憧れのお姉さんにそっくりな美少女転校生を助けたら、憧れのお姉さんがお義母さんになって転校生とその妹が俺の家族になったんだけど、これなんてギャルゲー?
「ひこう、き……! おっきい……!」
空港に着くと、羽が生えた大きな乗り物を前にして、幼い女の子が手をパチパチと叩いて喜び始めた。
幼い女の子――俗に言う幼女は、今年高校生になったばかりの姉の腕の中でとてもご機嫌な様子だ。
そんな幼女を見て、傍から見れば二十歳くらいの女性が笑みを浮かべる。
「凪紗は飛行機に乗るの楽しみにしてたもんね~」
「んっ……!」
女性はキャリーバッグを片手に幼女の頬を突いてじゃれ始めた。
今回三人が飛行機に乗る原因となったのは主にこの女性だ。
一ヶ月ほど前に急に引っ越しをすると言い出し、幼女を抱っこしている姉――九条静香は突然のことに困惑してしまったものだ。
しかし、聞き分けのいい静香は親の都合なら仕方ないと既に割り切っている。
そして、新しい街へと思いを馳せていた。
「それでお母様、どうして急に岡山県に行くことになったのか、そろそろ教えてくださってもよろしいのではないですか?」
ただ、理由は知っておきたい。
そういう思いで静香は尋ねたのだけど、外見だけは二十歳に見える実際は三十半ばの母親は笑顔で誤魔化した。
「ふふ、向こうに行ってからのお楽しみだよ」
ニコニコと楽しそうに笑みを浮かべる母親を見て凪紗は溜息を吐く。
もう何度このやりとりをしたのかもわからず、静香がわかっていることといえば、岡山県に行くことになってから母親の機嫌が凄くいいということだ。
どうやら誰かに会いに行くようだけど、肝心の相手の名前は一切教えてくれない。
こうなった時の母親が頑固なことは長い付き合いだけに静香もわかっており、もう半ば諦めるしかなかった。
「ねぇ凪紗、お兄ちゃんほしい?」
「おにい、ちゃん……? やっ……!」
「あれ、首を横に振っちゃった。嫌なの?」
「んっ……!」
静香が溜息を吐いていると、何やら母親が妹である凪紗に変な質問をし始めた。
しかし、母親の質問に対して凪紗は一度首を横に振り、二度目にされた質問に対しては大きく首を縦に振った。
自分の意思を母親に主張するかのように力強い振り方だ。
凪紗は人懐っこい見た目をしているけれど、実は幼い割に警戒心がとても強い。
この幼女が懐いているのは母親と静香だけであり、他の人間には触られることすらも嫌がる。
そんな凪紗が赤の他人を自分の家族に招き入れたいなど思うはずがない。
母親もそのことはわかっているはずなのに、どうしてそんな質問をしたのか静香には理解できなかった。
「えぇ、困るよ~」
嫌がる凪紗に対して母親は言葉通り困った表情をする。
まるで予定が狂ってしまうとでも言いたげな表情だ。
そして空いている左手を頬に当てて何かを考える素振りを見せ、何やら悩み始めてしまう。
今度はいったい何を考えているのか、静香は自由人な母親に対して不安を抱かずにはいられなかった。
◆
「――九条静香です。先月秋田県から岡山県に引っ越してきたばかりで右も左もわかりませんが、仲良くして頂けますと幸いです。これからよろしくお願い致します」
夏休み明けの初日、竜胆凪のクラスに転校生がやってきた。
上品に佇む仕草に、長くまっすぐと下ろされた綺麗な黒髪。
人懐っこさが窺えるかわいらしい笑顔や、鈴のような聞き心地のいい声はとても魅力的だった。
まず間違いなく、凪の理想そのものの相手だ。
「――なぁ、凪。あの子凄くかわいいな」
凪が静香に見惚れていると、後ろの席に座る親友の室井力也が声をかけてきた。
どうやら静香のことをかわいいと思っているのは凪だけではないらしい。
周りのクラスメイトたちの表情を見ても、全員が静香に見惚れているようだった。
実際それだけの華が彼女にはある。
人によってはアイドル顔負けと評するくらいのかわいさだろう。
「かわいいな。夏休み前には転校生が来るなんて聞いていなかったけど、突然の引っ越しだったのか?」
「昨日やったギャルゲーみたいな展開、これは俺に彼女とくっつけと神様のお告げがあったんだな……!」
人の話を聞いちゃあいない。
力也はギャルゲーが大好きな上に妄想力もたくましい男だ。
どうやら昨日やったのは美少女が転校してきてから物語が始まる物だったらしい。
今はもう静香との今後について思いを馳せていることだろう。
「ほぉ……お前ら、ホームルーム中に喋るとは中々いい度胸をしているな?」
今日も通常運転の力也に半ば呆れていると、空気を割くようなピリッとした雰囲気と共に威圧感に溢れる声が聞こえてきた。
凪が声のしたほうを見ると、笑みを浮かべながら全身から殺気を放つ女の担任教師と目が合う。
瞬間、凪は力也の戯言に耳を傾けたことに後悔をした。
「竜胆、室井、お前ら後で職員室にこい」
有無を言わせない威圧感溢れる言葉。
この時凪たちに選択肢などなかった。
「――くそ、貴重な放課後が潰れてしまった……!」
放課後、罰ということで資料室を片付けさせられた凪の横で、同じく片付けをさせられた力也が嘆いていた。
「体よく使われてしまったな。資料室を片付ける人員が欲しかったんだろ」
「あぁ、俺の貴重なギャルゲーの時間が……」
それは貴重なのか?
凪はそう疑問に思うのだけど、ギャルゲーのことを軽く見るようなことを言えば力也がキレるので、ここではグッと我慢をした。
「凪はまた修行か?」
「そうだな」
「よくやるよな……そんなに頑張るんだったら、大会に出してもらえない無名な流派なんてやめて別のところに入ればいいのに」
力也は感心しつつも、少し呆れた様子で凪に言ってきた。
大会にも出られないのに頑張る理由がわからない、そういう思いが見てとれる。
「そうも言ってられないだろ、自分の家がやってる流派なんだからさ」
凪は物心付いた時から武術をやっており、それは生まれた家が代々武術を営む竜胆だったからだ。
竜胆流は今や武闘家でさえ知っている者がほとんどいない流派で、先月師範だった父親が亡くなってからは竜胆流を受け継ぐのは凪一人になっている。
一人しかいなくて流派を名乗っていいのか疑問になるが、技はしっかりと受け継いでいるため、凪としては弟子を取りたいと思っていた。
――まぁ弟子ができたところで、数日と続かないのだが。
その後も力也は呆れた様子だったが、いつものことなので凪は特に気にしなかった。
二人はそのまま資料室の鍵を返すために職員室を訪れたのだが、何やら血相を変えながら電話をする担任教師の姿が目に入る。
「何かあったのかな?」
「さぁ、誰かがお店で騒いで学校にクレームでも入ったんじゃね?」
「力也じゃないんだし、そんなことはないだろ」
「おい、どういう意味だよ!」
「ははは」
凪は怒る力也を笑顔で流し、困った表情を浮かべる担任教師に声をかけに言った。
「どうかしたんですか?」
「竜胆……そうか、お前がまだ学校にいたか!」
凪が声をかけると、凪の存在に気が付いた担任教師がニヤッといい笑みを浮かべた。
それに対して凪はまた何か面倒事を押し付けられるのだと予感する。
とはいえ、今回は自分から声をかけているので自業自得といえば自業自得なのだが。
「九条の妹が行方不明になったらしい」
「「はっ?」」
担任教師から告げられたことが思っていた以上にまずい事態だったので、凪と力也の声が重なってしまった。
「なんだ、室井。お前もいたのか」
「凪との扱いの違い!」
まるで今気が付いたとでも言わんばかりの言葉に、力也が全力でツッコミを入れる。
凪は歓迎されたのに、力也は空気扱いだったので怒って当然だった。
「二人とも、今はふざけている場合じゃないでしょ」
「「悪い……」」
そんな二人を凪は落ち着いた声で静かにする。
それを見て周りの教師は、どっちが教師かわからない、と心の中でだけ思った。
「先生、状況をもう少し詳しく教えてください」
凪はそんな周りの空気は気にも留めず、思考をクリアにして情報を得ようとする。
まず優先すべきは情報。
それは何においても変わらないと凪は思っていた。
「あっ、あぁ、九条が家に帰ったら家に妹がいなかったらしい」
「何歳くらいの子ですか?」
凪が年齢を尋ねると、すぐに担任先生は電話越しに確認を取る。
おそらく相手は九条静香だろう。
「四歳らしい」
「四歳……まさか、そんな幼い子を家に一人でおらせたんですか?」
「らしいな」
幼い子を一人で家にいさせたことに凪は眉を顰める。
だけど今はそんなことに対して文句を言っている場合ではないので、思考をすぐに切り替えた。
「手続きミスで妹が保育園に預けられるのは来週からになっているそうだ。それに年齢の割に賢い子だから一人でお留守番もよくしていたらしい」
「そうですか。それよりもまずは、自分で家を出ていったのか、それとも泥棒が連れていったのか、その確認をするべきです」
凪は担任教師の説明を一言で終わらせ、今必要な情報を得ようとする。
一人で出て行ったのなら四歳児の足で行ける距離などたかが知れている。
だが、誰か家に侵入した者が連れて行ったのなら、絶望的に見つかる可能性は低い。
ましてや車でも使われようものならもう見つからないだろう。
最初の確認でほぼ全てが決まる、凪は前者であってくれることを祈るしかなかった。
「どう確認をしたらいい?」
凪の言葉を聞き、担任教師が確認の方法を尋ねてきた。
「外の鍵穴には無理矢理開けられた痕はありますか?」
「いや、ないらしい。だけど鍵自体は開いていたそうだ」
「そりゃあ開いていますよ。泥棒が入ってきていたのならわざわざ律儀に鍵をかける馬鹿はいませんし、幼い妹に九条さんたちが家の鍵を預けているとは思えませんからね」
(とはいえ、となるとどう判断をする? 部屋に荒らした後でもあればまだわかるが――先生に確認をしてもらったところ、部屋の中を荒らされてはいなかったらしい)
凪は担任教師に説明をしながらも、頭の中では確認の策を模索する。
現場にいればまだ違ったのだが、今は電話越しでしか情報を得られない。
時間が経過するにつれ静香の妹の安否が危うくなるため、早く探しに出たいという気持ちと焦りが出てきてしまう。
だけどこういう時こそ落ち着いて対処しないといけないことを凪は知っていたため、深呼吸をして再度頭をクリアにした。
「何か普段と変わった様子はありませんか?」
「変なことと言えば、玄関のドアの前に子供椅子が倒れていたようだ。妹が使っている物らしいが、玄関に置いてあるはずがないと」
「なるほど――」
何か手掛かりがあれば――そう、藁にも縋るような思いで言った言葉だったのに、思わぬ情報が手に入った。
それにより、凪はニヤッと笑みを浮かべる。
「じゃあ、一人で出ていってますね」
そして、妹は自らの足で出て行ったことを担任教師たちに告げた。
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
いち早く疑問を口にしたのは、今まで邪魔にならないように黙り込んでいた力也だった。
そんな力也に対して凪はわかりやすく説明をする。
「椅子が倒れているのは、妹さんがその椅子に乗って背伸びをしながら鍵を開けたんだと思う。四歳児の身長だと内側の鍵に手が届かず、だけど大人が座る椅子を運ぶには自分の力では大変。そう考えた妹さんは、小さくても自分が普段から使っている子供用の椅子を使った。しかし、それでも身長が届かず、背伸びをすることでぎりぎり鍵に手が届き、開けたと同時にバランスを崩して倒れたんじゃないかな?」
凪が口にしたのはあくまでも状況から立てた予想だ。
凪は妹の身長も知らなければ、静香の家の内鍵が設置されている高さも知らない。
だが、泥棒が連れ去ったのならわざわざ玄関に子供椅子を持っていく必要はない。
いや、それどころかむしろ邪魔になるだけだ。
だから凪は妹が自分で椅子を用意したと考えた。
「ただ、これも確実ではないからな。だけど、玄関に妹さんの靴がなければほぼほぼ確実と思っていい」
そして凪の言葉を聞いた担任教師が静香に確認を取った結果、妹が普段使っているお気に入りの靴が玄関からなくなっていることがわかった。
となれば確定だろう。
泥棒が連れ去る子供にわざわざ靴を履かす必要はないのだから。
「後はどう探す? とりあえず警察には連絡するように九条には伝えたが」
「いえ、警察には学校側から連絡をするべきです。学生だといたずらだと判断しかねられませんし、学校から連絡が入れば警察も緊急事態だと判断してくれるでしょう」
静香のような礼儀のなった女の子からの連絡なら警察も真摯に受け止めてくれる可能性はあるけれど、学校側が関与している今の状況なら学校側で連絡をしてもらったほうがいいと凪は判断した。
そしてすぐにでも捜索をしてもらう必要がある。
「後は自分たちもすぐに捜索に出ましょう。幼い子が連れ去られることも珍しくない昨今、凄くかわいい女の子が一人で歩いていれば、いつ連れ去られてもおかしくありません。ましてや、もう日が暮れるまでに三時間ほどしかない上に、危険は何も人間だけじゃないんですから」
「なんで、見たこともないのに凄くかわいいってわかるんだ?」
担任教師の質問は至極当然で、見たこともないのに凄くかわいいと言うのはおかしい。
別に凪がたまたま見かけたことがあるとか、そういう話でもなかった。
ただ、妹が凄くかわいいと想像できたのには理由がある。
静香が凄くかわいいので、その妹なら当然凄くかわいいだろうという思い込みだ。
今凪は激しく頭を回転させているため、そこまで想像がついてしまい、つい口走ってしまったのだ。
自分が口を滑らせたことを自覚した凪は少しだけ頭の回転を別方向へと向ける。
「…………幼いということは身長がかなり低いので、容易に車の死角に入ってしまうでしょう。九条さんの妹さんが賢いというのなら車の危険性は理解していると思いますが、それでも本人が気を付けても免れない事故は存在します。ましてや幼ければ咄嗟に躱すことも容易じゃないでしょう。ですから、今すぐに捜索に出ましょう」
凪は自分が滑らせた言葉をどう誤魔化すか頭を回転させた後、何事もなかったかのように話を続けることにした。
しかし、これはさすがに納得してもらえなかったようだ。
「いや、私の質問に答えろよ」
「先生、時は一刻を争います。こんなしょうもないことを気にしている暇はありません」
「そうだな、ことのケリがついた後にじっくりと聞かせてもらおう」
どうやら担任教師も妹が凄くかわいいと言った理由には気が付いているらしい。
ニヤニヤとして、初めて握れそうな凪の弱味を楽しみにしているように見える。
「力也、後は任せた」
「あぁ、任せろ――って、お前何してるんだ!?」
担任教師から逃げるように凪が踵を返すと、凪が向かった方向を見て力也が驚いた声を出した。
「さっきも言ったけど、急いで探したほうがいいんだ。先生、九条さんがいる住所だけ教えてください」
「あっ、あぁ……住所は――」
凪の様子に担任教師も戸惑った表情を見せるが、すぐに静香の住所を凪に伝えた。
(普段なら大人しく家で留守番をしているのに今日はいなくなっていたということは、慣れていない家に一人ぼっちになって不安になってしまったんだろう。早く見つけてあげたいな)
凪はそう考えながら、靴を履き替えに行く時間も惜しいと思い、職員室の窓から一人飛び出した。
「――なぁ今あいつ、職員室の窓から飛び出していったんだけど……ここ、二階で下はコンクリートだよな……?」
「で、ですよね……? それなのにあいつ、ピンピンとして走ってますし――というか、あんな足速かったかな……?」
凪はなんだか背中越しに力也と担任教師の戸惑ったような声が聞こえてきた気がしたけど、今は急がないといけないため気にせずに静香の元へと向かうのだった。
◆
「――あっ、竜胆君……! わざわざ来てくださったのですね……!」
凪が聞いた住所に着くと、スマホを持つ両手を胸に押し当てながら不安そうに周囲を窺っていた静香が、凪に気が付いた途端小走りで近寄ってきた。
声は不安げでありながらも少し弾んでおり、凪が到着することを心待ちにしていたことがわかる。
「待っていてくれたんだね、ありがとう」
おそらく担任教師から自分が向かったことは連絡が行っていたんだと思いつつも、凪は妹を探しに飛び出さなかった静香に感謝をした。
「いえ……それよりも、凪紗をどう探したらいいでしょうか……?」
「凪紗ちゃんっていうんだね。とりあえず、九条さんはここに引っ越してきてからどれくらい経ってるのかな?」
「えっと、一ヵ月くらいです」
どうして関係ないことを聞いてくるんだろう、という戸惑いが見える表情をしながら静香は凪の質問に答えた。
だけど当然、この質問には意味がある。
「だったら、凪紗ちゃんを連れていつも右と左、どっちの道に行ってるとか覚えてる?」
「あっ、えっと……いつもお買い物に行くためにしか外出していなかったので、左です」
「念の為だけど、凪紗ちゃんは俺たちの学校の位置は知ってるのかな?」
「いえ、連れて行ったことがないので知らないはずです」
「わかった、じゃあ探しに行こうか。もしかしたら泣いてるかもしれないから、耳だけは澄ませておいて」
凪はそう言うと、静香がいた場所――マンションから出て、左の道へと向かった。
静香はそんな凪に疑問を抱くけど、何か確信を得ていそうな態度を見て信じて付いて行くことにする。
それからは、曲道が来る度に凪は普段行く道を静香に尋ねた。
すると、凪が何を頼りに今動いているのかが静香にもわかり始める。
凪は、普段彼女たちが使っている道を妹が辿っていると踏んだのだ、
静香は凪の冷静な判断に感心するが、ふとそんな中凪は足を止めてしまった。
「どうされました?」
「しっ、泣き声が聞こえる。それも幼い女の子の声だ」
「えっ……? 本当ですか……?」
静香は凪に言われ、意識を耳に集中してみる。
しかし、風が吹く音以外何も聞こえなかった。
本当に泣き声なんて聞こえるのか、そんな思いで凪の顔を見つめる。
「まずいな……」
「ど、どうされたんですか……?」
「ごめん、急ごう。こっちだ」
凪は静香のことを気にしつつも、歩きから駆け足に切り替える。
本当なら全力で走りたかったところだが、静香を一人残すのは気が引けたため、彼女が付いてこれるペースで走ることにしたのだ。
そして二人が辿り着いたのは――もう子供すら遊ばなくなった、錆びれた公園だった。
同時に、最悪な光景が目に入る。
泣きじゃくる幼い女の子と、その女の子に向けて吠える大型犬がいたのだ。
「凪紗……!」
その光景を目にした静香は思わず大声を上げる。
その言葉から犬に吠えられている少女が静香の妹だとわかるが、凪は安心することができなかった。
凪紗は犬から逃げようとしたのかベンチの上によじ登っているが、大型犬相手には高さが全く足りていない。
下手に犬を刺激しようものなら凪紗が噛まれることは目に見えていた。
無事に事をおさめるには犬を刺激しないようにしながら凪紗を助けるしかなかい。
しかし――。
「凪紗、待ってて今行くから!」
妹のピンチに慌ててしまったのか、静香が凪紗の元へ走り込んでしまった。
静香はすぐに凪紗を腕の中に抱え込むが――。
「わぉおおおおおん!」
そのせいで驚いた犬が、吠えながら静香たちに飛び掛かってしまった。
「きゃあああああ!」
犬が吠えながら飛び掛かってきたため、静香はギュッと凪紗を自分の腕に抱え込みながら悲鳴を上げた。
誰がどう見ても、静香が犬に噛まれるのは時間の問題。
だが――痛みが、静香を襲うことはなかった。
「あれ……?」
いつまで経っても痛みが襲ってこなかったことを不思議に思って静香はゆっくりと目を開ける。
すると、彼女の目の前に大きな背中が広がっており、その背中から生える右では犬の口が開かないようにグッと掴んで押さえていた。
「竜胆、君……?」
静香は自分を庇うように立っていた男の名を戸惑いながらに呼ぶ。
そんな静香に対して、凪は振り向いて笑みを浮かべた。
「大丈夫? 駄目だよ、興奮している犬を驚かせたら」
優しい声で、ゆっくりと言い放たれた言葉。
その声と表情に、静香は右手で自分の胸を押さえて顔を真っ赤にした。
「…………」
そして、何も言わずにジッと上目遣いに凪のことを見つめる。
凪は静香と腕の中にいる凪紗が無事なことを確認すると、今度は右手の中で『グルルル』と怒りを見せる犬へと視線を向けた。
だけど何も言うことはせず、ジッと犬の目を見つめる。
すると、やがて犬は『くぅーん……』と鳴きながら、ひれ伏しのポーズを見せた。
――時に動物は人よりも賢い。
敵わない戦いに臨んだりはしないのだ。
「よしよし、もう幼い子に吠えたら駄目だぞ」
犬がもう暴れないとわかると、凪は手を放して優しく犬の頭を撫でた。
それが嬉しかったのか、犬はブンブンと尻尾を振って手に頭を擦り付けてくる。
凪はそんな犬を笑顔で見つめた。
すると――。
「はぅ……」
なぜか、凪を見つめていた静香が変な声を出した。
「どうかした……?」
「い、いえ、なんでもないです……!」
凪が視線を向けて心配をすると、静香はブンブンと首を横に振って何もないと主張する。
その顔は真っ赤になっており、凪は不思議そうに首を傾げた。
そんな中、何を思ったのか凪紗はジッと凪の顔を見つめてくる。
見つめられたので見つめ返すと、凪紗はゆっくりと凪に向けて両手を伸ばした。
「んっ」
「どうしたの?」
「だっこ」
どうやら凪紗は凪に抱っこをしてもらいたくて腕を伸ばしてきたようだ。
凪は困ったように視線を姉である静香に向けて、どうするべきか視線だけで尋ねる。
すると、凪紗が静香の手をペチペチと叩いたので、静香は凪に妹を預けることにした。
「えへへ」
姉から凪の腕に移ると、凪紗はかわいらしく頬を緩める。
どうやら凪の腕の中が気に行ったようだ。
「えっと?」
「凪紗は竜胆君に懐いたようです」
「そうなの?」
「んっ……! にぃに、しゅき……!」
静香の言葉に首を傾げて凪紗へと尋ねると、凪紗は幼い子特有の舌足らずなかわいい声で肯定をした。
凪紗は姉譲りの整った顔付きをしており、将来美少女になることは間違いない。
こんなかわいい幼女に好きと言われて嬉しくない男はいないことだろう。
「デレデレしてます……」
「えっ?」
凪が凪紗のかわいさに頬を緩ませると、ボソッと呟かれる声が耳に入った。
耳がいい凪はしっかりとその言葉を捉えたのだけど、見れば声の主である静香が小さく頬を膨らませて拗ねたような顔をしていたので、何が何やらわからず困惑してしまう。
「い、いえ、なんでもないです……! それよりも竜胆君、あなたはいったい何者なのですか……?」
静香は凪の視線に気付くと慌てて首を横に振った後、気になっていたことを凪に尋ねた。
飛び掛かる大型犬の口を押さえていたことや、妹を短時間で見つけだしたことが不思議でならないのだろう。
「俺は――」
「――竜胆流師範、だよね?」
「えっ?」
改めて自己紹介をしようとした凪の言葉は、どこからか聞こえてきた若い女性の声によって奪われる。
声がしたほうに視線を向ければ、二十歳くらいのスーツ姿の女性が笑みを浮かべて凪たちの傍に立っていた。
「強すぎるゆえに表舞台に立つことを禁じられた伝説の流派。凪君は、その流派のトップに立つ子だよ」
そう凪のことを紹介したのは、凪の武術の腕を買って護衛として雇ってくれている、クライアントの一人である女性だった。
竜胆流は武闘会などに参加出来なくなって以降、修行と兼ねて護衛を生業としてきた。
この女性は数年前から時々凪を雇ってくれている女性なのだ。
「春姫さん? どうして――」
「ママ……!」
ここにいるはずのない女性――春姫に声をかけようとした凪の声は、凪紗のかわいらしい声にかき消されてしまった。
そして、凪紗の発した言葉に凪は驚いて春姫の顔を見る。
「ふふ、さすがの凪君も驚きだったかな? その子たちはね、私の娘になるんだよ」
「いえ、えっ……? 春姫さん、結婚、されていたのですか……?」
凪は驚きから言葉がうまくでてこない。
というのも、凪は今まで春姫のことを見た目から二十歳くらいのお姉さんだと思っていたからだ。
そして、憧れの人でもあった。
その女性がまさか結婚していた上に、子供までいるとなれば驚かないはずがない。
「うん、そうだよ。ごめんね、今まで隠してて」
「いや、あの、それはいいんですが……」
本当はよくないけれど、いいと言うしかなかった。
だけどそんなこと態度に表しても恥ずかしいだけなので、凪はすぐに言葉を紡ぐ。
「どうして、春姫さんが岡山に?」
凪は春姫がここにいる理由はもう聞かなかった。
彼女がここに来た理由はすぐに見当がついたからだ。
おそらくとっくに静香から妹がいなくなった連絡を受けており、それで探しにやってきたのだろう。
だから今聞いたのは、どうして岡山県に引っ越してきたのかということだ。
彼女の活動地域が違うことは、今までの付き合いで凪はよく知っている。
そんな彼女が岡山に引っ越してきたことは不思議でしかなかった。
「君の後見人になりにきたんだよ」
「えっ……?」
「君のお父さんが病気になってから、君を引き取ることを約束してたんだよ。ごめんね、待たせちゃって」
「あっ、いや……」
凪はここでふと思い出す。
先月亡くなった父が、後のことは全て任せてあるから心配はいらないと言っていたことを。
それがまさか春姫に任せているとは思わなかったが。
「本当はこっちに引っ越してきてすぐに迎えに行くつもりだったんだけどね……。そこの現金な娘が嫌がっちゃってどうしようか悩んでたの」
そういう春姫は、今現在凪の腕の中で凪の胸に頬を擦り付けて甘えている凪紗へと視線を向けた。
「でも、この様子ならもう問題はなさそうだね。自分の名前も凪君から取ってるって聞いたら喜びそうなくらいの懐きようだし」
凪紗が凪に懐いてることは誰の目から見ても間違いなかった。
今だって、もっと甘やかせと凪の手を取って自分の頭の上に導く始末。
とりあえず凪は凪紗の言う通りに優しく頭を撫でながら春姫に視線を戻した。
「ね、私たちと一緒に暮らそうよ」
春姫は再度凪と目が合うと、とても優しい笑みを浮かべて凪を家族に誘ってくる。
その笑顔からは心から歓迎されているのがわかるけど、それでも凪は口にせずにはいられなかった。
「俺が春姫さんの息子に……本当にいいのですか?」
春姫が結婚していたことはショックだったけど、憧れの人には変わりないため、一緒に暮らせると聞いて嬉しくないわけがない。
ましてや、静香たちとも一緒に暮らせるのだ。
これは男なら願ったり叶ったりの展開だろう。
しかし同時に、戸惑いも当然あった。
自分なんかが彼女たちと一緒に暮らしていいのか――静香たちは嫌がるんじゃないのか、と不安になるのだ。
――だが、そのことを聞いた凪に対して、静香も凪紗も大丈夫とすぐに答えた。
それどころか、静香の場合は――。
「竜胆君と同棲生活……! これはもう、結婚を前提にお付き合い頂くしか……!」
何やら一緒に生活をすると聞いて目を輝かせていたくらいだ。
だけど、凪は急展開に少し混乱していてその静香の様子に気付くことはなかった。
その後も春姫は笑顔で優しく凪に接し、静香や凪紗の言葉もあって凪は静香たちと一緒に暮らすことにしたのだった。
「――で、これってなんのギャルゲー?」
そんな中、いつの間にかこの場に現れて凪たちのやりとりを見届けていた力也がそう呟いたのだが、その言葉は誰の耳にも届かず空気に溶け込んでいくのだった。
今回、カクヨムコンの短編に出させて頂いたのですけど、文字制限のため書きたい部分を省略するしかなかったので、こちらに省略前のものを載させて頂きました!
カクヨムコンに出させていただいてるのとは、文字数の関係上内容も少し変えてます!
面白いと思っていただけましたら、感想や下の☆☆☆☆☆で評価してくださいますと、幸いです(*´ー`*)
また、少し前に書籍化が決定した
『お互いの秘密を知ってからクール美少女が仔犬のように付きまとってくるようになった件について ~アマチュア作家の僕とエッチなイラストレーターである彼女の秘密の関係~』なども書いておりますので、
よろしければそちらも読んでいただけますと幸いです!