ムクロヒロイ
おぼろげな意識の中、少年は誰かの声に呼び起こされる。
頭も体はまだ重く、声の主を確認しようとしても瞼が上がらない。
それとは裏腹に、相変わらず呼びかけは続いている。時折体が左右に揺すられている感覚も覚えた。
鈍い頭を揺さぶられて、思考を巡らすことが億劫に感じる。
もう一度眠ろう。そう思い片手間に掴んでいた意識を手放しかけた時だった。
「早く起きないと、死んじゃうよ?」
はっきりとしたその不穏な言葉に、離れかけた意識が踵を返して戻って来る。謂れ無い不安に掻き立てられ、少年は浅い眠りから目を覚ました。
ボヤけた視界が徐々に明瞭になっていく。最初に映ったのは真っ白な石造りの地面だった。
次に聴覚と触覚が戻って来る。遠くから聞こえる鳥の声と耳をかすめる風の感覚から、ここが外だということがわかった。
不意に視界に影が落ち込む。何かが少年の顔を覗き込むようにして、太陽の光を遮っているようだ。
「あ、起きた。おはよう。」
声のする方へ顔を向ける。そこにいたのは、側頭部から一対の角が生えた一人の少年だった。
珊瑚を思わせるような白くしなやかな角の付け根には、彼の薄い灰黄色の髪の毛が蛇のように巻きつき、普段は長い前髪で隠れているであろう宝石のような若草色の瞳が、覗き込む体制によって露わになっている。
彼は少年と目が合うと、優しげな表情を浮かべて見せた。
「君、大丈夫?だいぶ寝てたみたいだけど。それより、そろそろ船頭さんが船着き場に着く頃だから早くおきないと。荷車に踏みつぶされるのは嫌だろ?」
ああ、死ぬとはそういうことか。少年は心の中で納得し、気だるそうに声を絞り出しながら応答する。
両腕を地について、重たく横たえた体をゆっくり起こす。そうして顔を向けた先には、どこまでも続く青い海が広がっていた。波が打ち寄せて、岸壁にぶつかる。子守唄のように心地良い波の音が、目覚めることを邪魔していたのかもしれない。
一通り回りを見渡した少年は、改めて彼に目を向ける。
「君、誰?」
「それはこっちのセリフなんだけど…まあいっか。」
彼は眉を歪めながら乾いた笑い声を漏らし、頭を掻いた。そして再び、優しげな表情を浮かべ、少年の質問に答える。
「僕の名前は”ムクロヒロイ”。みんなはムクロとかムク坊とか呼ばれてる。名前の通り、ムクロの海から道具に使えそうな骨を拾って届ける仕事をしているんだ。」
そう言ってムクロは、足元に置いていた肩掛けのカバンを開け、中から一つの小さな茶色の包みを取り出した。
包みの紐を解くと、先が鋭利に尖った真っ白な骨が顔を覗かせる。
「ムクロの海って?」
「知らない?西の下階に広がってる骨がたくさんある場所で、シシハテの墓場とも言われてるんだけど…」
少年は、ムクロの言っていることが何一つ理解できなかった。聞きなれない言葉が次々と出てくる度に小首を傾げていると、ムクロは何かを察するように尋ねる。
「もしかして、自分がわからなかったりする?」
突然の質問に、少年はキョトンとした顔をして小さく驚嘆の声を上げた。全く思っていなかったことだったからだ。
「さっきから何一つピンとこない感じだったし、初めて見る顔だと思ったからさ。自分の名前、言える?」
そう言われて、少年は改めて思い返す。しかし、じっと頭の中を巡らせてみたが、名前が全く出てこない。
それどころか、自分が何処から来たのか、どうやってこの場所に来たのかといった、自分に関する記憶が全てすっぽりと抜け落ちたように思い出すことができなかった。
「あれ…?どうしよう…何も憶えてない…」
腹の底からにじり寄るかの如く、不安が少年に押し寄せる。自分という唯一確かな存在が不確かなものとなった途端、何を信じればいいのかわからなくなってしまった。
頭を抱えて、怯えたような表情を浮かべる少年を、ムクロが優しく諭す。
「大丈夫だよ。みんな最初はそうなんだ。だからそんなに怖がらなくていいんだよ。」
少年の両肩を掴んだムクロは、少し背の小さい少年の目線に合わすように前屈みになってみせる。前髪で見えなかったが、あの優しげな瞳がこちらをまっすぐ見つめているのが少年にはわかった。
「みんな?どういうこと?」
その時、突然の全身が痺れあがるほどの低い重低音が二人の間を抜けて轟く。反射的に耳を手で塞ぎ、音の方へ目を向ける。
少しばかり離れた場所に赤い桟橋があり、そこには一艘の船が着岸していた。船体のみしかない貧相な作りをしたその船には、沈没していないのが不思議に思う程の大量の積荷が乗せられている。その船首には、真っ黒な頭巾を被った小人が、自分の身長の3倍近くありそうな細長い笛を吹いていた。あれが音の主だろうか。
「…ちょっと移動しようか。静かな場所で話そう。」
ムクロに手を引かれ辿り着いたのは、林の奥にある小さな丘の上だった。
そこだけがえぐり取られたようにぽっかりと木が生えておらず、代わりに地面からは奥歯のような岩がむき出しになっていた。
ムクロがその岩に腰掛けると、隣においでと言いたげに岩をポンポンと叩いてみせる。若干のためらいがありつつも、少年はそれに従うように隣へ腰掛ける。
柔らかな光が体を包み、風が優しく髪を撫でて踊らせる。長く感じた沈黙に覆いかぶされかけた時、ムクロが口を開いた。
「いい眺めだろ?静かになりたい時とかにここに来るんだ」
ムクロの言葉に、少年は俯いていた顔を上げる。
どこまでも澄んだ青い空に、羊が群れをなすように白い雲が悠々と漂っていた。切れ間からは、遥か高みを飛行する大きな鳥のような影が姿を現しては隠しを繰り返す。
そんな空の下方へ目を向ける。雲のように真っ白な建物が、段々畑を連想させるように幾重にも連なっており、空に向かって伸びるその姿は、一つの大きな生命体のようにも見えた。
視線を右に移動していくと、赤い桟橋と青い海が目に入る。先程見かけた港だ。船に乗せられていた積荷は全て降ろされ、地面の上にまとめられている。その近くでは、あの黒頭巾の小人と誰かが何か会話をしているようだった。
「この街にはね、外から記憶のない人が時々やってくるんだ。」
その光景に見入っていると、不意にムクロがゆっくりとした口調で語り出した。それに応えるように、少年は小さな声を漏らす。
「どこから来たかわからない。それどころか、自分が一体誰なのかすら憶えてないんだよ。この国は、そういう記憶のない人たちが集まって作り上げた街なんだって。」
そう語るムクロの表情は、どこか物寂しさを含んでいた。その意味が、少年には理解出来ず、ただ彼の横顔を見つめることしかできなかった。
「街を作り上げたその人達は、まず自分たちを作ることから始めた。本当の自分が思い出せないのなら、仮の自分を作るしかなかったからね。その人達は、自分の得意なことを見つけ出して、それが仕事になって、名前になったんだ。」
「名前に?」
「そう。新しく名前を考えるよりもその方が楽だったし、何より憶えやすかったんじゃないかな?すごい単純な理由だけど。」
そう笑うムクロに、少年は尋ねた。
「じゃあ、ムクロもそうなの?僕と同じで、何も憶えてなかったの?」
少年の言葉に、ムクロは冷水を浴びたような表情を一瞬浮かべたが、すぐに朗らかな表情を浮かべて視線を逸らした。
「…うん、そうだよ。君と同じ。だから君の気持ちも、少しはわかるつもりだよ。」
君一人じゃない、だから安心して。そう言ってるような微笑みを少年に向ける。少年も、同じ境遇の人物がいることに安心したかのように笑い返した。
途端に、獣のうなり声のような音が鳴り響いた。その獣の正体が何であるか。いち早く気づいた少年は、恥ずかしげに俯きながら自分の腹を両腕で隠す。それを見たムクロはプッ吹き出して笑う。
「お腹、空いた?」
俯いたままに少年は頷いてみせる。すると、ムクロは立ち上がり言った。
「じゃあご飯食べに行こう。案内してあげるよ。あ、その前に。」
ムクロは持っていたカバンをまさぐり、何かを抱え込むようにして取り出し、こちらへと差し出した。
「はいこれ、君へのプレゼント。ちょっと遅くなっちゃったけど、外を出歩く時はこれを被るといいよ。」
流木のような白くしなやかな逆三角形、側頭部からは三対の羽のような突起物が付いており、左右にある拳程の穴からは、常闇が恨めしそうに少年を見つめている。
見たことのない形であったが、それが何であるか少年はすぐにわかった。
「これって、ガイコツ?」
「そう。ウジカって生き物の頭蓋骨だよ。この街の人たちはみんな、体のどこかに骨が生えているんだ。僕の角みたいにね。」
ムクロは少し頭を傾けて、自らに生えている角をみせる。
「これはいわゆる、この街の住人である証でもあるんだ。この街で暮らしていれば時期にこうして生えてくるんだけど。君はここに来たばかりでまだ生えてないからね。それまでの代わりってやつだよ。」
ムクロの手から、頭蓋骨を受け取る。見た目程の重量はなく、片手でも持てる程軽いその骨を、少年はまじまじと見た。
「これ…被るの?」
「ん〜嫌なら他のを用意するけど…ウジカの頭蓋骨が一番軽くて君の頭に合うと思うんだけどなぁ。他のものとなると重くなっちゃうし…。頭蓋骨以外だと取り外しが大変だよ?簡単に取れないように骨を食い込ませないといけないからなぁ…。」
それを聞いて、少年はすかさず頭蓋骨を頭に被る。骨を食い込ますという言葉から、少年は尖った骨を体に突き刺す様子を想像したからだ。
彼の言う通り、骨は少年の頭の大きさにちょうどいい大きさで、思いの外快適だった。
「いや、これでいいです。」
そう言った彼の頭を、ムクロは笑いながらイイコイイコと頭蓋骨越しに撫でる。
「さて、改めてご飯を食べに行こう…っと。そういえば君、名前ないね。どうしよう…仕事もないからつけられないし…かといってこのままだと不便だし…」
ムクロはひとしきり考えると、少年に振り返りこう言う。
「名前がないから、”ナナシ”でどう?名前が決まるまでの仮の名前ってことで。」
安直な命名に、少年は目を丸くした。だが、名前ができた喜びから自然に笑みが零れ落ちる。
「うん。ありがとう、ムクロ。」
ムクロは笑いながらナナシの手を掴むと、「どういたしまして。」と言い、街に向かって歩き出した。