愛さぬ王と愛されぬ妃
大きな大きな王国の、王と彼女が初めて対面したのは王城の謁見の間での事。
彼女は国の貴族の中では一番力を持つ家柄の1人娘であり、そして国内で唯一王と釣り合いのとれる娘だった。
血統、年齢、美貌、教養、資質。何れに於いても彼女の右に出る娘はおらず、国の後継を求めた城仕えの者たちに義務を主張され押し付けられた見合いの席に現れたのが彼女だ。
王は無駄を嫌う。結婚と言うものに何ら価値を見出だせぬ王にはこれは無駄な行為であり無駄な時間でしかない。
意に添わぬ見合いを押しつけられ、苛立ちを隠そうともせず、王は眉間に深いシワを刻み、鋭い視線を令嬢に突き付けた。
春の花のように可憐で、少し力を込めただけで容易く折れてしまいそうな程に華奢な少女だ。繊細そうな令嬢には王のこの視線は耐えられまい。泣くか。逃げるか。
その場に立ち合った城仕えたの者たちは皆そう思い彼女を哀れんだのだが、しかし予想に反して令嬢はふわりと春風のような柔らかな笑みを浮かべて返す。
「お初にお目にかかりました事を光栄に思いますわ陛下。わたくしはフォンダール侯爵家が娘、アザリアにございます。」
この度はお日柄も宜しく、陛下におかれましてはご機嫌麗しく・・・とでも続けそうな朗らかな口調。ふわりと軽やかな動作だが寸部と軸のぶれることのない完璧な淑女の作法。
口調にも眼差しにも怯えは勿論として嘲りの色はなく、寧ろ好意を声に瞳にと滲ませて伝えてくるではないか。
この状況に対して何も怯まぬのは余程鈍いか阿呆かだ。
理解のできぬ生き物でも見るかのように苦々しい表情を浮かべるも、すぐさまに感情を消した眼差しを向け王は威も丈高にその口を開く。
「わたしの本意ではないとは言えど足を運ばせておいてすまないが私に結婚の意思はない。
そなたとて愛されもせぬ結婚が幸せとは思わぬだろう。礼も詫びも用意するので帰って頂こうか。」
何なら別の結婚相手を用意したっていい。家柄も良く、品行方正で、賢く、美しく将来有望な、そんな若者を。
傲慢な物言いでにそう告げた王に、彼女はキョトンとして暫し無言で王を見つめた。
「まぁ、困りましたわ。」
「そちの親御らにはわたしからきちんと口添えしよう。そなたに非はないとな。」
「あぁ、いえ、そうではありませんの。そんな些末な事はどうだって宜しいのです。」
「ではなんだ?」
親の叱責も失望も名誉も粗末と称してぞんざいに扱う、そのあまりにも令嬢らしからぬ発言に王は内心目を見張る。
「僭越ながら申し上げますが、わたくしは幼き頃よりずっと陛下をお慕い申し上げておりました。
陛下はわたくしの初恋にございます。」
結局は媚びの類いかと呆れかけたが、彼女の次の句に王は今度こそ言葉をなくす。
「でも陛下はわたくしではそのお心を揺らせぬご様子。
それはそれで仕方がない事。望まれぬならそれはわたくしの力不足が故ですもの。
なのでお時間を下さいまし。わたくしに陛下を諦めるお時間を頂きたいのですわ。」
「は?」
「厚かましくもおねだりをさせて頂きますわ。先ほど陛下はわたくしに礼も詫びもして下さると仰有いました。できる事はするとも。」
言質は取ったと言外に告げて、令嬢らしからぬ図太さと令嬢らしい強かさを彼女は遺憾無く発揮してふわりと笑む。
「そなたに時間とやらを与えてわたしのメリットはなんだ?」
常ならばにべも無く却下していたであらう王が試すようにそれを言ったのは気まぐれに過ぎない。
多少毛色の違う風変わりな令嬢にほんの少しの興味が向いた。
ただ、それだけ。
「恐れながら、わたくしの家は陛下もご存知の通りこの国の侯爵家筆頭にございます。」
そこで一度間をおいて令嬢は確認するようにゆっくりと王を見る。
王はひとつ頷き、顎で続きを促した。
「傲るわけではございませんが国内において王の婚姻の相手にわたくしより都合の良い者はいないのが現実かと。」
」
見た目以上に頭が働くらしい。
つまりは彼女はこの見合いを断るなと
言っているのだ。
他の貴族や城仕えの者たちを黙らせる為にも利用してくれと、そう言いたいのだ。
王の妃に我が子をと望む者は多い。王家と婚家となれば受けられる恩寵は計り知れない。
そんな欲にまみれた者たちを黙らせる材料としてはこの令嬢は確かに最高であると言える。
「わたくしが陛下を諦められるまで、わたくしをこの城において下さい。
多くは望みませんわ。正妃扱いしろと言うわけではございませんし、滞在期間のわたくしに関する支出は己の財で賄います。
対外的に何の関係もない女をおいておくのが要らぬ災いの種を生むのであれば、対外用に妃の地位を頂ければと嬉しく思いますわ。
そうですわね・・・側室ではあまりにも烏滸がましいので、妃の末席、愛妾というのはいかがでしょう?」
偽りとはいえ、国王が妃を娶るとあっては何らかの催しが必要不可欠となるだろう。
だが愛妾程度ともなればそれも無用となる。そこまで計算の発言か。
王は笑む。
面白い、と。だって耐えられる訳がない。やると言うなら見物もいいところだ。
身分と年齢からして確実に親から正妃になるよう教育されてきただろう高位貴族の娘が妃の末席も末席、愛妾の座で良いと言う。気ぐらいの高い、苦労も知らぬ自己評価だけがやたら高い年頃の娘が。
残酷で浅い笑みを浮かべて、王は一言好きにしろと嘲るように吐き捨てた。
そうして偽りとはいえ妃の末席の地位を得た彼女に、王は飾り気のない粗末な部屋を与えた。
甘やかされ、貴族の中の貴族たれと育てられた高位貴族の令嬢だから、そんな扱いは彼女の自尊心が許すまい。
すぐに音をあげて出ていくだろうと思われた彼女はしかし誰しもがしていた予想を裏切り、城に留まり続けた。
可能な限り王の傍にいて、かといって王の視界に無理やり踏み込んで行くわけでもなく、寧ろ邪魔にならぬよう、なるべく気配を潜めてそっと後ろに立って控える。
私を見てと訴えるでもなく、彼女はただ、ただ王の気配に溶け込んでそこにいた。
時には政務を助け、必要とあれば妃の仕事もこなし、けれどもやはり主張も誇張もない。
何かを求める事もなければ押し付ける事もない。
1年、2年、3年と年月を重ね、城の者たちは次第に彼女を受け入れ、彼女と言う存在が城に馴染み溶け込み、誰しもの中に彼女が当たり前と化していった。
それは、もしかしたら王も・・・・。
実際、彼女の存在は有り難かった。
政務の補助もそうだが、多くの貴族は彼女に同情的になり、王に他の娘を押し付けなくなった。また、腹に欲を孕む者たちもそんな現状に静観の構えを見せ、またある者たちは彼女を利用しようともしたが誘惑も脅しも彼女はあっさりと撥ね付けた。
欲しいのは見返りではないのだと彼女は言う。ならば何が欲しいのかと問えば彼女は言葉無く微笑むだけ。
このままずっと、そんな時間が続くのだろうと思われていた。
もしくは献身的な彼女に王も絆されるのではないか、と。
そんなわけがあるはずないのに。
よく晴れたある日の事だった。
日差しは暖かくて、風はそよぎ、誰もが思わず微笑んでしまいそうな、そんな日。
「アザリア様どちらかにお出かけですか?」
彼女を最後に見たのは門番で、門番の言葉に彼女は黙って微笑んだそうだ。
荷物も少なく、フラりと出ていくその様は、誰がどう見ても気軽な外出のそれだっただろう。
けれど彼女がそれから城に戻る事はなかった。
***************
叶わぬ望みだとは最初から分かっていたのです。
陛下はわたくしを見ないでしょう。その瞳に写るのはわたくしのような矮小な存在ではなく、この国の行く末のみなのですから。
それでも、それでもわたくしは浅ましくも歓喜したのです。
わたくしの心を気遣い、不安げな表情の父とは裏腹に、あの日わたくしはとても浮かれておりました。浮かれきっておりました。
見合いとは名ばかりの、最早決定も同然のその相手にわたくしが選ばれたのです。親の威光である事は明確で、わたくしはこの時よりも家名に誇りを抱いた事はありません。
謁見の間で間近で拝謁した陛下は不機嫌を隠しもせずムスッとして深いシワを眉間に刻んでおられました。
「お初にお目にかかりました事を光栄に思いますわ陛下。わたくしはフォンダール侯爵家が娘、アザリアにございます。」
この度はお日柄も宜しく、陛下におかれましてはご機嫌麗しく・・と間に入れるのが正式でより完璧な挨拶なのですけど、そんな台詞は冗談にもなりそうない表情を前にわたくしは敢えて控えておきました。
陛下は言葉もなく、ただ一瞬だけ不可解そうな顔をしただけで、無言でひとつ頷いて応えて下さります。
内緒ですけれど、この時わたくしは笑いを堪えるのに必死でした。だって何て正直なお方なんでしょう!わたくしは国内で力を持つ大貴族の長女だと言うのに、敵に回しては厄介な相手にそれなりを装う事もできたでしょうに隠しもしない陛下をお可愛らしい方だと思い、そんな不遜な思考をわたくしは圧し殺しておりました。
「わたしの本意ではないとは言えどお足を運ばせておいてすまないが私に結婚の意思はない。
そなたとて愛されもせぬ結婚が幸せとは思わぬだろう。礼も詫びも用意するので帰って頂こうか。何なら別の結婚相手を用意したっていい。家柄も良く、品行方正で、賢く、美しく将来有望な、そんな若者を。」
陛下のお言葉にわたくしは言葉を無くし無作法にも陛下をまじまじと凝視しておりました。
ショックはございませんでした。ただ、あまりにも予想通り過ぎて、ちょっと肩透かしを食らったように思ってしまったのです。
「まぁ、困りましたわ。」
我ながら間の抜けた声だと呆れつつ、なるべく品よく見えるように左手を頬に添えて小さく首を傾げました。
「そちの親御らにはわたしからきちんと口添えしよう。そなたに非はないとな。」
「あぁ、いえ、そうではありませんの。そんな些末な事はどうだって宜しいのです。」
あぁ、大変。
今わたくしったら陛下とまともに言葉を交わしておりますわ。
そうはしゃぐ心をこの時のわたくしはどれ程隠しきれていたのでしょう。
完璧なポーカーフェイスを作ってみせる陛下に比べて随分お粗末なそれを、わたくしは微笑みで補うのです。
「ではなんだ?」
問われた陛下に、わたくしは笑みを深くしました。
「僭越ながら申し上げますが、わたくしは幼き頃よりずっと陛下をお慕い申し上げておりました。
陛下はわたくしの初恋にございます。」
きっと、多分、いえ絶対に陛下は知らないのでしょう。
人を恋うる感情を。この無用な甘やかで苦い苦い気持ちを。
だから陛下はわたくしの『初恋』という言葉に軽んじるような目を向けるのでしょう。
「でも陛下はわたくしではそのお心を揺らせぬご様子。
それはそれで仕方がない事。望まれぬならそれはわたくしの力不足が故ですもの。」
わたくしの肌がもう少しきめ細かく白くあったなら、わたくしの瞳がお人形さんのようにつぶらであったなら。
もっと貴方に釣り合うわたくしであれたなら・・・。
「なのでお時間を下さいまし。わたくしに陛下を諦めるお時間を頂きたいのですわ。」
愛して頂けぬのなら、せめてわたくしがこの思慕を忘れるまでお時間を下さい。
「は?」
わたくしには時間がございませんでした。
恋に夢を見ている時間も、失った恋に涙する時間も。
この婚姻の話が破談となればわたくしは陛下にご用意頂く必要もなくすぐさま父によって別の方との婚姻を結ばされるでしょう。
わたくしは貴族の、それも高位の貴族の娘にございます。望まぬ婚姻など当たり前で、嫁いだからにはその方に尽くしその家を支えていく義務がございます。
だから、だからせめて最後の悪足掻き。浅ましくみっともなく惨めでも、わたくしに時間を頂きたかったのです。
「厚かましくもおねだりをさせて頂きますわ。先ほど陛下はわたくしに礼も詫びもして下さると仰有いました。できる事はするとも。」
「そなたに時間とやらを与えてわたしのメリットはなんだ?」
「恐れながら、わたくしの家は陛下もご存知の通りこの国の侯爵家筆頭にございます。」
何の温度も感じさせぬ陛下の瞳の奥を慎重に探りながら、わたくしは勿体ぶるように一度呼吸で小さな間をあける。
「傲るわけではございませんが国内において王の婚姻の相手にわたくしより都合の良い者はいないのが現実かと。
【文途中での改行】」
これは駆け引き。陛下の興味を引いて、わたくしの欲しい答えを頂くために、わたくしは神経を張りつめ思考を巡らせる。
笑え。強かに、聡く、なるだけ華やかに。わたくしには末席だろうともそこに少しばかり置いておいてやるだけの価値があると思わせるように、笑え。
「いいだろう。好きにしろ。」
わたくしはこの時、生涯で一番幸せな時間を頂く事を許されたのです。
実際、それからの日々は目まぐるしくも幸せな日々でございました。
胸は痛むけれど、時折どうしようもなく泣きたくなったけれど、顔をあげれば陛下がいらっしゃいました。気紛れにお言葉をかけて下さった。
とてもとても好きでしたの。直接言葉を交わしたのはあの時が初めてで、少し緊張して、声が上擦りそうになるのを意味ありげな笑みで誤魔化して、にべなく帰れとおっしゃる陛下に交渉を持ち掛け頷かせて、あらわたくしって案外政治的外交とか向いているんじゃないかしらっなんて思ったりして。
何とか城に残り、陛下の一番近くに存在する女になれました。
浅ましく、惨めで、強欲で、強かで。それはわたくしが目指したわたくしではなかったけれど、わたくしは満足していたのです。
世間はわたくしを一時の熱情に浮かれて人生を擲った愚か者だと言い、または憐れだとも言いました。
親は呆れ、わたくしは家名からわたくしを除外していただくように願いました。父が黙って頷いて下さったのはわたくしへの憐憫でございましょう。
大きな見返りを求め、わたくしに甘言を囁く方もいらっしゃいました。
その無意味さに思わず苦笑して、愚かな野望を捨てるようにと諭した事もございました。
きっと、多くの方は誤解をされていらっしゃるのです。
わたくしが陛下に賜ったのは陛下を振り向かせる為の時間ではなく、陛下を忘れる為の時間だと言うのに。
わたくしはわたくしの初恋を弔う為の時間を必要としたのです。叶わないと知っていたから、憐れな心を慰め、悼む為にわたしは長い時を必要としたのです。
陛下は優しいお方。わたくしの自己中心的な願いを聞いて下さった。わたくしを利用する事もできたのに、わたくしが提示した以上の事をわたくしに求める事もなく、ただただわたくしがわたくしの初恋を埋葬し終わるまで待って下さった。
慕っておりました。本当に。
陛下、わたくは生涯最高の時間を賜ったと思っております。
貴族の娘として生まれた以上、政略や血脈を理由に婚姻を強いられても甘受せねばならなかったはず。それが思いがけず得た権利から本来ならうちに秘め圧し殺すだけだった初恋をわたくしの望む形で散華させるまで時間を注げた。
これを幸せと言わず何を幸せとすれば宜しいのでしょう。
陛下、これがわたしの思慕。これがわたくしの純情。貴方様に捧げた全てにございます。
幼い頃からひた向きにただ1人の背中を追い掛け、注いだ思慕の眼差し。
けして叶わなかったけれど、叶わないと知っていたから、わたくは不幸なんかではなかった。
さよなら陛下。最後は綺麗に、何の未練も残さず、足跡さえ消して。
さよなら陛下。さよならわたくしの初恋。さよならアザリア・フォンダール。