私のエッセイ~第六十六弾:「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の衝撃!!!(番外編2)~著名人のコメント
こんばんは!お元気ですか・・・?
ここでは、事件を引き起こした宮崎勤に対する、著名人が残したコメントのいくつかを紹介します。
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【著名人のコメント】
山村美紗(推理作家)
宮崎は愉快犯などではなく、遺体を分散させたのは、処理に困って投げ出した、との印象を受ける。
E梨香ちゃんの遺体は、埼玉県の少年の家付近に、またA子ちゃんの頭の骨はキャンプ場近くの林の中に置いてあり、幼さの残る社会性のない青年が、「大人になりたくない」と主張しているようにも見える。
(『日経新聞』1989.8.11)
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つかこうへい(作家)
性的な成熟がないから、なかなか女性に声がかけられない。
女が怖い。
でも、それなら、身近な優しい男に声をかけて、オカマにでもなってくれたらいい。
幼女にいくことはない。
それとも、近頃のオカマは、女以上にタチが悪いのかな。
(『中央公論』1989年10月号)
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舛添要一(国会議員、政治学者)
「フランスの人肉事件より異常倒錯」
フランスで人肉を食った事件(佐川一政)があったが、あの事件は、大人の女を相手にしていたのだから、性的倒錯度はまだ少ない。
今回の事件は、同年代の女に相手にされないウップンが、幼児に対して爆発した。
幼児が性犯罪の対象とされた事件が増えているのは、女が強くなったからですよ。
今は男性受難の時代で、宮崎のように、女から相手にされない男が増えている。
対象が、弱い子供になってしまうんだね。
(『週刊現代』1989年9月2日号)
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アントニオ猪木
極刑だね!!
いや、こんなこと言っちゃいけないのかもしれない。
でも許せない。
いやな世の中になってしまった。
健全な青少年の育成に、私も個人的に随分努力してきたつもりなんだが。
オレが仕事をやったんだと、胸を張って言えるリーダーが少なくなってしまったから、こんな事件が起きる。
リングの中で30年、そして今国会へ来て、われわれが果たす役割は大きい。
国会でも、スポーツ交流の重要性を訴え、若い人たちを健全な方向へ導いて、平和な社会に戻すために努力をしなければ。
(『スポーツニッポン』1989.8.11)
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デーブ・スペクター(米ABC放送プロデューサー)
今回の幼女連続誘拐殺人事件については、特に驚かない。
もっと恐るべき人はいるはずで、表面化せずに「眠っている」だけではないか。
社会は完璧でなければ、というのは間違いだと思う。
東京の近郊では、2500万人が生活していることを考えると、こうした事件は、むしろ日本は少ない方だ。
日本人は和を大事にし、家族のことを気にするから、こんな事件はめったに起きないが、国土の広いアメリカでは、とんでもない事件が起きる。
(『東京新聞』1989年8月19日付)
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大島渚(映画監督)
問題なのは、今の新聞などマスコミ記事が、警察発表を全部ウノミにしていることだ。
宮崎が上申書に書いたことだって、しゃべったりできるわけじゃないんだよ。
警察はこういう方向に持っていってやろうなんて腹づもりがあって、それに沿ってしゃべらせられているから、マスコミはそのことを考慮しなければならない。
(『週刊現代』1989年9月2日号)
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立川談志(落語家)
あの男はマンガとビデオが趣味で、仕事もろくすっぽしていなかったらしいが、今回の事件は、生まれて初めて自分の手でものごとを成し遂げた行為だったんだろう。
それも、親の手を借りずに成し遂げたんだ。
「どうだ!」と言わんばかりに、被害者の家へ遺骨を送りつける神経なんざぁ、子供を殺して後悔している人間ができることじゃない。
今の宮崎の心境にも、罪悪感による後悔はないね。
アイツにあるのは、犯罪が挫折して捕まってしまったことによる後悔。
失敗感ばかりなのだと思うよ。
宮崎の態度に反省のカケラもないというが、本人にすれば、不思議でもなんでもないんだ。
善悪の分別があって、やってはいけないことを、たまたまやってしまったという犯罪ではないんだからね。
それにしても、今の報道ぶりは、まさしく一億総噪状態。
ジャンボ機が墜落したのなら、「飛行機は危ない」ということを訴えるのだから仕方ないだろう。
しかし、今度の事件を新聞、テレビが連日大騒ぎするのは何を訴えたいからなんだ?
「ビデオマニアに気をつけろ」なのか、「26歳ぐらいの若者は危ない」なのか?
レポーターがしかめっ面で、「宮崎を許せない」と連呼するぐらいなら、みんなで宮崎をドスで突いてみろよ。
また、報道を食い入るように視聴者が見ているのも、ゲスの覗き趣味だ。
みんな宮崎と同じ了見を持っているから、夢中になって見ているんだよ。
オレは宮崎なんかと同じ了見を持ってないから、もうニュースなんか見てないよ。
(『週刊現代』1989年9月2日号)
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小林完吾(元アナウンサー)
私もM理ちゃんと同じ団地に住んでいますが、情報をいち早く伝える立場の人間として、役目を果たそうとすればするほど、M理ちゃんのご両親の気持ちをえぐるようでやるせない思いです。
これまで、より“いい声”を拾いたいとの気持ちから、ご両親に、無理にインタビューをお願いしたこともありましたが、どれほどつらかったことか。
全文が公表された宮崎の上申書をニュース番組で読んだ時などは、何とも言えない気持ちでした。
(『スポーツニッポン』1989年8月20日付)
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夏樹静子(推理作家)
実を言うと、今度の事件で被害者の自宅前に人骨など入った段ボール箱が置かれた頃から、私の家へ報道関係者のコメントを求める電話がかかり始め、新聞社に犯行声明文が届いた段階で、電話のベルがまた一段と騒がしくなった。
犯人が女性である可能性が増大したからだろうか。
が、これまでも今回も、私は事件についてのコメントを一切お断りさせて頂いてきた。
推理作家だといって、現実の事件の真相を、小説の名探偵みたいに明察できるとは限らないし、まして社会経験が乏しい私には、さっそくに有益で的を射た意見を吐く能力などなかったからである。
(『朝日ジャーナル』1990年2月14日号)
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佐川一政(1981年の『パリ人肉事件』の加害者)
僕の事件の報道のされ方で一番強く感じられたのは、被害者と加害者の属する世界を峻別し、
者・・・・・つまり、僕・・・・・は、“人非人”として対岸に追いやる、というやり方でした。
今回の場合も、“人非人”として、容疑者を血祭りにあげることには変わりありませんが、どうもそう簡単には対岸に追いやるわけにはいかない、ビデオが積み上げられた彼の部屋の情景は、『俺の友人のところでも見たぞ』という様な、薄気味悪さがついて回っているのではないでしょうか。
自分の属する世界と、容疑者の属する世界との境界線の判別が定かでないということです。
その点で、僕の事件の様にはスペクタクル化できない、“観客”として安心して見ていられないところがあり、次々に現われる、おぞましい物証や事実を報道する筆にも、あるとまどいの如きものを感じるのです。
それだけ今回の事件が、社会的な意味を持っている、ということになるのでしょう。
その点で、大いに論じられるべき側面はあると思います。
(『テーミス』1989.9.6)
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この、最後にコメントを残してくださった「佐川一政さん」・・・私ね、個人的にけっこう好きなんですよ。
石堂氏に、かつて、その存在すら否定された彼ですが・・・この理知的で冷静なものの見方、けっこう好きですね。
この「パリ人肉事件」も、機会があったら、取り上げて見ますね。では、次のエッセイに参りましょうか・・・。 m(_ _)m