噴水が見える都市
「レイくん、あれがシトラスの森から1番近い都市だよ。」
背の高い木の枝の上で前方を指差し、顔だけをこちらに向けるイリミナが微笑みかける。
あれ、と指された方角には確かに都市がある。都市は丘のように起伏した大地に存在し周りを壁に囲まれている。シトラスの森特有の高い木の上からは都市の8割程を見通すことができる。
「あれは…噴水ですか?」
都市の至る所から空に向けられて水が放たれている。レイの記憶の中でそれに該当するものが噴水だった。
「本当に目がいいね!そう、あれは噴水。あの都市の名前はレーグル、ラチファス国の西にある都市で噴水があちこちに点在してるのが特徴なの。」
イリミナが顔の前で手を合わせて上機嫌で説明をしてくれる。
「機嫌が良さそうですけどあの町に何かあるんですか?」
「昔、少しだけ寄ったことがあってね、もう来ないものだと思ってたから少し嬉しくって。」
イリミナが星が散りばめらたような顔をする。この二ヶ月の付き合いで分かったことなのだが、彼女の笑みには自然と心を落ち着かせる力がある。人を惹きつける笑顔なのだろう。
なのに、何故か儚げにも見えるのは何故なのだろうか、
もしかしたら彼女の生い立ちに関係しているのかもしれない。
レイは正直なところ彼女について知りたいと思っている。
だが、
(本によると鉱月樹の森人は100年以上前には絶滅したって書いてあったな…)
彼等の寿命を考えるとイリミナがその種族である可能性は低いだろう。
ただし、”ある条件”を除けば。
どちらにせよ他人のあれこれを聞くのはもう少し信頼を得てからと、できれば本人の口から語り始めてくれるのが理想だ。今、この場での詮索はしないと決断するレイ。
「それじゃ行こう、2人とも!」
レイの思考が纏まったのと同時に鈴のような弾けた声が下から聞こえる。見れば木の上から降りたイリミナが手を降っていた。手を振り返せば上機嫌になる愛らしい少女。
だが、その笑顔には先程とは違う何かがあり、、
「イリミナさんは心から笑っているのになんで…寂しげに見えるんでしょう…」
静かにルディアが疑問を投げかける。
「…身体が心に嘘をついているのか、心が身体に嘘をついているのか、そのどちらでもないのかはわからない。心も身体もその片方を覆っているから演技をすればその個人があたかも1つになっているように見える。それでも演技は演技なんだからどこかがきっと綻びる。寂しげに見える理由はこれかもしれない。」
淡々と答えるレイ。「でも、」と続ける。
「笑っていられるのなら良い事だよ。嘘だとしてもだ。自分は笑顔だけは心と身体が重なることで生まれると思ってるから。だからきっと大丈夫。」
心が壊れていても笑えるのは狂人であり、その顔がどんなに破顔していてもそれは文字通りの破顔だ、笑顔ではない。演技だったとしても、それで良いとレイは考える。取り繕えるのであればそれは自分を見失っていない証明にもなる。自分を認識できているのであれば何時だって本者になれるから。
「お〜い、早くいこー。」
イリミナが元気よく手を降る。
「今、行きます」
短く答えて木から飛び降りた。
もう少しで都市に着く。
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シトラスの森を抜けた3人は小高い丘に構える町のすぐ近くまで来ていた。周りには川があり子供達が遊んでいるのが見える。視線を変えれば小橋もあり、その背景には傾き始めた太陽に照り返す新緑、野原が広がっている。なんとも郷愁を誘う光景だ。無論、レイ達にはその郷愁を感じることができない。荒地で育ったのだ、仕方がないだろう。
だが、それでも目の前の光景は何処か懐かしくもあり、胸がほっとする気さえした。
「あの都市には何か有名なものとかってあったりしますか?」
ふと気になることを質問する。聞かれたイリミナは空を見つめて考える素振りを見せ、振り返る。
「う〜ん…そうだなぁ…あっ!染色された織物とかが有名かな。素材は他の地域から取りよせているみたいだけど、ここは水が綺麗な川が流れているから染色が発展したみたいなの。昔の知識だからあんまり自信がないんだけど…たぶん今も染色が盛んなはず。」
染色が発展しているのであれば服の種類もきっとあるだろう。
今、着ている服(フードの付いた白衣に似た服)は目立ちそうなので早めにこの世界の衣服を手に入れておいて損はないだろうと考える。今着ている服も着心地は悪くないのだが目立つのが目に見えている。それに、
(イリミナさんも目立つよな…)
レイは前方を喜色満面の笑みで歩いているイリミナを見やる。森を抜けたあたりでディアがイリミナの胸に飛び込んだ為、イリミナの腕にはルディアが抱えらている。2人とも鼻歌を歌い上機嫌だ。そのイリミナの服装は赤と白の配色を使った服を着ており目立つのは目立つのだが、それよりも目立つのは、
(イリミナさん自身がな〜)
とにかく目立つと思うのだ。
玉のような肌に凛々しさと愛らしさを同居させた瞳、顔立ちは女性との交流が無いレイすらも理解できる美形。それらの要素だけでも目立つのだが、やはり髪と瞳が特徴的なのだ。瞳は透き通る琥珀色でその瞳に真っ直ぐ見つめられてしまえば世の男は彼女から目が離せなくなるだろう魔眸。髪は光の反射では青銀と呼べばよいのかわからないが、美しい光を放つ。基本は無色の鉱石に似た輝きを持ち、雪が光に照らされたような反射をもたらす。それらの要素が奇跡的な配置や分配でイリミナが成り立っている。
髪に関しては異世界特有の髪質なのかとも思ったが、先程見た子供達からはそんな気配はしなかった。どの子も茶色や金髪などの明るい色ではあったがイリミナの様に透き通ってはいなかった。レイはイリミナの髪質を種族によるものだと判断する。
判断したことにより疑惑が確信に近づき確信したことで不安が芽生える。それはつまり、どの世界でも希少な存在は狙われるということだ。彼女は昔、旅をしたことがあると言っていた。
だが、その昔というのが問題なのだ。彼女の同種族が絶えた直後であるのと、絶えてから100年以上も時間が経っているのとでは危険性の度合いが違う。と言いつつも、滅んだ理由が理由なので今と過去にそれほどの差は無いだろうが。
「レイくん。」
何か変装などの提案をすべきか考えているレイの耳朶を穏やかな風にふかれた鈴音が揺する。思考の海から浮上し声の主を見る。彼女はレイが自分を視界に収めたのを見計らい、微笑んだ。
そして、
「大丈夫だよ。帽子とかはあの都市で買わなければいけないけど、ちょっとは誤魔化せるの。」
誤魔化せる、彼女はそう言いながら右手でディアを支え、残った手を上に向ける。そこに紫色の菱形の鉱石が浮かび、次の瞬間に弾ける。弾けた粒子は煌めきながらイリミナの顔へと向かい、触れたところから色を変えていく。
瞬く間にイリミナの髪は金髪になり瞳は茶色へと、まさに先程みた子供達の特徴と一致した。
「すごいです!姉さん、それどうやったんですか?可愛いですね!」
容姿が瞬く間に変わったイリミナへの疑問をレイが聞くまえにルディアが褒めながら聞く。
聞かれたイリミナは胸を軽く張り2人の反応を愉快そうにしている。
「ふふん。これは幻術の一種でね、人から自分を見えなくしたり容姿を別人に見せたりできる魔法だよ。」
(すごいな…)
目の前にいるイリミナの顔のパーツは変わらないにしろ、髪色による印象は劇的に変わった。確かにこれなら大丈夫だろうと考えるレイ。自分の鈍色の髪も此方の世界に合わせるべきか前髪を摘み悩む。その様子に、
「レイくんの髪は綺麗で、私好きだよ?変えなくても良いと思うけど…どうする?」
いきなり褒められたことに少し動揺したが軽く頭を振り、思考を戻す。肯定しつつも変色の提案をしてくれるのはイリミナの人の良さが滲みでている。そんな彼女の肯定を素直に喜びつつ、
「ありがとうございます。う〜ん、それじゃ、やめとこうかな。」
変色を取りやめる。
(どうしよう、お礼はいったけど、この場合は相手のことも褒めるべきかな?)
褒められたのだ、褒め返すのも一連の流れだと判断する。
イリミナを見る。やはり髪色は変わっても美貌は変わらない。
「…あの、イリミナさんも綺麗ですよ。髪とか目とか、見ていてとても綺麗だと思いました。」
(なんだろう…ものすごい恥ずかしい。言う前は余裕だったのに良い始めると…かなりくる…)
自分から言ったにも関わらず、気恥ずかしくなる。歯に浮くとまではいかないにしろ何かしらが浮いていそうな台詞だった。恥ずかしくなるわけだ。
そして、言われた方も…
「…?……!あ、ありが…ありがとうございます。」
純白の肌に朱を差し込み、何故か敬語のイリミナ。耳まで真っ赤だ。空気は熱いが気まずい空気。
(そうなるよな〜。いきなり褒めるのは失敗な気がする。この辺はもう少し経験積まないと…もっと恥ずかい目に合いそう…)
心無しか自分の耳も熱い気がする。今後は対人スキルも磨こうと決意。イリミナは先程から歩くのがぎこちない。そんな2人をルディアだけがクスクスと静かに笑っているのだった。
〜数十分後。
都市に近づくにつれ都市の周りを囲む塀の高さが増してくる。視線を下に落とせば大きな石造の扉が開け放たれ、その両脇に人が立っている。
「あそこが検問所なの、交通料を少し払うけど都市を出る時には払った額から手元に少しだけ戻ってくるよ。」
「どのくらい払うんですか?」
「う〜んとね、今はどのくらいかはわからないけれど、昔は銀貨1枚だったよ。」
(意外と安いな。)
銀貨とはこの世界の通貨だ。正式名称は別にあるのだが、色が銀色なので銀貨と呼ぶほうがしっくりくる。だから銀貨と呼んでいる。この世界の通貨は黒→銅→銀→金→緑の順に高額になっていく。種族や国によっては通貨自体が変わることもあるが、この種類の通貨が一般的に普及しているらしい。銀貨1枚の価値はだいたい成人男性の3食分だと言われている。頭の中で金銭に関して整理していると目の前に門が迫っていた。
「旅人かい?見慣れねぇ格好だな。……まぁいい、向こうが受付だ。」
門の前に立っていた男がレイ達の服装の感想をそう零しつつ、頭から足下までを検べる。問題は無かったらしく、向こうと親指で門の奥を指す。言われるがままに進めば受付らしき小窓があった。小窓といってもガラスが貼られているわけではなく鉄格子が嵌められている。
「通行料は銀貨1枚と黒玉2個になります。」
鉄格子の向こうには営業スマイルの女性が受け皿を此方に差し出していた。女性は肩口で切り揃えられた茶髪、瞳は垂れ目で優しそうな顔立ちの美形であった。どうやら異世界ものの物語特有の登場人物がみんな美形、は、この世界でも適応されるらしい。盗賊から奪った財布から必要な額を支払いつつ横をみればイリミナが別の窓口で通行料を払っているところだった。因みにその受付の男性も金髪の美形だった。
「こちらが案内マップになります。こちらの筆は記念品です良かったらお使いください。他の国や都市と違いのある法律などは存在しません。では良い滞在になりますよう。」
丁寧に腰をおる女性。レイは地図を受け取り広げる。この都市の名物や名称が書き記されていた。
カキカキ。
「あ!レイくんも丁度終わったのね。」
振り向けばイリミナが歩いてきた。その腕の中ではルディアが地図を開き何かを一生懸命に書き込んでいる。覗けば、
「これも…あ!これも美味しそう!じゅるり…」
肉屋の居酒屋
-旬の野菜の肉包みスープ-
自分と全く同じ店に印をつけていた。
(こうゆうところは、どのタイミングで似るんだろうな)
苦笑いしつつそう感想をこぼす。イリミナはレイの苦笑いの原因が地図にあることを、そして、2人の地図を見比べながら納得し、クスクスと笑っている。
それから表情を戻し、「さて、」と切り出す。
「これからの事だけどまずは…
「「宿ですね!」」
イリミナの言葉の先を読み、兄妹が同時に声を出す。
(異世界ものといえば旅、旅といえば宿泊、つまりは宿。これを探すのが異世界巡りを極めるための第一歩なのさ。)
心の中で自分に言い聞かせつつ、形の良い瞳をパチクリさせているイリミナを見る。
「レイくんとディアちゃんが宿が好きだとは思わなかったよ。でも、うん。そうだねそれが1番にすべきことかな。」
「そうなると…この辺が良いですね。姉さんは…その、いくらくらい持ってるんですか?」
この辺と指し示したのは宿屋が密集している地点だ。
この都市は商業区や住宅地と、分けられているのではなく。ごちゃ混ぜになっている。その中でも宿屋がなぜ1箇所に密集しているのか、なぜなら、
(!、冒険者派遣事務所って書いてある。これはつまり…冒険者ギルド! 後で覗いてみよう。)
もはやレイにとってはお馴染みの、それこそ言葉通り親の顔よりも見た文字である。
「マスター、行きますよ〜。」
イリミナに抱えられたディアが自分の名前を呼ぶ。その後を軽い足取りでついていくのだった。
宿の前に着く。
宿は石造りの建物で入り口の上にはヨーレの宿と書かれて看板が立てられている。見た目は民家にも見えなくはないが、立てかけられている看板や入り口の脇の生花を見る限り、管理が行き届いているように見える。期待ができそうだ。そこまで考えてイリミナの持ち金を聞きそびれたことを思い出す。
「そういえば、イリミナさんはどのくらいお金は持ってきてるんですか?」
「金貨5枚くらいだよ。」
「へ〜金貨ご、5!そんなに持ってるんですか!」
成人男性の3食分が銀貨1枚、金貨は銀貨の10倍の価値がある。つまり、男1人が50日は食っていける金額だ。対して自分は…、
(ギリギリ、金貨1枚…7人、いや6人から取ったのに…貧乏だな〜あの人達。)
人から奪ったものなのであんまり文句は言えないが。ともあれイリミナの懐事情はわかった。
(とりあえずチェックインだな。)
門を潜るイリミナの後に続く。中はシンプルな作りで椅子と机が並べられたその奥に店主らしき女性が1人。女性はこちらに気づくと柔和な顔で笑う。年齢は35歳前後で髪は茶髪だ。この世界の人は髪が茶色の人がやはり多いらしい。
「いらっしゃいませ。2名様、宿泊ですか?」
「はい…あ、ディアちゃんもいるので3人でお願いします。」
「!、ちょっと姉さん、黙っとけば良かったのに。」
「だめだよ、ちゃんと言わないと。」
「うっ」
強かなディアが戒められ、ぐうの音もでない様子だ。
「あら、それはごめんなさい。…珍しいわね、ゴーレムなんて。」
店主の女性がディアを眺める。ゴーレムはこの世界に存在するロボットのようなものだ。かなり高額なものらしい。勿論、ディアは違うが。
「違いますよ、ゴーレムじゃないんです、私。ちょっと特殊な生い立ちで。」
「あら、そうなの。それはごめんなさい。…コロコロしてて可愛いわね〜。」
「えへへ〜」
女性に撫でられてご満悦の様子だ。
「その…お部屋は空いていますか?」
ディアをこねくり回す店主にイリミナが尋ねる。
「あ、ごめんないね。つい、はしゃいでしまって。部屋は空いているのだけれど…その…」
女性は1度言葉をきりレイを見る。それからイリミナの耳に口を近づけ小声で話す。
「空き部屋が1部屋しかないのだけれど、彼氏さんと相部屋でも問題ないわよね?」
小声だろうがレイの耳ならばバッチリ聞こえる。
問題は聞いて得するものと気まずくなるものを区別せずに拾ってしまうことだ。因み今は後者である。
(あ〜…、気まずい…)
聞かれたイリミナは平静を装っている。ただ、装っているということがわかりやすい。
なぜなら、イリミナの顔は耳まで真っ赤だからだ。
ここ何日かで知ったことだが、イリミナは恋愛話が苦手らしい。ルディアはその手の話題が大好物なのでイリミナにも散々持ちかけてはいるものの返答はどうにも鈍い。
「その…彼氏とかじゃなくて…その、で、でも部屋が一部屋しかないのでしたら相部屋でも大丈夫です。」
「初々しくていいわね〜。私と旦那の昔を見ている気分だわ。ふふふ。」
(あ〜どんどん赤くなっていく…そろそろ助けるか。)
自分も少し耳が熱い気がするので一旦深呼吸。それから、イリミナに歩み寄り、
「お嬢様、いかがされましたか?お部屋に空きはございましたか?」
突然の口調で話しかけられたイリミナは目を見開いたが、すぐにレイの思惑に乗っかる。
「うん、問題ないわ。空室は1部屋しかないそうだけれど、護衛のあなたには近くにいてもらったほうがいいから、丁度良いわね。そういうことだから1部屋貸して欲しいわ。」
イリミナが口早に話す。店主の女性は優しげな表情のままだ。
その後は金銭を払い、なんとか宿に泊まれることになった。
「では、お嬢様、私は先に部屋の様子を見てきます。少し、お待ちになってください。」
レイが部屋の鍵を受け取り、指示された方角、宿の二階へと上がっていく。それを見計らった女性の店主はイリミナの耳に再び口を近づけ、
「本当に良い彼氏さんね、ふふ。逃がしちゃダメよ。」
口元に手を当て微笑む女性。その言葉の真意、つまりは先程のやりとりの意味を見透かされていたことに気づき。イリミナが今度こそ俯き、顔を赤らめる。その様子に今まで黙っていたルディアが、
「奥さん、みました?初々しいですね〜。」
「そうね〜。」
女性に同意を求めながらイリミナをそう茶化すのだった。
「もう、ディアちゃんまで…」
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部屋は隅々まで手入れが行き届いている。部屋にはベッドが二つ、側には、箪笥が備え付けられ、書き物ができそうな小さな机と椅子がある。店主の話だとトイレは共同で風呂は無し。
頼めばお湯を持ってきてくれるそうなのでそれで体を拭くのがいいだろう。軽く部屋を評したのはレイだ。
左のベッドの縁にイリミナが座り、その対面にレイがベッドに腰掛けている。レイの隣にはルディアがいる。
「今後のことについてなんだけど…」
最初に沈黙を破ったのはイリミナだ。
今後の方針、つまりはイリミナの家族探しについてだ。天空の屋敷では最初は街を目指すとしか聞かされていなかった。
レイの目の前で、イリミナは自身の鞄から一冊の本を取り出す。本の色は青で金の刺繍が施されている、品のある本だった。ただ、
(これは…ただの本じゃないな。)
煌びやかな本はそこに存在するだけで強い気配を感じる。まるで生きているかのような生命に似た圧迫感だ。だがその言い表しようのない圧迫感は不思議と不快には感じない。
「この本はね…母さんが私に残してくれた本…だと思うの。」
なんとも煮えきれない物言いのイリミナ。その表現しにくい希望や諦念、願望をない混ぜにした複雑な顔。イリミナは「その…」と続け、
「私ね…昔は記憶が…家族の記憶が無かったの。母と父、兄がいるのはわかったんだけど、顔も名前も出てこない…記憶がそこだけポッカリと無かったの。」
イリミナが重苦しい空気を少しでも軽くしようと気丈に微笑む。その目が悲しみに沈んでいることを除けば彼女の思惑は完遂されたかもしれない。だが完遂されなかった行いは、より空気に溶けて濁るように落ちていく。
それでも彼女は微笑み続けている。
それならば自分がなにか言うこともない、できないと考える。彼女が望むのであれば自分も彼女の笑顔に乗っかろう。
「成る程、でも今はあるんですよね?」
少しでも場を明るくしようと明るい調子で答える。ちなみに口角も気持ち上向きです。
「ううん…全然。」
(おっと、やべ、墓穴掘ったかも。)
イリミナは顔を俯かせる。顔色は読み取れないが、肩が少し揺れている。自分がいらない傷口をつけて、広げてしまったのかと焦るレイ。何か言葉を言おうと探すが見つからない。レイの目が右往左往していると、
「…ぷっ、ふふふ。ごめんない。冗談だよ。重い話がしたいわけじゃないの。だからその…気を使わなくて良いからね。
イリミナが微笑む。
「…」
(……)
レイが硬直している。少しやりすぎたか?と反省しつつイリミナは続ける。
「まだ思い出せないことがあるのは事実だけど、家族の顔も名前も思いだせるよ。それと…この本。」
本、と言い、膝の上に乗せていた青色の本の表紙を撫でる。
「この本は母が私に残してくれたもの、大事な探しものをする時はこの本に聞きなさいって言いつけられていたのを、とても良く覚えてる。」
イリミナは先程とは打って変わって違う表情、昔を懐かしむ顔になっている。
(さっきの暗い表情よりは良いな。)
その変化に少し気が軽くなった気配。イリミナは胸に本を抱え込むと、
「私の母は少し変わった力を持っていてね、未来が見えたんだって。そしてその力をこの本に押し込めた。」
未来が見える。そんな摩訶不思議なことがあるのだろうかと一瞬考えたが、そもそも今いる世界が摩訶不思議だったので思考放棄。
「未来が見えて、その力をその本に…つまりその本にはイリミナさんの家族の場所も?」
違うと論理的に理解しながらも淡い期待を持ち、聞いてみる。聞かれたイリミナは「ううん」と首を横に振り、
「未来が見えるといっても本当に未来が書かれる本では無いの。未来を見る力を本に入る形で改良して作ったのがこの本。持ち主の求めるものに行き着くための助言をしてくれるだけ。それも全てが上手くいく道とは限らない。あくまでも自分の力で目標に辿りつかないといけないの。その道を選ぶ参考に、本を使うだけ。」
(成る程、それで今後の方針についての話に繋がるのか。)
気になる点はいくつもあったが今は置いて置くことにする。レイが話の繋がりを理解したのをイリミナも感じ取り、顎を引くと、
「それでこの本に書かれたのが”クラリス学園”、カラギク国にある世界3第大学校の1つ。魔法及び剣術の指導をし、世界に名を残す英傑たちを多く輩出する名門だよ。」
イリミナはそこで一度言葉を区切り、
「そこに入学しようと思うの。」
意を決したような真っ直ぐな目でこちらを見る。何をそんなに身構えているのかと不思議に思っていると。隣から高い声が上がる。
「学校!学校ってあれですよね、同じくらいの年代の子が集まって勉強する場所ですよね!良いですね!いきましょう!」
今まで沈黙を守っていたルディアが早口で興奮した様子だ。その迫力に一瞬唖然とするものの何かを思いだしたようにイリミナが口を開く。
「で、でもディアちゃん。クラリス学園はここからだとかなり遠いよ?本当についてきてくれるの?それにその自分で言うのもなんだけど、私って目立つから、その…迷惑とかかけちゃうかもしれないよ?」
(あー成る程。)
ここで漸く先程のイリミナが意を決したような表情だった理由を理解する。単純な話、イリミナは申し訳なさを自分達に抱いているのだろう。無理に連れ回したとかそんな感じだ。全く気にしないでもらいたい。なぜなら、
「大丈夫ですよ。自分達はもともと美味し物食べたいとか面白いものがみたいとか、その程度の目的で旅しようとしてたんですから。」
だからイリミナが気にすことは必要ない。
「イリミナさんの後ろをちょこまかと追いかけながら食べ歩きでもしてますから気にしないでください。」
「そうですよ姉さん!私は食べ歩きのほかにもやりたいことは沢山ありますよ!その中の1つに学校に通う、があるのです。」
レイの発言にディアが乗っかる。2人の主張を聞き、イリミナは口の中で「そっか」と呟く。それから顔をあげればそこには、いつもとは少し違う、そんな微笑を讃えていた。
とりあえずこれで次の目的地は決まりだ。
目指すはクラリス学園、剣と魔法の学校だ。
ただ、その前に、レイはとても深刻な状況に陥っている。ここの宿代は銀貨3枚だった。旅に出るのであれば非常食ぐらいは買っておいた方がいいだろう。あとは武器だ。服も変える必要がある。
ここまでくれば現在の状況が容易にわかるだろう。そう、つまり、
(金がない!)
早急に収入源を確保する必要があると思い悩むレイだった。