「初めての始まり」
レイとルディアは目の前の光景を目にして驚きと興奮に目を見開く。
目の前には大地が広がり木々が所狭しと並んでいる。空を見上げれば白い雲が青空に点々としながら泳いでいる。太陽らしきものは2つあり片方は白く輝きながら大地を照らし、もう一方は赤黒いながらも白の太陽と同じ輝きを放っている。視線をそこから少し落とせば島々が点々と浮いていた。
元の世界では見たことの無いものばかりだ。
「兄さん!間違いなく異世界ですよ!本当に、本当の異世界です!」
背後でディアが興奮気味に言う。テンションが上がっているのは自分も同じだ。見るもの全てが気になって仕方がない。目線を目の前に戻せば、そこには木がある。ただし唯の木では無い、木の樹皮は鉱石の様な青い石に覆われた神秘的な木だ。周りを見ればその木が一本だけでなく複数もあり、青だけでなく他の色の木があるのも確認できた。その他には元の世界の図鑑に載っていた木に似たものや、液体の様に不定形の花?らしきものを樹上一杯に咲かせているものもある。
森の不思議な木々を堪能しながら森を進んでいくと、
「兄さん!見てください!大きな水溜まりがあります!」
ディアの嬉しそうな声が聞こえる。アームが挿した方を見れば確かに水が反射した光が目に入り、先程の太陽の時同様、目を細めてしまう。湖だろうか?近づいてみる。
近くで見ると想像の倍よりデカいな。外周は2kmはありそう。水は…綺麗そうだけど、飲める?
「ディア、ちょっとこの水を調べてみよう。l
ディアには様々な機能をその身体に仕込んでいる。簡単な水質検査くらいならできるのだ。
頼まれたディアは「分かりました!」と未だに興奮した様子で了承した。その返事を受け、レイは自分のフードの中にいるルディアを抱えて地面に下ろす。するとディアは湖にアームではない棒状の物を漬ける。それから数分が経った。ボーっと湖を眺めていると、
「う〜んと、飲めるかは…正直分かりません。」
「何か有毒そうなものでもあった?」
唯の毒であれば、毎日少量ずつ飲めば自分の身体は耐性を獲得できるだろう。そのことをディアも知っているはずだ。
「いえ、そうでは無くて、基本この水は元の世界の物と酷似しています。ですが未確認の物質の様な物が多分に含まれています。細菌の類では無さそうなので飲めるかもしれませんが…。」
どうやら謎成分が含まれているらしい。興味はあるが謎なものを口にする勇気はない。だが水の確保は必要だ、それに異世界の水を飲んでも人体に影響が無いのか調べたい。もし適さなかったらどっち道、死ぬことになるだろうから。そう考えレイは鞄から鉄製でありながら持ちては断熱材で作られたコップ取り出す。そのまま水を汲み、口にあと3mmの所で手を止める。未知の物は興味こそ湧くが不安も出てくる。レイは勇気を振り絞り飲むかどうかを考え、
「念のため煮沸しよう。」
気休めだと理解しながらも定石的な結論を出した。それを聞き、
「そこまで運んだなら飲んじゃえば良いのに…」
と小さな声でディアが呟いた。
勿論、レイの耳は聞き取ったが聞き流す。未知の物に対しての恐怖は誰にでもあるだろう。その為、レイがビビり散らかしているのは誰にも責めることはできないだろう。ディアの肝が据わり過ぎているのだ。もしかしたら調べたデータを目にしているかいないかの違いかも知れないが。
「煮沸となると火が必要だな。」
そう言い、手にしていたコップをディアに預ける。そのまま周りを見渡し、疑問が浮かぶ。目の前にある不思議な木は燃えるのか?だ。燃やすと言えば木が定番だ。だが目の前の木は鉱石の様な見た目である。普通の木に見える木も存在するが、やはり試してみたいものは試したい。そう思い歩き出す。鉱樹の足下まできて見上げる。立派な木だ、高さは7m程だろうか。木からへし折ったばかりの枝は水分を多く含み、燃えにくいと本に書いてあったのを思い出す。異世界も同じかはわからないが既に落ちている枝を拾うことに目的をチェンジする。自分の足下を見れば、落ちて尚淡い輝きを放つ枝が複数落ちていた。それらを拾いディアの元に戻る。
「マスター、それ燃えるんですか?」
ディアの疑問は至極当然。見た目は石にしか見えない枝だからだ。だが見た目に反して以外と軽い。
「わからない。」
ディアに簡潔に答える。その後ディアから何も小言が無かったのでディアも純粋にこの枝に興味があるのだろう。レイは考えながらも鞄から着火剤などを取り出し、火をつけて枝を投入する。
「「わ!」」
ディアとレイの声が重なる。
ビックリした〜、まさかこんな勢いよく燃えあがるとは。それにもう燃え尽きちゃったし。
レイは跡形もなく消えた枝に驚く。どうやら可燃性が強すぎたらしい。原因はわからないけど。だがこんなこともあろうかと帰り道に拾っておいた普通(見た目は)の木の枝に火をつける。普通に燃えた。なんだつまらん、と思ってしまう。折角の異世界の木なのだ、もっとド派手に弾けるのを期待していたのに。と、アホな考えをしていると、
「なんか期待はずれです。」
ディアもどうやら爆散がお望みだったらしい。勝手に期待されて失望される樹木さん哀れ。冷静に考えればこの森に生えている木が全て爆発物だったら身を守るために持ってきた銃が使えなくなる。普通の枝に感謝しながら煮沸を始める。やり方は火の中にカップをドンと直火焼きスタイルだ。取り出す時に火傷してもすぐに治るから問題はない。ヤドカリにやられた頬の傷も綺麗に治っている。相変わらず治癒力の可笑しさに自分の身体ながら変な気分になる。
数分後、
再度、ディアに検査してもらったが「さっきの水がホカホカになりましたね!」とだけ返ってきた。飲むの怖い。時間が経つほど怖くなる一方なので勇気を出してグイっといく。
「あ、美味い…」
数時間後、
今はディアと鉱石の枝をうつ伏せの状態から火の中に投げ入れて遊んでいる。どうやら枝にも個体差が有るらしく、火に焚べると燃え上がる火柱の大きさが違うのがわかった。ディアとはどちらが大きな火柱を挙げられるかの勝負の真っ最中だ。
「やったー、当たりです!」
喜んでいるディアの目の前には4mは有る火柱が燃え上がっていた。
「…負けた…」
こんな些細な勝負でも負けるなんて、いよいよ兄としての矜持が砕けそうだ。もういっそディアの弟になるか?と考えていると、
「そういえばマスター、身体の調子はどうですか?」
身体の調子?別になんともないが。
「別に何とも無いよ。」
平然と当たり前の様に返す。
「…その感じは、さっきの水飲んだの忘れてる?」
…忘れてた。いや、だって飲んでも直ぐにはなんとも無かったし、むしろ美味しい水だったし、危険物の可能性なんて口に入れて飲みこんだ時に一緒に飲みこんじゃった。取り敢えず誤魔化せばいいか。
「覚えてるよ。それよりも洞窟内を彷徨った時に使った分を補充しておこう。」
自分はポーカーフェイスだから誤魔化すのは得意だ。
「…兄さん、目が泳いでますよ。」
…妹は騙せ無かったらしい。誤魔化すのは止めるか。
レイは小さくため息を吐きながら安全だと判明した水を湖から補充して鞄に使った物と一緒にしまう。そして再びディアをフードにしまい歩き出した。歩きながらレイは考える。次にすべきことは何かを。
人はいるかな?いると嬉しいんだけど、どうだろうな…。知的生命体が存在したとしても自分みたいな人形とも限らないし。でも街を作る程度に文明が発展しているなら会いたいしな〜。
自分の異世界での目的は旅をしその過程で様々な景色を見ることだ、その中には人との交流もしてみたいと思っている。ディアの目的は元の世界では実現できなかった肉体を手に入れること。その為にはやはり人に近しい物達との交流があった方が良いだろう。つまり最初に目指すものは、
「人族の街を目指そう。存在するかわからないけど。」
ディアはフードの中で器用に頷く様に転がる。ディアの同意を受けて旅の第一目標は決まった。進むべき方向は勿論わからないので、今歩いている道を歩き続けることにする。
どのくらい歩いたのだろうか日は暮れ始めており、辺りに闇が混ざり始めた。この世界にも夜があることを確認しながら、これ以上の探索は危険だと判断したレイは野宿ができそうな場所を探す。探し始めて10分で運良く洞窟を見つけることができた。洞窟と表すより洞穴の方が正しいかもしれないが。レイは洞穴の中を注意深く調べ、動物の痕跡や危険がないことを確認する。洞穴に入り火を起こす。燃料は着火剤と道すがら拾っていた普通の木に似た枝だ。オマケに鉱樹の枝も拾ってある。断じて遊ぶわけではない、とは言い切れない。火を2人で囲いながら携帯食を食べ仮眠を取る。2時間おきに見張りを入れ替わる方式だ。夜中には特に何も無かったため、無事に朝を迎えることができた。レイは荷物を纏めて背負い、ディアもいつもの所に収納する。忘れものが無いかを確認して出発した。朝日を見るのを久しぶりに感じながら朝露に濡れた草木を掻き分けて進んで行く。しばらく進むうちにレイの耳が僅かな音を拾う。
「またか…」
「またですね…」
レイは聞き取った音の方向注意しながら迂回をする。レイ達が、またと言うように迂回をするのは今回が初ではない。音の正体は洞窟内で遭遇したヤドカリだ、それも一体では無く複数が集まっている場合もある。どうやら此処ら一帯を縄張りにしているらしく見かけるのはヤドカリばかりだ。複数と戦うのはリスクが大き過ぎるので避けることにしている。その為、今の所で戦闘したのは洞窟内のヤドカリだけだ。
「マスターも魔法とか使えるんですかね?」
いきなり突拍子もないことを聞いてきたのはディアだ。
「魔法かー、使ってはみたいな。」
この世界は魔法らしきものはあるらしい、少なくともヤドカリが使っていた風の塊は科学的に説明のつかない現象ではあった。
「あの風のやつ使えたら、戦闘が楽そうなのに。」
レイが平坦な声で残念そうな言い回しをする。実際に残念がっているのだが傍目から見れば非常にわかりにくい。長年の付き合いであるルディアぐらいしか汲み取れないだろう。
「確かに、戦闘面では不安がありますからね。」
冷静な妹の分析に悔しいながらも同意するレイ。それから数分歩くと前方に遺跡の様な物を見つける。近づくに連れてそれが家らしき建築物、つまり人工的なものであることに気付く。レイは周囲に気を配りながら早足で近づいく。近くで建築物を確認し、それが家として建てらたものだと確信した。だが目の前の家は黒く燻んだ石でできており既に天井の頂点は風化してしまっている。周りを見渡せば他にも家らしき物はあるがどれも劣化が激しく、家の形を保っているのは目の前の家だけだ。
「それにしても、本で読んだ家と形状は似てるんですね。」
ディアの言う通り、目の前の家は平家でドアと窓らしきものがあり三角の屋根が乗っている。元の世界での文献によく載っていた家にそっくりだ。もっとも見るのは初めてだが。
レイ達は周囲に何か面白そうなものは無いか探したが特に目ぼしい物は見当たらない。この場にいても得られるものはないと判断したレイは再び歩き出そうとし、
「マスター!後ろ見てください!」
興奮気味のディアに呼び止められた。敵か!と思い周囲の気配を探るが危険は感じなかった。では何なのかと改めてディアを視界に収めればディアは後ろをアームで指していた。その方向を確
認したが違和感はない。もう一度ディアをみればやはり後ろを指している。後ろといえば自分達が歩いてきた方向、その先には洞窟の入り口があるはずだ。と思い洞窟を見て、納得した。
近くでも中にいても気付くことはできない。それこそ今のように遠くから全体像を視界に収め無ければ。
洞窟のある場所には黒い城が鎮座していた。
どうやら自分たちが出てきた入口は正門にあたる場所だったのだろう。山にも見える城は左右に筒の様な建物が複数確認できるがどれも崩れ落ちてしまっている。この城が嘗ての権威を損なわずにこの場に存在したのならばどれほど荘厳だったのかと思わせるほど城の瓦礫の山は、それこそ山としてレイの目の前に座している。城らしき物があり、その足下には家があることから嘗ては一つの国だったのかもしれない。それも城の大きさから大国だった可能性もある。初めて見る城に家、この二つ要素からこの場所が国だった可能性に直ぐ思い当たったのは過去の文献のおかげだろう。ディアは未だに興奮が冷めない様子だ。それもそうだろう目の前の光景を見れば人類が存在する証拠にもなるのだから。もう滅んじゃってるかもしれないけど。
「ディア、人がいる可能性は高いと思う。近くに街が残っていると良いんだけど。」
そう思い、今まで歩いてきた方向にまた歩き出す。そして家が立ち並んでいたのだろう街を抜けて3mもしない距離で不意に腰の当たりを鋭く押し込まれるような衝撃が走る。
「へ?」
ルディアは咄嗟の出来事に目を白黒させた声をあげ、レイも思わず苦しげな息を吐く。その衝撃は勢いを増しレイの身体を安易と吹き飛ばした。レイは咄嗟にフードの中のディアを手で押さえた為、離れ離れにはならずにすんだ。
レイは吹っ飛びながらも妹の無事を確認し今の状況を考える。レイは今も勢いを増す力により森の中を飛んでいく、周囲の景色の移り変わりが早い。焦りながらも状況の改善策を考えようとするが良い案が思いつかない。
焦りが思考を乱す。
流石のレイの肉体でもこの速度の中で壁にでもぶつかればただではすまない。レイの治癒力が高いといっても限度がある。かすり傷程度ならものの数分で治るが、重症になればなるほど治癒に掛かる時間が長くなる。腕を吹っ飛ばされても止血などの応急処置さえすれば設計上そのうち生えてくるが、下半身を抉り取られれば治り切る前に流血で死ぬ。つまり今のこの状況は非常に危険だ。足を犠牲にする覚悟で地面に足をつけ速度を軽減しようと試みるが高さ的に無理だった。周りの木の枝を掴もうと考えたがこの速度を止めることはできないと判断し諦める。轟音が耳朶を激しく打っている。今、自分にできることは無いと本能的に理解したレイはルディアを抑える手に力を入れる。その時だ、高速で森の中を飛んでいた時は緑色の点滅が見えたが、不意に消えた。見える色は白と青のみになる。足下には地面がない。走馬灯のように異世界の景色が脳裏を迸り、異世界に来て初めて見た外の世界、その景色を思い出す。浮く島々の景色を。
乱れる思考の中で結論がだされる。今までいた大地はどこまでも続く大地ではなく今も上を見上げれば目にすることのできる浮いた島、大地に終わりのある島々の一つだったということを。宙に放り出されてから先程までレイの身体を刺し押すような力が急激に弱まった。レイの身体は水平投射を始め、速度の向きが下へと変わり始める。レイはフードの中のディアをこのままでは押さえきれないと判断し、空中にも関わらず器用に胸に抱える姿勢に変えた。レイの驚異的な体幹の成せる技だろう。ディアを抱え終えたあたりで下を見れば、雲の様な白い絨毯が広がっていることに気づく。その絨毯にふと線のような亀裂が入る。
そこを注視すると、青と白色を持つ巨大な生物が蛇の様にうねりながら姿を表したと同時に腹の底まで響くような重低音があたりに木霊した。
咆哮だけで小動物を殺せそうな迫力を持つ生物をみる。大きさは遠くから見ても大きいとわかるほどデカイ。生物は文献に良く出てくる竜に似た見た目だが、顔は爬虫類のようでありながら魚類に似た面立ちでシャープな形をしている、鱗も魚類に似ている。そして竜と表現したのは間違いであることに気づく。視界の前方にいる生物は飛魚が持っている半透明の羽をもち、その羽は霧のような性質なのか揺らめいているが翼としての形を保っている。翼を持つ点は竜に似ているが足のようなものは付いていない。その為、見た目としては竜よりも龍と言い表す方が正しいからだ。その龍の長い体を頭から尻尾の先までを青と白色が交互に波打つように移動している。
龍と目が合ってしまった。
爬虫類のような細い黄色の瞳孔がレイ達を獲物として捉えたらしい。凄まじい勢いでうねりながら迫ってくる。
「兄さん!マズイです、逃げて!」
胸の辺りからディアの切羽詰まった声が聞こえる。勿論、レイも逃げる選択に両手を挙げて賛成。
だが、今いる場所は空中だ。逃げるにしても身動きが取れない。龍はもうすぐそこまで迫っていた。
悪あがきだと理解しながらも腰の銃を取り龍の眉間目掛けて発砲。案の定、龍の硬い鱗に防がれてしまう。龍は近づきながら大きな口を開け、レイ達を捕食しようとする。レイは龍の眼が先程と比べて血走っていることに気づく。その眼を見た瞬間にレイは龍の眼を撃ち抜いた。
考えての行動では無い、身体が反射的に動いた、生きる為に。結果として眼は硬い鱗に守られていなかった為、龍は左眼から赤い血を流す。そして不意に沸いた痛みに驚いたのかレイを狙って迫っていた口の起動が左にズレ、レイの左側を当たるギリギリを龍の長い体が通る。レイはその隙を見逃さない。銃を口に咥え、右手を開けて、咄嗟に龍の鱗を掴む。高速で飛行している龍の硬い鱗を掴んだのだ。激痛が右手に走る。痛みの根本を見ると掴んだ指先が龍の鱗で切られ血まみれになっていた。かろうじて指が中程までしか切られなかったのは、単純な話ではあるが、レイの身体が丈夫に作られていたからだ。激痛に耐えながら、レイは龍の尻尾らし部分に捕まっている。龍がレイを振り払おうと暴れる度に手に雷で撃たれたような痛みがはしる。龍は急速に飛び始め、鋭利な旋回をし遠心力を尻尾の先に伝えた。その抉られるような力に耐えられなかったレイが再び宙に放物線を描きながら吹き飛ぶ。吹き飛びながらも上なのか下なのかわからない視界の中で大地を見つけることができた。不幸中の幸いか、吹き飛ばされた場所に空飛ぶ島々の1つがあったようだ。だがこのままでは地面にぶつかった衝撃でお陀仏だろう。それを回避する為にレイは右手を犠牲にする決断をした。本能が出した結果だった。
レイは空中で身体の向きを大地に対して頭をやや下にし右手を顔の前に突き出す。着々と眼前に迫る大地を睨めつけ、覚悟を決める。着地と同時に右手に生々しい軋む音と痛みが走った。思わず苦鳴が口から漏れる。そのまま大地を叩く様に弾き、転がりながら衝撃を和らげる。奇跡的に死なずに済んだレイは手に違和感を覚え、右手を見ると…見るに耐えない姿となった腕があった。指は中指と薬指の先端が無くなっていた。
鱗を掴んだ際の傷を着地の時の衝撃でトドメをさしたのだろう。なんとも言えない消失感が胸を締め付けるが、耳を塞ぎたくなる様な咆哮がレイの思考を引き裂いた。咆哮の主を見ると、獲物を見失わずに済んだ喜びを全身で表現するようにうねりながら襲いかかってきていた。
それを確認したレイはすぐさま立ち上がり、龍と反対方向に全力で走る。森の中を走ることで空を飛ぶ龍の脅威から逃れようとするが、龍が木に近づくと木が不自然な方向にへし折れるのが目に入る。森の中を走っても龍には障害にもならないらしい。だが速度はレイの方が速い。このまま逃げ切ろうと考えた途端、
足が地面を噛まずに空ぶる感覚を得た。
油断した訳ではない、寧ろ木の根に引っかからない様に足下には注意していた。だがレイは片足だけでなく今は身体全身が宙を浮いてしまっている。この場でこんな理解不能なことができるのは1体だけだと思い、振り返ると、龍がしならせた尾をレイ目掛けて横殴りに仕掛ける瞬間だった。浮いたレイは腕の中のディアを守るように身を丸めつつ右手を盾の様に使う、凄まじい衝撃を受け、くの字の姿勢になりながら口から血を吹き出し、地面に対してほぼ平行に弾き飛ばされる。
レイは明滅する視界の中、敵を見失わないように顔だけ後ろに向け、
驚愕する。
龍の口の辺りに光の粒子が集まっているのが見えた。龍の顔の前だけ空間の歪みが生じている。避けきれない絶望感に思考が止まり、生きようとする意思が消えかけた瞬間、自分が何かをすり抜けたような感覚を得た。例えるなら、水の中に飛び込んだ時の感覚に似ているだろう。その感覚を感じた刹那、龍の口から光が放たれた。その光はこの世界に来る為に用いた次空艦の波動砲に似ている。
光は目に見えない何かとぶつかったのか速度を一瞬落とす。
だが、それでも再び速度を取り戻してしまった。光がレイの眼前に迫り、自分の終わりを悟るレイ。
最後の悪足掻きとしてディアを逃すことに決めた。
背負っている鞄がクッションになるように気を配りながら鞄と一緒にディアを手放す。
「兄さーー!」
ディアが何か叫ぶが速度的に最後まで聞くことが出来なかった。光はレイの足首まで迫っていた。ジワジワと光が上がってくる。最後の意地として自分を飲み込むまで光を見てやろうと思い眼を向ける。だが光はレイにトドメをさす凶器にはなり得なかった。太腿の辺りで光が再び見えない壁とぶつかり、途端に霧散したからだ。光は消えた。だが、死の気配は収まらない。龍の尾に吹き飛ばされた勢いはまだ消えていない、レイの絶体絶命の状況は続いている。だがレイにはもはや何かをする気力は残っていなかった。右手は盾として使った際に吹き飛んだ、足は両足とも龍の光によって太腿まで消失している。満身創痍に他ならない。そしてレイは衝撃と爆音と共に壁にぶつかりただでさえ残り少ない体内の血を絞るように体外へと撒き散らした。壁にぶつかり地面に落ちる。そのまま何度か跳ねながら傾斜を転がり仰向けで止まる。眼だけで周りを見渡せばどうやらぶつかったのは巨大な木だったらしい。
レイが衝突したにも関わらず、樹皮の表面が剥がれただけの頑丈な大木。そこから視線を落とし周りを見渡せば白や空色、黄色、自分の近くには赤色の植物があり、風に揺られ、光をそれぞれの色で鮮明に反射している。レイはこの植物に見覚えがあった、初めて博士から貰った本に載っていたものだ。名前を思い出そうとするが朧げになりつつある意識の中では上手く思い出せない。それでも、生まれて初めて見る色鮮やかな景色は素直に綺麗だと感じた。心の底から初めて綺麗だと思った。この景色を目に焼きつけようと思ったが、それは叶わない。レイは血反吐を吐き、視界が霞んでいくのを薄ぼんやりとした意識で確認する。それと同時に聴き慣れた声が聞こえる。
「兄さん!に、兄さん?!」
急いで駆けつけてくれたらしいルディアがレイを見つけて駆け寄ってくる。レイの近くまで来たルディアはレイの酷い有様を目にして狼狽えながら固まっている。
「あ、あ…、どうしよう…」
そんな妹に目立った外傷がないことを確認し、安心する。
あ…、しまった、安心したら意識が…
正直、今の状態で自分は助かる可能性は低い、と言うよりも無いと言った方が良い。血が身体の外に出過ぎてしまっている。もし手足が瞬く間に再生し、他の損傷箇所が治ったとしても助からない。
自分が死んだとしても賢いルディアならば上手く生きるだろう。龍が追ってくる気配は無いことから、あの見えない壁にでも遮られたのかもしれない。などと考えていると空々しい元気な声が聞こえてくる。
「に、兄さん!見てください!周りにあるのは花じゃないですか?」
そうか、花か、やっと思い出した。
「兄さんは花好きでしょ?確か、図鑑に載っていたのを見て気に入ったんでしょ?」
そうだ自分は花に興味があったんだった。図鑑に載っていた花は様々な色や形、特徴を持っていて1つとして同じものがないことが面白く感じた。図鑑を見ている間は不可思議の世界に迷い込んだように魅入っていた。
「兄さんの旅の目的は色んな景色を見ることでしょ?い、今、ここで…し、死んだら、見られないよ?」
ディアなりに発破をかけてくれているのだろう。死ぬな、生きろと、諦めるなと。だがディアの叫びも虚しく、レイの意識が明滅してくる。そんな中、レイは思い出していた。異世界に旅立つ日の夜にディアと話した内容を。異世界でやりたいことを語り合ったのだ。自分の目的はディアの言った通りだ。
ディアは、確か…ひとになりたい?…嫌、ひとのからだが欲しいだったかな?
そう考え、レイの脳裏を過去の文献を読みながら恋焦がれているディアの姿が浮かぶ。物語を読み、満足気でありながら何処か他人めいた雰囲気を纏うディアだ。ディアの身体が人の姿ではないのは技術の問題などの様々の理由がある、それでも最終的にディアの、今の姿を作ったのは自分だ。
それならば、ディアが人の身体を手に入れられるのかそうでないのか、見届ける義務が自分にはあるのではないか、そう思った。その意思を自らの心で即座に否定する。義務がどうのという難しい話ではないとレイは気づいたからだ。単純な欲なのだ。ディアがどうなるのか見届けたいと思う純粋な欲だ。
その欲が、奇跡を起こす。
レイは自分の欲を手放さないように消えかける意識に喝を入れる。意識を揺り戻したレイは仰向けで前をみる。丁度、大樹の枝が日陰になる位置にレイは伏している。
レイの目の前には、風に揺られる葉を枝一杯につけた大樹がある。その枝に飛び出すように白と赤の花が咲く。花は咲いたばかりなのに疲れてしまったのか、小刻みに揺れている。あれでは直ぐに散ってしまう。案の定、否、思っていたよりも早く花が散ってしまった。散った花はフワリと表現できそうな速度で落ちてくる。落ちてきたのは丁度、レイの真上だった。
辛うじて戻った意識が再び霞始める。
最後に見た景色は
吸い込まれそうな程、透き通った、ガラスのような、
琥珀色の双眸だった。