今の全力
「遅くなってごめん。レイくん。」
泥が当たる寸前に、淡い空色の光を放つ鉱石が目の前に聳え立つ。その鉱石を生み出した少女は、惹きつけるほどの美しい微笑を湛えてレイを見る。そこには先程の凛々しさのない、ただ純粋な安堵が現れていた。
だが、その表情は一瞬で戻る。レイから視線を外し、睨むは検問所の方角。レイも吊られて見て、息を呑む。そこには、無数の、先程とは比べ物にならない程の泥が待ち構えていた。だが、その泥の様子は先程とは違う。先程までは、周辺に無傷の家がない程には泥が飛来していた。しかし今、目の前の泥の量はそれを遥かに超える。それもレイ達に向けた一点だけではない。空に浮かぶ泥は、死の雨として首都全域を穿たんと構えていた。その泥は先程までのただ蠢く泥ではなく、人の手を模した形をしている。その不気味さを兼ね備えた恐怖が此方をまるで掴もうとするかの様にゆっくりと手を伸ばす。その様子に、呼吸音のような恐怖の声を上げる者がいた。それはレイではない。レイは音のした方を見る。そこには子供が3人と大人が2人、大通りの横手にある路地にいた。その中には空の手を見て、倒れ込む者まで。その者達を見て、イリミナが助けたのだろう、と感覚的に理解をする。すると、何処からか馴染みのある声がした。
「兄さん!無事で良かったです!」
「ディア!」
見慣れたボールが転がって来た。その声は何処か震えている様で、生まれたばかりの昔のルディアを思い出す。そんな場違いの感慨を抱いてしまったのは安堵感からだろうか。だが、それも直ぐに現実に戻される。それは、激風に当てられた風鈴の様に、
「レイくん!早く城に!その方達を連れて行ってあげて!」
慌しさを孕んだ声だった。上を見ると、
─泥の手の指先が一本一本伸び始め、縦横無尽に此方を狙ってきた。
その指達は家屋を弾けさせ、粉砕し、地面を抉り、汚染する。その脅威がレイ達に迫っていた。
その脅威の中、行動に移せた者は僅か。
「皆んな!こっちに!」
レイが叫ぶ。だが、その声に動ける者は居なかった。レイは苦渋を舐めるしかない。だが、それは直ぐに吐き捨てる。レイは2人を抱えて立ち上がり、狼狽えるルディアをいつもの場所に。そして、裏路地にいる者達へと駆け寄った。子供の襟首を鷲掴み、後は大人達をどうにかして…そう思った時だ。路地へと複数の指が侵入してくるのを視界の端に捉える。それを先ずはどうにかしなければと思った時、レイの横を風切音が通過する。見ればそれは菱形の琥珀色の鉱石だった。それが泥の指を目掛けて弾ける。指は地面へと落とされ大地と同化した。
後ろを見て、始めて気づく。
─イリミナの髪の色が、金髪だった髪の先が、元の色になりかけているのを。
イリミナの周囲には色も形も様々な鉱石が、空を覆う手の数の数倍程、空を舞っていた。その鉱石達は首都全域を飛び交っている。事態が少し違えば、それは幻想的な流星群のようにも見えたのかもしれない。だが、現実は違う。レイは未だに焦点の合わない大人達に叫ぶ。
「早く来い!此処じゃイリミナの邪魔になるだけだ!来ないなら見捨てるぞ!」
レイのその酷薄にも感じる言葉を聞き、漸く大人達が動いた。
レイは彼等を連れて走り出す。
(………)
視界の端で、青年の後ろ姿が見える。その奥には城がその威容を自慢するように聳え立っている。だが、その威容などとは違う、別の何かをイリミナは見つめていた。その城を覆う、空間が歪んだ様な壁を。
それをレイが知ったのならば、結界だと言うのかもしれない。
そして、イリミナには他にも見えていた。その壁が少しづつ、確実に、泥の力によってその硬度が削られて罅が入り始めていることを。
イリミナは正面を見る。泥の手が八方からイリミナに手を伸ばし、今までと同じ、泥の塊も前方から飛んでくる。敵のいる方向は嫌になるほど分かるが、その姿は未だに見えない。
その、周囲を泥に囲まれて、逃げ道の無いその絶望の中、イリミナは徐に今までの旅の中でずっとしていた髪留めの紐を解く。その美しい金髪を靡かせたかと思えば、顔を軽く振り、髪をもう一度揺らす。
その刹那の間に髪は金髪ではなく、イリミナの持つ本来の美しい髪へと変貌を遂げた。その髪は日の光に透かされて、青銀ではない純粋なガラスのような色に。靡く髪は奥の景色をぼやかして、水の中に照らされる光の様な光沢を放つ。その透明度と美しさは、周りの泥にてより幻想的なものへと昇華する。
そして、その髪を留めていた紐を肩に掛けていた鞄にしまい、流れで別の紐を取り出す。
その紐は美しい赤色であった。その紐を口に咥えて、髪を手で纏める。その間の時間はまるで世界から切り取られたように緩やかに過ぎていき、イリミナがその長い赤色の紐で髪を一つに結い終えた瞬間、時が一気に動きだす。
泥がうねりを上げ、風切音を鳴らしてイリミナへと纏わりつこうと迫る。ドームにも見えなくないその泥の塊は、
─瞬きの内に消え失せた。
その汚泥の中から、異様に白い光が走る。それは、赤い紐を靡かせて走るイリミナの姿であった。先程まで掛けていた鞄は無く、その代わりに白く透ける水晶のような剣を持っている。それは刀身がイリミナの背丈と変わらず、冷酷な程に冷たく美しい太刀であった。
イリミナは周囲の家屋の屋根や壁を飛び回り、泥も指もその目の前の全てを切り刻みながら前進をする。そのイリミナの周囲には先程と同様に多種多様な鉱石が飛び交っている。
飛び交う色取り取りの光を従えて、手に持つ剣を振るえばそこに光の線を生み出し、それらの中心には、ガラスの様な髪を靡かせた琥珀色の双眸を持つ少女。
それはまさに、「鉱姫」と言わしめる光景であった。
イリミナは突き進む、泥を放つ者への下へ。
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「早くここに寝かせてください。」
目の前の理性的な女性が手の平から桃色の光を放つ。その光を受けているのは足をあらぬ方に折られた女性であった。桃色の光を放つ女性の頬には汗が伝う。その患者の状態が良いとは言えないのだろう。だが、その様子を見て彼は、また出口の方へと足を向けて城の中庭へと出た。その様子に驚いたように声を出して、
「待って!兄さん!何処に行く気ですか?!」
ルディアが兄を止めようとする。その問いに、意図的に軽い調子で答える。
「何処って、外だよ?」
その答えにルディアは怒りなのか焦りなのかが分からないといった様子で、
「な…何を考えているんですか!今外に出たら兄さんなんか死にますよ!?それぐらい分かるでしょ?!」
その声は意外にも大きく、
(初めて、ルディアの大きい声を聞いたな…)
と場違いな感想を持ってしまった。意外とルディアは声は静かな方ではあった。決して煩くないと言えば嘘になる程度ではあったが。だが、そんなルディアがここまでの声を出したことに驚きと、やけに胸の辺りが痒さを覚える。そのことに内心で笑いつつ、顔は真面目さを張り付けて。
「それは勿論分かる。でもルディア。お前なら分かるだろ?今の状況じゃどんなにイリミナさんが頑張っても時期に限界が来る。」
レイは検問の門の方角を見る。そこには無数の光が飛び交い、それに対抗する様に泥の手が集まっている。だが、その泥の手が全てイリミナの方へと行った訳では無い。レイは上空を見る。そこには無数の手の平が見えて、何かに阻まれている様子でもあった。もう一度ルディアを見る。
ルディアは何も言わずに、レイのローブの裾をアームで掴んでいた。
「ルディア。無茶を言うけど、今の状況を何とかする方法さ、考えてよ。今、この場で1番頭が回るのはきっとディアだ。…どう?」
問われたルディアは黙ったまま裾からアームを外す。その間に城内の入り口からロイが駆けてくるのが見えた。少年はレイの近くまで来ると、
「兄ちゃん!母さんが目を覚ましたんだ!兄ちゃんのおかげだよ!あんがとな!」
この場には似つかわしくない程の喜色満面の笑みであった。そんな子供らしい一面に、
「そうか、それは良かったよ。」
と言い笑う。そして、黙るルディアに続ける。ただ一言に思いを込めて。
「─任せた。」
その言葉にルディアは観念したように、
「あ〜、もう!分かったよ、分かりましたよ!やれば良いんでしょやれば!」
その様子に笑いながら頷くと、レイはローブを外した。ローブの下の姿はこの世界にやって来た当初の姿であり、ラフさのある白衣のような服にフードが付いた不思議な見た目。そしてレイは手に持っているローブをロイに預ける。
そして、地を踏み、足を出す。その速度はロイが体感した中でも最速であり、
「すげぇ…」
思わず少年の口から、そう感想が出る。その横でルディアはレイの小さくなった背中を見つめる。
「兄さんの…バカ。」
そう、隣のロイにすら聞こえない小さい声で罵倒するのだった。
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剣戟の音と粘性の液体が硬い何かに打ち付けられた音がする。
レイは大通りを駆け抜けている。その足を進めれば進める程に嗅ぎたくのない匂いが、その濃さが増しているのを感じる。移り変わりの早い景色の一部に、検問員(恐らくはこの首都の護衛隊の1人)の姿が増えていっているのが目に見えて分かる。だが、破壊された首都の景色に溶け込んでしまって動く気配すらないが。
レイはやがて広場に出た。否、それは広場ではなく何も無くなってしまった場所という表現が正しい。レイの記憶ではその場所には露天が囲う様に並んでいた筈だ。その広場の中心にて閃光を走らせて舞う、イリミナの姿があった。そして、イリミナに相対する者の姿も。
その者は手の先よりも長い袖のある服を纏い、イリミナの猛攻をその場から微動だにせずに泥の壁で防いでいる。その者の髪も泥の様に見え、嫌に揺らめいているのが見ている者を不快にさせる。眼は白く光っている。他の要素に比べればマシな様にも見えなくは無い。だが、その眼からは滂沱と泥を流しており、その白さは泥を映えさせ不気味さを助長する。不快な要素は尽きない。その姿が異様にも関わらず、人の姿に見えなくはないのが見ていて嫌になる。
その不気味な要素を混ぜて固めた様な異形の周りには、やはり泥があちこちに点在し、その者の上には今まで見た中でも最多の手が蠢いている。そして、周りを見渡せば…
レイは唇の端を噛む。視界をズラしても外しても、その中には護衛隊らしき人間達が、必ず身体の一部を欠如して横たわっていた。その数を数えるのも憚れる程の死体が、文字通りの死屍累々であった。レイが住民を背負って逃げていた時に泥がそこまでレイの方へ飛んで来なかったのは彼等のおかげなのかもしれない。勿論、その景色の中には住民の姿も。
レイは敵を見据える。その眼には最早、光はなかった。
泥の敵もレイを見た。恐らくは男だ。顔の輪郭が泥でボヤけているがレイはそう判断する。だが、その表情筋も分からない男の口が動いたのを見逃さない。泥の中だからか不快な程に白く感じる歯を出して、ソイツはこう話す。
「─あァ、イィきミだ。」
その声は掠れて、爛れて、それでも無理に出した様な不快な奇声にしか聞こえない声だった。
そして、その人を愚弄する発言を2人が許す筈も無い。
レイが地盤を蹴り、片方の脚で踏み込む。その爆速的に加速する速度で敵の前へと飛び込む。流石の泥男もその速さは予想外であったのか、明らかに遅れた動作で泥の壁を生成しようとする。だが、そんな隙をレイとイリミナが与えるわけもなく、泥の男の左目から左耳を抜けて後頭部をも黒い刃が通過をする。その真上ではイリミナが水晶の剣を振り切り、その泥の頭から両断をした。生き物であれば即死をする致命傷、だが、それはその生き物が普通の生き物であった場合に限る。
「─!#%¥%£€※!〒〆※%!?」
鼓膜を針で裂いた様な雄叫びが辺りを包み、イリミナは顔を歪めてその音に耐える。レイも同様だ。その音は段々と小さくなり、やがて消え失せた。レイは未だに耳鳴りのするのを感じながら、敵を見据える。泥の男の裂かれた部分が、水分を多く含んだ人の肉を裂いた様な音を立てて繋がっていく。泥が傷を補強するかのように張り付いた。その様子に2人は戦慄を覚える。その2人の前で、泥の男は白い歯を出すと手の平を地面へと向けた。その様子にレイ達は身構える。
レイは嫌な感覚が肌をひりつかせているのを感じた。まるで本能が何かを訴えかけるような緊張感。そして、それと同時に今、アレの動きを止めなければならないという焦燥感も押し寄せてくる。その訴えに身を任し、駆け出し、
─宙へと放り出された。
「レイくん!」
先程、自分がいた場所には泥の手が生えていた。横に飛ばされたレイは家屋の壁へと叩きつけられ、貫通をし、悶える。だが、直ぐにそこから這い出て、広場を見て、息を呑んだ。そこには無数の手があった。
それは上空だけではない、先程レイを投げ飛ばした手が地面の此処彼処から何かを求める様に天へと手を伸ばす。イリミナの姿を探せば、辛うじて屋根が残っている家屋の上に立っていた。その顔には普段では見ることのできない焦燥感が現れており、肩で息をしていた。その様子に違和感を覚えたが、レイは直ぐにイリミナから泥の男へと目線を移す。泥の男の足元に丁度人が収まりそうな泥の吹き溜まりができていた。
そして、そこに上空の手が入っていく。その泥の手が吹き溜まりから出てきたその光景に、レイは言葉を失う。その光景はあまりにも絶望的で、もう自分ではどうすることもできないのだと。
泥の手の先には人間が捕まれていた。
そして明らかにその人間は生きている。虫の息ではあったが、確かに息をしているのが眼に見えた。泥の手は泥の男の目の前にその人間を持ってくる。掘り出された人間は、男であったがヤケに細く、髪はボサボサで衣服はお世辞にも綺麗とは言えない。そんな男の目の前で泥の敵がその者の前へと手の平を出す。それに呼応して地面と上空の手がその男の口を掴み、強引に開けた。
すると、
「っ!」
泥の敵が自らの手を口に入れて、それも自らの泥をその男の体内へと流し込んでいる。虫の息であった男もそれには悶えて悶えて苦しんで、だが、最後には力尽きた様に大人しくなる。その悍ましい光景にレイは拳を握りしめて、イリミナはその瞳を潤ませながら口を手で隠す。
レイは直ぐに壁から這い出て逆上がりするように屋根へと飛び乗る。そして屋根伝いにイリミナのもとへ駆け寄った。
「イリミナさん、大丈夫ですか?」
「うん…大丈夫。」
イリミナは頬の汗を拭いながらそう答えた。そこにレイは少し違和感を覚える。未だに空の手の猛威は続いているがイリミナの鉱石がそれらを随時に撃破している。その景色はそれこそ花火の様であったが、その冗談を言う雰囲気ではなかった。そして、レイはその景色を一瞥したことで先程の違和感の原因に気づく。
(鉱石の数が少ない…)
決してイリミナの生成した鉱石が少ないと思ったのではない。あくまで少ないと言ったのは、
「イリミナさん、なんで鉱石をこの場所で使わないんですか?」
そう、首都を飛び交う鉱石の数は多いのに、この泥の敵がいる広場にはそれが明らかに少ないのが見て取れたのだ。その問いに、イリミナは少し気まずそうに微笑み、
「ごめんなさい、今は目の前の敵に集中しなきゃいけなくて欲張りだってのは分かってるんだけど……、欲張りはダメかもだけど…人を助けることは欲張ってもバチは当たらないでしょ?」
その、はにかみながらの言葉に、レイは言いようのない何かが胸に入って来るのを感じた。それは何処か暖かで、それでもその温かさは、まだ自分には受け止めきれないような何かであって。
レイは振り向く、城門の方を。そこにはイリミナの鉱石に乗せられて運ばれる人達の姿が丁度見えた。そして、その者達が城門を抜けたあたりで、
「%!#£&%€!-€£!?」
耳を塞ぎたくなる奇声が空気を震撼させる。その方を見ると、
先程、泥から取り出された布切れを纏った男。その男が眼から滂沱と泥を流して、左腕だけが泥になっていた。
その光景は、人を煽るのに絶妙な不気味さを表していた。レイはそのことに舌打ちをしたい気分であった。レイの中に確信に近い仮説が出来上がる。
(あの泥男は、仲間を作ることができる。)
もし、人を媒体にするのならばここには人が沢山いる。もし、死体でも仲間にできるのであれば、最悪の状況へと一気に転がり落ちる。その絶望の光景に、レイは直ぐに首を振る。
泥の中から出てきた男は息が少しではあったが、確かに生きてはいた。死体をも仲間にできるのであれば、わざわざその生きた人間を使う筈がない。そう、判断をする。そして、チラとイリミナを見る。彼女は明らかに疲労が溜まっている様子であった。それもその筈だ、首都全域に鉱石を行き渡らせて住民の救助をする傍ら、戦闘をも継続していたからだ。魔法は使ったことがないが、全く疲れない代物ではないだろうと容易に想像できる。ならば、
目の前の増えた敵達を見る。元々居た方はケタケタと笑う様に歯を見せて、ボロ切れの泥男は口の端から泥の混じった涎を出していた。その2つの様子は明らかに知性の差があるように見える。
自分では奴等を倒すことができないと感覚的に分かってしまう。この場にそれができるのはイリミナしか居ないことも。だから、こう、提案をする。
「イリミナさん、自分が少し時間を稼ぎます。その間は住民の避難の方へ集中してください。」
そう言い、腰に備えてあった拳銃を取り出す。拳銃のメタリックな色合いが、黒と茶色の世界で悪目立ちをしている。その戦闘の体制を整えたレイの隣でイリミナは息を整え少し考え込む様子。そして、
「分かった。それじゃ任せた、私の騎士くん。」
たまに見る、人に安らぎを与えるような笑顔をレイへと向ける。その笑顔を受けて、レイは左手の銃の握り心地を確かめる。
(…残り17発。)
心の中で残数を数えた。一度の装弾数は6発。心許なさはあるが、レイの持つ武器の中でも1番泥に有効打がありそうなのがこの銃だ。
ただし、比べる対象が今も右手で握っている黒い包丁なので、実質の武器としてはこの銃しかないのだが。取り敢えず、銃の弾の残数には気をつけようと心に残す。そして、
「分かりました、それじゃ行ってきます。」
レイはそう言うのと同時に泥達に向かって飛び降りる。だが、そのレイを泥達が黙って見ている訳がない。ボロ切れの男が獣のように四足歩行で飛びかかってきた。レイは地面の手に注意しながら身を屈めて、下からその男の顎を拳で撃ち抜く。その威力は凄まじくその獣の身体を安易に周囲の家屋の屋根よりも上へと吹っ飛ばす。その間に、下と上から手が迫る。その手達を地面に右手を着き、身を捻って飛び退き、避ける。そのまま流れるように歯を出す男へと肉薄した。レイは右手の刃物で敵を袈裟斬りにしようと振り抜く。だが、それは歯の泥男が作った泥の壁に防がれた。そこでレイは左手に持った銃を泥の壁に突きつけて、引き金を引く。引くのと同時に、銃特有の破裂音が辺りに響き渡る。銃の弾は壁を瓦解させながら突き抜け、歯の泥男の眉間を爆ぜさせた。それを確認したところで先程打ち上げたボロ切れの男が地面へと叩きつけられたのを視界の端に捉える。
その地面との衝突音は嫌に水分の多い音であったがレイは気にする素振りもなく、接近して爪先でその男の横腹を蹴り飛ばす。ボロ切れの男は声も上げずに吹き飛ばされて、家屋にぶつかり1棟を破壊した。
それを見届けて背後を横目で確認をする。イリミナが剣を屋根に突き刺し、目を瞑っている。その周囲の空間が歪んでいるように感じるのは気のせいだろうか。だが、そのイリミナの集中を邪魔するように5本の手がそれぞれの指を伸ばしてイリミナを覆わんとしている。
レイは直ぐにイリミナのもとへと駆け寄り黒刃でその泥の全てを薙ぎ払う。その間にイリミナは微動だにしていない。その信頼を表す姿に何処か擽ったい気もするが、今は浮かれている場合ではない。直ぐに広場の中心に視線を戻す。
(…やっぱり、ダメか。)
眉間を確かに撃ち抜いた筈の男は依然と歯を出して笑っていた。その無傷な様子に驚きつつ考える。今のレイでは奴等を倒すことはできない、それならば、やはり、
(自分はやっぱり時間稼ぎに徹する。)
再度、レイは屋根から飛び降りる。2体の泥を連携させないように立ち回り、且つレイが対応できる距離を保ちつつイリミナの方も気を向ける。中々に条件が厳しいがやるしかない。泥の手が、レイが対応できなくはない速度であるということが唯一の幸いかもしれない。だが、それでも戦闘を継続していけばレイの手に余る状況はいくらでも訪れる。少なくとも3点に意識を向けなくてはならない。そこには、それぞれ距離がある。その物理的な距離は銃を使って埋めるしかない。確実に弾数が減っていく。レイは手慣れた速さで弾をリロード。残りの弾数を思い浮かべる。
(…残り9発。)
何度、攻撃を当てては距離を保ち、を繰り返したのだろうか。
そう考えていると横から泥が飛んでくる。その泥を回避して下から伸びてくる手を黒刃で斬り捨てる。その流れで、背後から涎を垂らして口を大きく開けたボロ切れの男が四足歩行で走ってくるのを脳天を狙って踵を落とす。その衝撃は地面にその男の顔を陥没させる程だった。だがレイは知っている。これではこの者達が死なないことを。
そこで、レイの足元の地面が迫り上がり先の尖った岩がレイを目掛けて突き刺してきた。
レイはそれを跳躍で交わし、イリミナのもとへ。そして、イリミナを捕まんとする手達を切り刻む。そこで、漸く、
「ありがとう、レイくん。おかげで助けられる人は助けられたと思う。」
剣の柄を杖にイリミナが立ち上がった。その頬には汗が伝っており、明らかに疲労が蓄積されている。だが、それでもイリミナに頼らざるを得ないのが現状だ。レイの物理的な攻撃は効いた気配がない。それはあの敵が特殊なのか、それともこの世界の力でしか倒せないのか。
この世界の力、それはつまりは魔法だ。もし そうならレイではお話にならない。そこまで考えて、やはりイリミナに頼るしかない不甲斐さが込み上げてくる。だが、その感傷も今することではない。少なくとも、今のこの現状でレイができることは、
(ボロ切れの奴は…あそこか。)
「イリミナさ…
「うん、任せた。」
今できること、それはイリミナの負担を少しでも軽くすることだ。その為に、ボロ切れの方は自分が足止めをする、と提案しようしたがそれよりも早くイリミナが肯定をした。その早さには驚いたが。レイは直ぐに行動に移す。レイはボロ切れの側に走り、蹴飛ばす。その様子に歯を出している泥はその泥だらけの手をレイへと向けて何事かを囁いている。すると、その手の先に燻んだ色の菱形の石が生成され、それが放たれる瞬間に、
「んしょっと!」
イリミナが大振りに振り抜いた剣でその左手を切り落とした。左手を落とされた泥男は苦鳴をもあげない。敵はイリミナを脅威に感じていないのか微動だにしない。イリミナはその様子に形の良い眉は曲げ、瞳はそれでも強い光を放ち敵を見る。
「やっと、他の所に回していた石をこっちに使えるよ。」
そう言い放ったイリミナの言葉を合図に首都全域に散らばっていた鉱石達が広場に集う。その光景は圧巻であり、先程まで一歩も動かなかった泥男でさえ身を屈めた程だ。そして、イリミナの一言でその鉱石達に意思が宿る。
「『穿て』」
その言葉を皮切りに、幾千もの石達が泥男へと降り注ぐ。その圧倒的な物量に流石の泥男も焦りを感じたのか、今までの気の抜けた様子から一変。残った右手を天高くあげると、これもまた首都全域に散らばっていた手達を広場へと呼び寄せた。その手を防御に回すが、鉱石の物量には敵わない。それに加えてイリミナが剣を構えて泥男に迫る。だが、泥男もそれを黙って見ているわけがない。男は何事かを叫ぶ。すると地面に巨大な岩が突き刺さりイリミナの剣の軌道の邪魔をする。その岩とイリミナの剣が、宙には泥の手と無数の煌びやかな鉱石が、激しくぶつかり粉塵を撒き散らす。その衝撃は空気の波と轟音によって首都全域にまで伝わる程。
そして、その衝撃は勿論のことレイにも伝わる。
2体の泥の分断はできた。あとはイリミナ頼りになってしまうが各個撃破が望ましい。レイがボロ切れの方を担当したのは単純な話、もう一方の泥男よりかは弱かったからだ。強い方が強い方を、それは逆にも当てはまる。それは戦闘に置いては当然のことだろう。
だから、これは予想外だった。
レイは眼前を見る。
「なんかお前…姿変わってない?」
そう、泥男の姿が変わっていた。先程までは辛うじて人間味がまだあったのだが、今は違う。それは何と言うか、
「向こうの歯の奴と…何か雰囲気が似てる気がする…はぁ〜普通に嫌なんだけど。」
溜息を吐くしかないレイの眼前に、ボロ切れこそ纏っているが、その出立は先程の獣染みたものではなく、寧ろ知性を感じるものがあった。そして、泥男はそれを証明するように、口の半分は泥に覆われて、その逆からは歯を出して、
「オれハ…コギレィナ奴ガ嫌イだ!」
そう啖呵を切り、周囲の地面から泥水が吹き出して辺りを浸す。
その2箇所の激化する戦場は轟音が常に響き渡り、城の中にいる人々を震え上がらせた。
だが、そんな中を転がるように移動する者がいる。
その者は非力で小さく人の背にいつも背負われている。だが、その小さき身に秘めた力は海の底よりも山の頂きよりも計り知ることができない。
彼女はひたすらに音のする方へと突き進んで行く。その動きには迷いがない。
そして、今は誰も知る由がない。城の中で彼女と触れた者も彼女に親しい者達も彼女自身も、
─後に彼女がこの世界で最強と謳われる異名を持つ1人となることを。
まだ、だれも知らない。




