオファーした方が躍起になって遣る」とまで覚えられているからな……下平のせいで。
「はい。そうです」
答えたのは多部。
「ご苦労さん」
局長は笑顔で労う。
「君達があの番組のスタッフか。いやあ、今回は自由党の誤解を解くのが大変だったよ」
次に話し掛けて来たのは室長。別に怒っている様子はないが、
「ご迷惑をお掛けしました」
多部は慇懃に頭を下げた。
「別に君の責任じゃないんだから謝らなくても良いよ」
そう言って室長は笑顔を見せる。挨拶も終わった所でオレ達も一服。
「平田もだいぶニュースキャスターに慣れて来たようだな」
口火を切ったのは局長。
「ええ、良い感じになって来てますね」
多部が答える。
「平田がアナウンス室長に「報道の仕事がしたい」と相談された時、室長は驚愕したそうだぞ」
「でしょうね。ぶりっ子キャラでバラエティに引っ張り凧でしたから」
多部の代わりにオレが応じた。
「一昨年の秋だったかなあ。急に「アナウンサーとしての自分の可能性を試したい」って言い始めたそうだ」
「ええ、本人からも番組開始前に聞きました」
「でもアナウンス室長は「お前のキャラで報道は無理だろう」って否定したら、「じゃあフリーとして報道番組出演を目指す」って言い出したそうでな、室長はオレに相談して来たよ」
「そうでしたか」
「ニュースは読まなくてもうちの看板の一人だったからな、「フリーになったら幾らマネージャーが付くとはいえ、自分で仕事を探さなきゃいけなくなって大変だぞ」って何度も翻意を促そうとしたんだが、「入社以来、報道志望だった」の一点張りで、彼女の意志は固かった」
「はい。それも本人から聞きました。ですが局長、お言葉を返すようですが、苦虫を噛み潰したように仰ってますけど、平田さんももう二九歳、今年で三十路です。いつまでもぶりっ子キャラで局の看板というのはちょっと」
多部がオレの左肩を『ポン』と叩いた。「ユースケ、相手は編成制作局長だぞ」とでも言いたいのだろう。
だが局長は怒りもせず、「分かってる」と話を続ける。
「だから条件を出したんだ。「退社してフリーになるのは良い。但しうちが出資している<21(トゥエンティワン)>に所属しろ。丁度放送してた土曜二十時枠の番組が大コケしたから、その枠にニュースを扱った情報番組を入れる。その番組のメインキャスターとして起用してやる。でもギャラは社員時代の額しか払わないからな。それと、その情報番組はうちの目玉企画として、テレビCMにも出演して貰う」ってな。そしたら平田は二つ返事で、「はい。それでも構いません」って笑顔で答えたんだ」
ああ、今となっては懐かしい『私達、変わります。TVヒーローズと共に』か……。
「確か<21>は給料制の事務所でしたよね?」
「うん。そうだ。だからギャラも局アナ時代と同じと言う訳だ」
局長はオレと目を合わせてニヤリとした。悪い顔。
「なるほど。そういういきさつでしたか。でも良かったですよね。番組が継続される事になって」
「確かにそうだな。君達作家も仕事をなくさずに済んだんだからな。だから今年こそは何としてでも『ニュース7』に勝ってくれよな」
そう言って局長はオレの両肩を揉んだ。
「そういう事だ」
室長が付け加える。
「じゃあ頑張ってくれよ」
局長はそう言って室長を伴って喫煙ルームから出て行った。
「何が「ちゃんと挨拶すれば大丈夫だろ」だよ。局長に嚙み付くような事言いやがって!」
多部がオレの左肩を肘で小突く。
「なーに、あれくらい言っても大丈夫だろう」
「知らねえからな。テレヒロで仕事出来なくなっても」
多部は我関せずといった表情で二本目のタバコに火を点ける。
「珠希、さっきから黙ってるけどどうかしたか?」
「何か菜水さんがかわいそうに思えて来ちゃって。TVヒーローズに広告塔として利用されてるみたいでさ」
「「利用されてるみたい」じゃなくて、利用されたんだよ。放送業界も汚い世界だからな。これで分かっただろ。自分がどんな業界に足を踏み入れたか」
苦笑して返す他ない。
「それは分かったけど……」
珠希はしんみりとしたまま。
「でも常識は大事にしろよ。この業界も今は常識が重視される時代だからな」
多部はそう言って珠希の左肩に手を置いた。珠希は「うん。分かった」と返す。
「でも汚い世界とはいっても、その世界で何か代表となる番組を持たなきゃな」
多部が話題を変える。
「多部君の代表番組って何?」
「そういやそうだな」
「うーん。今は『NEWS YOU』かな」
多部は少々得意げに答えた。
「『NEWS YOU』だけなの?」
「いや、他にも遣ってるけどさ」
「でもどんどん終わって行ってるじゃない」
珠希にやっと笑顔が戻る。その笑みは苦笑か? 失笑か? 多分前者だろう。
「そうだよな。『――やってはいけないTV』も大コケしたし」
「だからあの番組は大失敗だったけど、他にも遣ってるだろ!」
多部が少しムキになる。
「だからどんどん終わって行ってるって、さっき言ったじゃん。『NEWS YOU』以外に何があるの?」
珠希は苦笑を通り越して爆笑。
「だから他にも遣ってるよ! その番組がどんどんスベってるんだよ」
多部よ、その中の数本にはオレも関わっているんだからな。今回のように「急にオファーした方が躍起になる」とかそそのかして――
「まあ良いよ。今の多部ディレクターの代表番組は、『NEWS YOU』って事にしておこう」
「何だよ、そのやっつけみたいな言い方は」
多部は不服満面。
「まあまあ。多部君の代表番組は『NEWS YOU』って事にしといてあげるから」
珠希が多部の背中を摩る。
「何だよ珠希ちゃんまで調子に乗りやがって! 良いよ、TVヒーローズだろうが他局だろうが代表番組作ってみせるからな!」
多部は早口で捲し立てる。不満爆発。
「まっ、期待してるよ」
「そうだね」
オレと珠希が笑顔で言うと、
「ちっ。お前ら覚えとけよ!」
多部の不満は収まらない。
これから他局で打ち合わせがあるという多部と、珠希を自宅マンション近くまで送る為、二人を車に乗せてTVヒーローズを後にした。先にキー局に向け発車する。
走る事約三十分。多部は無言のまま。局に到着すると、
「ありがとよ!」
多部は不機嫌気味に礼を言うと助手席から降車し、ドアを『バーン!』と強く閉めた。送ってやったのにその態度はないだろう。
「多部君の機嫌、まだ直ってなかったみたいだね」
後部座席の珠希が笑う。
「二人で突っ掛かればそうかもな」
オレも吹き出してしまった。
珠希を自宅マンション近くまで送り、
「じゃあまた明日ね」
「うん」
簡単な挨拶をして別れる。
オレはそのままチハルの自宅マンション……ではなく、文京区内のチハルが勤務するキャバクラへと向かう。理由は、
「たまにはお店に来てよ」
と誘われたからだ。
近くのコインパーキングに駐車し、いざ店へ。パーキングの料金も高くつくぞこりゃ……。
「いらっしゃいませ!」
黒服達に挨拶され、少し緊張する。キャバクラは先輩や知り合いのディレクター達に誘われ、歌舞伎町、六本木と王道な店にも何度も行った経験はあるが、やっぱりこの独特な雰囲気には慣れない。
「お一人ですね?」
「はい」
「5番テーブルにどうぞ」
黒服に案内される。近くにいた黒服に、
「チハルさんをお願いします」
直ぐに指名した。
「はい。少々お待ちください」
黒服はインカムを使い、
「チハルさん5番テーブルご使命です!」
と呼び掛ける。これが面映い。
間もなくしてチハルがオレがいる席に笑みを浮かべてやって来た。
「ユウ、来てくれたんだね。ありがとう」
チハルはソファに座りながら満足げ。
「君が誘ったんだろ。白々しい。でも何でオレが君の売上に貢献しなきゃいけないんだよ」
「良いでしょ。いつも尽くしてあげてるんだから。何飲む?」
チハルは開き直って全く悪びれない。確かに自宅マンションに入り浸ったり、食事、洗濯などいつも尽くしては貰っているけど……だから何も言い返せず。悪キャバ嬢、恩を売りやがったな。
「取り敢えずビールで良いよ」
「そう。私も飲んで良いよね?」
「どうぞ」
「済みませーん! オーダー入ります」
チハルが黒服を呼ぶ。
「ビール二つにオードブルをお願いします」
「はい。かしこまいりました」
「おい! オードブルまで頼む事ないだろ」
「でも何かおつまみがいるでしょ?」
「ピーナッツくらいで良いよ」
「そんなケチ臭い事言わないでよ」
チハルが子供を宥めるようにオレの左肩に手を置く。人の金だと思いやがって――
やがてビール、オードブルの順で席に運ばれて来て、
「じゃあ乾杯! 仕事お疲れー」
チハルは上機嫌。
「はい。そちらこそお疲れ」
オレは少々不満。だってオードブルは高いから。
「所で珠希ちゃんはもう仕事に慣れたって感じ?」
「仕事は徐々に覚えて行ってるけど、この前「やっぱり作家はギャラが安い」って愚痴ってたよ」
「そっか。まだ新人だもんね」
チハルは納得してビールを一口飲む。
この前の事務所での珠希との会話。
「やっぱ私のギャラ安過ぎ。これじゃコンビニの時給も下回ってるよ」
珠希はオレのデスクに来て不満満面。
「またそんな事言ってるのかよ」
オレは呆れ満面。
「だってマンションの家賃とか払ったらかつかつなんだもん」
「言っとくけどオレだってそんなに貰ってる訳じゃないんだぞ」
「でもかつかつな状態じゃないでしょ?」
「まあ、昔よりかは確かに良くはなったけどな」
「そうでしょ。しかも自宅は郊外のアパートだし」
「殆ど帰ってないけどな」
「そうだよ。チハルちゃんのマンションに同居してるようなもんじゃん。あれじゃ居候みたいなもんだよ」
「バカ言うな。オレもチハルのマンションの家賃は半額出してるよ。だから居候じゃありません。そういう意味じゃオレだってかつかつだよ」
「そうだったんだ。全然知らなかった」
「人に言う事じゃないからな」
「ああ、でも私のギャラ、いつになったらアップするんだろう」
珠希は腕組をして物思いに沈む。
「あのなあ珠希、安いギャラは新人作家ならば……」
その日の午後、府中刑務所では――
「誰もが通る道なんだって。そんなに不満なら職を変えた方が良いとまで言うんだよ。また真顔でさ」
兄、竜に面会に訪れた珠希が、兄相手にまた愚痴っていた。
「ハハハハハッ! それはユースケ君の言ってる事の方が正しいな」
「何よ兄貴まで」
珠希は不満な顔をして口を尖らせる。
「だってさあ珠希、どんな職業でも最初は給料もボーナスも安いんだぜ」
竜は子供を宥めるような口振り。
「それは承知してるけど……」
「だからギャラがアップするまで頑張れよ。罪を償うつもりで放送作家に成ったんだろ?」
「ギャラがアップするように頑張るつもりでいるし、罪を償うつもりの気持ちも変わらないけどさ」
「だったら不満を言わずにその気持ちで良いじゃないか」
「確かにそうなんだけど、花魁居酒屋の時給が良かったからさ。あんな所でバイトするんじゃなかったって、少し後悔してる」
「今更後悔してももう遅いだろ。とにかく今の作家の仕事を頑張れ珠希!」
竜はガッツポーズをして妹にエールを贈る。
「その通りだね。不満ばっかり言ってても仕方ないしね。兄貴に元気貰った。ありがとう」
珠希にやっと笑顔が戻った。
「しかしユースケ君は少々厳しい先輩のようだな。Sっ気の強いNタイプかもな。ハハハッ」
「ほんと、掴み所はないし何を考えてるのか分からない人。フフフッ」
兄妹は声を出して裕介の特徴を嗤った。
一方、そんな事は全く知る由もない裕介はというと――
再びチハルが勤務するキャバクラ。
「あんまり冷たくしちゃかわいそうだよ」
「別に冷たくしてるつもりはないけどな。それだけ厳しい業界だって事を教えたいだけだよ」
「何処の業界も同じって事よね。もう一杯ビール頼んでも良い?」
チハルは納得した後、甘えた口振り。今日は店に来ちゃったから仕方がない。
「どうぞ」
売上に貢献する事は諦めたけど、随分とピッチが早い事――
「ユウもどんどん飲んじゃって良いんだよ」
こいつは呑気な奴だな。金を払うのはオレなんだぞ。だが――
「そうするよ」
二杯目のビールを一気に飲み干してしまった。
「済みませーん!」
チハルがまた黒服を呼ぶ。ビール三杯にオードブル。しかもパーキング代も加算される。それなりの所持金は準備して来たけど、一体幾らになる事やら……。
「でも珠希ちゃん凄いよね。本当に放送作家に成っちゃうんだもん。有言実行ってやつ?」
「久しぶりに事務所で会った時は鳥肌が立ったけどね。東京中の作家事務所を検索して、スタッフの中に「中山裕介」がないか探しまくったんだとさ」
「何かストーカーみたいだね」
チハルは笑いながら三杯目のビールを一口飲む。
「オレもそう思ってまた鳥肌が立ったよ。放送作家に成って自分が犯した罪を償いたいって言ってた」
「そうなんだ。放送作家で罪が償えるかは分からないけど、頑張ってるんだね。でも物は言い様よね」
「オレもそう思った」
二人で声を出して笑った。
その時スマホが着信音を鳴らす。確認すると陣内社長からの電話。また仕事のオファーだな……何となく予想はつく。だって社長からだしプライベートな事で電話して来る事はないから。
「ちょっと事務所から電話。一旦外に出る」
「そう。またオファーが来たのかな?」
チハルも予想はついている様子でニヤリとする。
「多分ね」
そう答えて足早に店から出た。
「はい、もしもし」
『もしもし中山君。また新しい仕事のオファーが来たよ』
ほらね。案の定――
「仕事のジャンルは何ですか?」
『仕事の話の前に中山君、良い彼女を持ったね』
陣内社長の声が弾む。電話の向こうで微笑んでいる姿が目に浮かぶ。
「どういう事ですか」
一応訊いてみる。
『この前、中山君の彼女が事務所に訪ねて来たんだよ』
「そんな事があったんですか」
『うん。私に用があるってね』
陣内社長の話を集約すると――
ある日、「あのう、社長さんはいらっしゃいますか?」チハルが事務所まで陣内社長を訪ねて来たという。
「ああ社長ね。いますけど面接の方ですか?」
応対したのは丁度休憩エリアにいた大畑。
「いえ違います。ちょっと中山裕介の事で」
「ああ、あなたがユースケの彼女のキャバ嬢ですか。噂は聞いてますよ」
「ええ、確かにキャバでは働いてますけど……」
ニヤリとする大畑と困惑するチハル。
「ちょっと待っててくださいね」
大畑は社長を呼びに行く為オフィスエリアに入って行く。暫くすると陣内社長が一人で休憩エリアに出て来たそうだ。
「私が社長の陣内ですけど、あなたは?」
「私は中山の彼女のチハルといいます」
「そう。あなたが中山君の。それで、今日はどんなご用件で?」
「今日は社長さんにお願いがあって来ました」
「お願い? 中山君の事で?」
社長は最初訝しがったという。
「そうです。陣内社長、これ以上中山を老け込ませる仕事をさせないでください!」
チハルは懇願して頭を下げたそうだ。
「老け込むって何の仕事?」
「夕起さんの本『DEPARTURE』が映画化されたでしょう。あの映画の脚本の仕事です」
「ああ、あの仕事。あれは夕起さん直々のオファーだったから仕方がなかったんだよ」
「でも髭が二本も白くなったんですよ。私、忍びなくなっちゃって」
「そうだったの。そう言われると私も忍びないけど、中山君はうちの稼ぎ頭だからねえ」
陣内社長は腕組をして困り顔。
「稼ぎ頭と言って貰えるのは私も嬉しいですけど、でもお願いです! 中山を老け込ませないでください」
チハルはオレの為に再び頭を下げたという。
「そう言われてもねえ。私は別に中山君を老け込ませようと思って仕事させてる訳じゃないし」
「それはそうだと思います。思いますけど、少し仕事をセーブしてあげて貰えませんか?」
「そう言われても……」
再び陣内社長は困り顔。しかし困った後、
「分かった。中山君には暫くハードな仕事はさせない。作家の仕事に専念させる。これでどう?」
こう返したという。
するとチハルは、
「ありがとうございます! 陣内社長」
やっと表情が笑顔になったそうだ。
「でも仕事のオファーが来る事は作家にとってありがたい事なんだよ。それだけは分かってね」
最後に陣内社長が念を押す。
だがチハルは、
「それは分かってます。仕事がある事はありがたいですもんね」
笑顔で返したそうだ。
「そうだったんですか。チハルがねえ」
『そうよ。だから彼女を大事にしなきゃ駄目よ』
「分かってます」
今も売上に貢献してるし。
『それで、肝心な仕事の話なんだけど』
陣内社長の声が仕事モードに変わる。
「ああ、すっかり忘れてました」
『こら! 元は仕事の事で電話してるんだから忘れちゃ駄目でしょ』
「はい。済みません。それで新しい仕事のジャンルは何ですか?」
『今回はバラエティよ。中山君はうちの事務所の稼ぎ頭なんだから期待してるよ』
陣内社長の声が弾む。だが――
「ハードな仕事はさせないとチハルに言ったんじゃなかったんですか」
少し意地悪気味に返してみる。
『またそんな事言って。図に乗るんじゃないの。作家の仕事に専念させるって言ったんだよ。あなた作家でしょ?』
「ええ。一応作家ですけど」
『まさか今回の仕事、嫌とは言わないでしょうね』
社長の声が鋭くなった。
「どうせ「嫌だ」とは言わせないつもりなんでしょう」
『言わせる訳ないでしょ!』
社長は声高に言う。こうなると何も言い返せず、「鬼社長」と心の中で呟くだけが精一杯なり……。
「……分かりましたよ。遣りますよ。遣れば良いんでしょう」
『よーし。分かってくれればそれで宜しい』
陣内社長の声は満足げ。ここまで来ると「鬼社長」じゃなくて「鬼軍曹」だなこりゃ――
電話を終え店に戻る。
するとチハルは四杯目のビールではなく、今度はウーロンハイを勝手に注文していやがった。
「こら! 誰が頼んで良いと言った」
「ごめーん。長い電話だったから待ちきれなくて」
チハルは破顔一笑。既に出来上がっている。こうなったら仕方がない。
「オレは次は何にしようかな」
残っていたビールを飲み干した。
「さっきの電話、仕事のオファーだったんでしょ?」
「まあな」
「新しい仕事が入った所で今日はガンガン飲もう!」
チハルのテンションは上がりまくり。
「済みませーん。ピンドン入りましたー!」
チハルがまた黒服を呼ぶ。すると店内には「ありがとうございます!」、「おーっ!」という、黒服達の声が木霊する。
「おい! ピンドンなんて払えないぞ、オレは」
「良いでしょ。今日はお祝い。お金が足りなかったら私が貸すから」
「図に乗りやがって。只新しい仕事が決まっただけだぞ」
「まあ良いじゃない」
チハルに遠慮する様子は全くなし――
ピンドンが運ばれて来た来た所で、
「さっき電話で社長から聞いたんだけど、チハル、態々事務所まで社長を訪ねて行ったそうだな」
それとなく話を切り出してみた。
「ああ、この前ね。仕事の時とは違うナチュラルメイクで行ったんだけど、「あなたがユースケの彼女のキャバ嬢ですか。噂は聞いてますよ」って男の人にからかわれちゃった。ユウ、どんな噂流してるの?」
チハルがジロリと目を合わせる。
「別に変な噂は流してないよ。只彼女はキャバ遣ってるって正直に言ってるだけで」
「キャバって正直に言わなくてOLとか適当に返しとけば良いのに」
「でも多部とか何人かは知ってるからしょうがないよ。因みに最初に応対したのは大畑っていって、調子の良い男なんだよ。だから気にするな」
「ふーん、そうなんだ」
チハルは納得してピンドンを一口。
「それより、社長にオレを老け込ませるような仕事は遣らせないでくれって言ったそうだな」
「だって髭が二本も白くなったじゃん。私、ユウが老け込む姿見てられなくなってさ」
「髭は二、三日で元に戻ったけど、映画の脚本は確かにハードだったなあ。まっ、その甲斐あってそこそこヒットはしたけど」
「映画がヒットしたのは何よりだけど、ユウの身体が心配になっちゃって事務所まで陣内社長を訪ねて行ったって訳」
「そうだったのか。でもうちの事務所の場所よく分かったな」
「簡単よ。ユウの名刺を一枚拝借してタクシーで南青山まで行って、後はスマホのナビに住所入力すれば直ぐだもん」
「いつの間に名刺を拝借したんだよ」
「ユウがお風呂に入ってる時にちょっとね」
チハルは得意げに笑う。
「そこまでしてくれたんだ。どうもありがとよ」
「本当にありがたく思ってるんなら何かお礼してよ」
チハルはまた甘えた口振り。
「もう十分お礼してるじゃねえかよ」
オードブルにビール六杯、ウーロンハイが一杯にピンドン……。
「改めて。フルーツの盛り合わせ頼んでも良い?」
「いい加減にしろ!」
恩を売りやがって。とは思ったものの――
「今日は仕方がないか。態々オレの身体を心配して事務所に出向いてくれた訳だし、どうぞ」
エビフライを口にしながら、言ってしまった……。
「ほんと!! ユウ太っ腹。済みませーん! オーダー入りまーす!」
チハルが弾んだ声で黒服を呼ぶ。
しかし何度も言うが、一体幾らになるのやら。手持ちの金では足りないな……絶対に。
大畑のギャグを借りるなら、チハルも男性器と同じだ。だって、扱い方を誤るとどえらい目に遭うから。お粗末――
了
※作中にNHKとういう実在の放送局と『ニュース7』とういう実在の番組タイトルが出て来ますが、NHKの方には事前に許諾は得ています。「普通は架空のタイトルにするよね」と、釘は刺されましたが……。