オレとキミの世界
登校するのが嫌になる。嫌になるほどつらいのに登校拒否することはできない。そんなゆらゆらの気分を抱え込んだままオレはユーウツを形にしたように見える校門をくぐった。
下駄箱を開けると、ムカデとか、芋虫とか、すっかり見慣れた虫くんたちがわらわら這い出てきた。ちょっと離れたところから、オレを笑う声が聞こえてくる。うーん、何回目だったっけこれ。よく飽きないもんだ、理解に苦しむ。だってこれ、三ヶ月ぐらい前からずーっと続いてるんだぜ。飽きないもんかね、ふつう。
何が気に食わないのか、そこんところはオレにもようと知れないけど。とにかくオレはこの場所でいわゆるイジメの対象になっているのだった。まさか自分がこんな被害に遭うとはね。人生って分からないものだなあなんだなと、中学生ではやくも人間の在り方を悟った気分にもなる。
教室に向かってる途中でもオレの悪口を言う声が聞こえる。聞こえるけど、そっちの方を向くとすぐ黙っちゃうんだ。で、オレが前を向くとまたくすくす笑う声が響くんだな。別にいいけどさあ。キミたちって去年も一昨年もそういうことしてたのにまだ懲りないんだろ、学習してくれねえかなあ。
そうだよなあ、ここんとこ五年ぐらいずっとだもんな。学年変わるごとに担任の先生が問題にして、学級裁判? ってか、要するにつるし上げしてくれるけど、これじゃなんにも意味がねえ。……だからオレ、言わない。家族にも、優しくしてくれる先生にも。心配してくれる友達は、元から居ないし。
それにほんとうは、オレにだって原因は分かってる。さっきは、分かんないな、みたいに誤魔化しちゃったけど。ほんとうは分かってる。オレがいろいろ言われるのは、オレが「キモい」し「ウザい」し、「目障り」だからだ。そんぐらい分かる、オレだって、自分みたいなのと友達になれって言われたら断るもんな。だからしょうがない。
他人の気持ち、分かってやれないし。どんくさいし、頭悪いし。「そういうの」が居たら、ジャマだろうなあって分かるんだ。だから、オレの方から文句なんて言えない。いっつも先生に助けてもらってるのに、お礼だってまともに言えた試しがない。オレみたいなのは、みんなにのけ者にされて当然なんだ。
ごちゃごちゃ考えてたら教室についた。机に落書きしてある、今日は油性でも落とせるスプレー持ってきてるし、なんとかなるよな。オレがなんとも言わずに掃除を始めるのを見て、どこかから舌打ちが聞こえる。悪いな、この場で泣いたら面白がってくれるんだろうか。面白がった拍子にいじめの手をゆるめてくれるかも? でもそういうのはみっともないからイヤなんだ、ごめんな。
授業中はなんにもされることは無い。休みの間、トイレなんかに行って戻ってくるとカバンの中身をぶちまけられてたり、給食についてきたドレッシングとかが教科書にかかってる。さすがにトイレまでカバン持ってくのは変だし、この辺は見つかりにくいとこに置いといてどうにかするしかない。
でも最近それのせいか、キモーのくせにこすいことしてんじゃねえって殴られたりする。あ、キモーっていうのはオレのあだ名。名字が伊能だから、韻を踏んでるのかな。あれ、韻を踏むってこういう意味だっけ、まあいいや。でもオレだって困ることは困るんだし、これぐらい許してほしいな。聞いちゃくれないんだろうけど。
これだけオレにイジワルする連中だけど、全員悪い奴だとはどうしても思えない。だってさ、オレが居ないときとか、オレのことなんか眼中にもないときなんか、仲間でわいわい楽しくやってるんだ。そのときはみんなお互いのこと認め合ってて、仲良くしようって思いやって、ケンカしたってすぐにどっちか謝って、元通りなんだ。なんでオレはああいう風になれなかったんだろう。
給食の時間、机をくっつけるんだけどオレだけは離されたまんまだ。気にしない。くっついてたってオレの方が気い使っちゃうし。でも一人で食べるのは退屈だから、あたりをこっそり見たりする。みんなこれがうまいとか、食べられないから代わりに食べてよって言い合ってる。いいなあ。
そのついでに、今はそういう気分じゃないのか、オレに絡んでこないある男に目を向けた。こいつは、なんだろう、「主犯格」って奴なのかなあ。むう、よく考えたらいっつも率先して仕掛けてくるし、たぶんそうなんだろう。で、そいつが高橋ってんだけど、その高橋が隣で他の女子と言い争ってる男子になにか言い含めてる。あ、男子が女子に謝ったみたいだ。すごいな、ちょっと言ってやっただけで仲直りさせられるなんて。やっぱりみんなのリーダーってのはこうでないと。
高橋ってのはいつもこういう奴なんだ。困ってるおじいさんの荷物を持ってあげたりするのを見かけたし、小さい子が泣いてたら理由を聞いて親を連れてきたりもした。クラスがバラバラになりそうなときは一人一人の意見を尊重してまとめようとするし、だからといってマジメ一辺倒じゃない。冗談は面白いし、話してる人はみんな笑顔になる。あいつは人を幸せにするために生まれたんだって、……大げさかもしれないけど、本気で思えるような奴なんだ。
オレをいじめてるんだったら、そんなもん仮面なんじゃないかって、……それは違う。だってあいつはマジで、オレ以外にはヒーローで、理想的なリーダーなんだ。だったら間違ってるのはオレの方だ。あんなに心の優しい奴にまで否定されるんだったら、オレの存在は間違ってるんだ。あーあ、なんでオレ、生まれて来ちまったんだろう。そういうこと考えるぐらい、あいつっていい奴なんだよ。
しかし改めて見ると、あいつの周りって楽しそうだよなあ。……オレも、ああいうとこに居られたらな。あいつみたいになりたいなんて大それたことは考えられないけど、オレ、あいつの友だちになりたかった。あいつと友だちだったら毎日愉快で、なんだって楽しくてたまらないだろう。オレの方からそんなこと言ったって、「ふざけるな、きめえ」で終わるんだろうけど。ちょっとぐらい夢見たっていいよなあ。
〈おかしいじゃないかそんなのはおかしいじゃないか。だってあのころまではあいつはふつうにオレのことを認識していたしこんなことになるはずではなかった。どうしてオレはこんな目にあわねばならない。
そうだ、あいつは、あいつが、オレを〉
下校のチャイムが鳴る。オレは部活に入ってないからそそくさと帰ろうとすると、高橋から日直の仕事を押し付けられた。これ、断ったら後で引きずり出されて殴られたんだよな、しょうがねえや。やろう。オレはこくこく頷いて「やる」ということを伝えた。そうしたら「気色悪い」ってみぞおち蹴り上げられた。
なんだよ、せっかくやってやるってのに。でも蹴った本人はオレのことなんかすぐに忘れて部活の仲間と教室の外に行ってしまった。蹴られたところが苦しくてせき込んだけど、すぐに気を取り直す。仕方ない、あいつはここの野球部じゃエースなんだもんな。オレとは肩にかかってる期待ってもんが違うんだ。オレも野球好きだけど、あいつの投球には正直シビれた。たぶん、高校でも続けるし、その後だって。ひょっとしたらプロになってるかもしれない。あいつはそういう奴なんだ。
やっと帰れるようになって、オレはカバンに教科書をあるだけ詰めた。他の奴はだいたい置いて帰ってるんだけど、オレが同じことしたらなにされるか分かんねえもんな。買い替えるったって高いし、小遣いで払えないとなったら家族に言わなきゃならない。それは勘弁だ、と思いつつ、オレは教科書でパンパンになった重くてたまらないカバンをしょって、のろのろと歩き出した。
帰り道、校門からでるまでは辛い。女子がひそひそ話してるの、わざとかもしれないけど聞こえるし、後ろから首絞められて、離されたあとすぐ逃げられるし。そんなことしてる奴らも、オレに飽きると友達のところに戻って賑やかにおしゃべりしてる。うらやましいな、オレにもそんな奴が居たら、……居たら、楽しいんだろうな。
家へと続く道を早足で進む。カバンが重たいな、肩が痛いや、といつもと同じように考えていると、目の前に知らないおじさんが立ちふさがってきた。見た目は30歳か、あごひげの感じと、目じりのしわから考えるとその辺だろう。でも、鼻が高くてぱっちり二重でとてもかっこいいおじさんだ。……なのに、こんな暑い日にコートを着ているので、ものすごく怪しく見える。こういうのって、美形の無駄遣いなんじゃないかな。いろいろと無駄にしてる気がする。使う気が無いんならそのかっこよさをオレに分けて欲しい。そんなの無理だろうけどさあ。
とりあえず避けようとすると、そっちの方にカニ歩きして、通してくれない。なんだよ、大声出すぞ、って思ったけど、オレの声じゃ誰も来てくれそうにないや。諦めて、おじさんになんの用か尋ねた。
「あの、すいません……そこ、通れないんですけど」
オレが恐る恐る小声で言うと、おじさんはなにが楽しいのか、すこぶる陽気な声で返した。
「おお、キミ! 探査機にでっかい反応があったから慌てて来たんだけどさ……。すばらしいね、こんな数値が出るとは! あ、ごめんごめん。ボクの名前はえっと、……なんだったかな……、ああ! 「薄荷」でいいよ。一応そういう設定だから」
オレの言ったことを無視して、いきなりよく分からない自己紹介をされてしまった。なんだろう、馴れ馴れしいな。それに「ハッカ」だなんて変な名前だ。なんだか口の中がすーすーしそうな感じ。いや、それはどうでもいい。とにかく、どいてもらわないと。
「うん。これならいい結果を出してくれるだろう……。キミは未来の同胞候補ってことだね。しかし、こんな子どもなのにねえ。いったいなにがあったんだか、まあそれはいいか、おいおい聞くことになるだろうし」
おじさんが何を言ってるのか、さっぱり分からない。それに全然通してくれそうにないし。混乱していると、おじさんはオレの肩をぐっと両手で引き寄せた。え、これ、まさか、その、ヤバイ人なのか。怖い。声が、出ない。逃げないと。
「そう怖がらなくていい。我々はキミの仲間……、になるだろう。たぶんね。だから、ボクの目を見て、そう。じっと見るんだ。視線を逸らしちゃいけないよ。ようし、そうだ。いい子だね……キミは……」
声も出せずに、おじさんの黒く光る眼を見ていると、なんだか意識がアタマから引きずり出されるような気がして。遠のく。その一瞬に、深い深い、昏い、でも、とても心の落ち着く闇が、広がって……。
気が付いたら、家の前に居た。あれ!? 周りを見回したが、おじさんの姿は見当たらない。影になる所もよく探したが、やっぱり見つからない。ってことは、さっきのは幻、もしくは……夢? 疲れてたのかな、オレ。そう思うと、あくびが自然と出てきた。涙をこすりつつ、チャイムを鳴らしてから家に入る。しかしなんだったんだろう、夢かなんかにしては、やけにリアルだったような……。
晩御飯を食べて風呂に入って、宿題を済ませた後、今日はもう寝ることにした。やりかけのゲームも、なんだかやる気がしない。珍しいや。たまにはいいか、あんまりハマっちゃうと、目に悪いだろうし。うとうとしながらそう思いつつ、オレは電気を消してから布団にもぐりこむ。部屋にはほかに誰も居ないけど、「おやすみ」と呟いて、オレは目を閉じた。
赤い、海に沈む。赤い赤い赤い。水だらけだ。ここでは息が出来ない。苦しい、はずなのに。なんともない。周りにはいろいろな生き物がいる。海の中なのに、カブトムシみたいなの、トンボみたいなの、ハチっぽいのとか、虫がいろいろいた。みたことないのも、いっぱい。みんな、あつまって、わいわいやってる。たのしそう。おれも、なかまに、いれてくれないかな。……でも、じゃまなのかなあ。おれなんかでは、あ、そで、ひっぱられてる。
きみ、だれ? はえくん、かな? いいの? おれも、いっしょに、あそんでいいの? やった! それで、みんな、なにしてあそんでるの、おしえてよ、みんなで、いっしょにやろう。きっと、すごく、たのしいよ。
おれたち、それから。ばらばらに、された、ひとのいろんなところを、くっつけたり、たたいたり、のばしたり、して、かたちをぐにゃぐにゃ、かえて。いきたまま、ちぎったり、して、さけぶこえ、きいて。ずっと、そういうこと、して、あそんでた。みんなで、はしゃいで、ふざけて、……それは、とても、とても、楽しかった……。
飛び起きた。慌てて胸に手を当てる。心臓が、まだばくばく言って止まらない。なんて夢を見たんだ。パソコンでうっかり、首をノコギリで切られている人の写真を見たときよりも、気分が悪くなった。なんだよ、気持ち悪い。頭にぐわんぐわん響いて、吐きそうだ。でも、家族に心配かけるのは嫌だ。学校は行こう。大丈夫、救急箱からこっそり抜いた吐き気止めだってあるんだ。行ったってなんとか、なるさ。
行ってきます、となるだけ元気よく言ってから家を飛び出た。お母さんに、顔色悪いよ、大丈夫? って言われちゃったし、ほんとに不安になってきた。それでも行くんだ。大丈夫。オレはいつだって学校にはちゃんと行ってるんだ。本当さ。オレ、今ンとこ、ずっと無遅刻無欠席なんだから。ちょっとぐらい気分が悪くても平気さ。本当だ、本当なのに、胸の奥がかき回されるような、この感覚は、なんなんだろう。さっきから、目玉の奥んところがずきずき痛いのは、一体なんなんだろう。
教室に入ると、いつもみたいにじろじろ見られる。上履きを醤油で汚されてたから、ごしごし洗っちゃったのがまずかったかな、おかげで、通った道濡れちゃったし。靴の跡が残っちゃったんだな。考えてるうちに、後ろから首を掴まれる。「痛いよ」、と言っても聞いてくれないから、黙ってそのまま引きずられていく。向かった先は、男子トイレだった。
「おら、汚したらちゃんと拭けよ、おかーさんに習わなかったのかよ、……なんとか言えよ、このゴミ虫!」
周りを囲まれ、怖くてしゃがみこんだオレの鼻っ面に、高橋は思いっきり蹴りを入れてきた。思わずよろめくと、みんながどっと沸いた。顔を上げると笑い声はもっと大きくなった。
「ひ、ひーっ! 鼻血出てるぜ、面白! これ、ケッサクすぎんだろ~」
高橋の隣に居た、けっこう仲の良いらしい奴が言ってくる。ひどいな、〈こんなにオレは痛いのに〉心配もしてくれないのか。そんなの分かりきったことだけどさ。
おいこれで拭けよ、足跡残したとこをよう、と高橋が持ってきたのは、トイレ用の雑巾だった。手でつかまないように、ちりとりに乗せているそれを見て、みんなしてばっちいとかキタネーと言ってげらげら笑っていた。ひでえなあ。なんでこんなこと、と思いかけて、急にひらめいた。
なんだ、オレ、こんな簡単なことに気づかなかったなんて、バカだなあ。怪我させといて心配しないのも、他の人間にはとても出来ないようなこと平気でやるのも。……オレを、同じと思ってないからだ。自分たちと同じ、人間だと思ってないからだ。最初っからそうだったんだ。似たような見た目の、ただの泥虫だと思われてたんだ。ニンゲン扱いなんてされてなかったんだ。なんだよ、それなら言ってくれりゃあ良かったのに、そしたら。
「期待することなんか、なかったのに……」
聞こえないような声で言うと、頬を熱いものが流れてきた。そんなオレを見て、おいおい、「虫」がいっちょまえに泣いてるぜ、とみんな囃し立てる。そんなこと言うなよ。いくらオレが「虫」だからってさ、言って良いこと悪いこと、あるだろう、そんなことひどいこと言われたら、きずついちゃう、じゃ、ないか。
〈傷ついた傷ついたオレはもう耐えられないこんな世界は間違っている。オレはここでたしかに生きている。なのにこいつらはそんなことお構いなしにオレを叩きのめす。オレがなにをした? オレは生きていただけじゃないか、こんな理不尽があるものか、こいつらに正当性など無い。オレが圧倒的に正しい。こいつらは間違っている。それなら、それなら。
そうだ もう 終わりに しよう
がまんするひつようは ないんだ〉
悲鳴が聞こえた。……あれ? 悲鳴を上げてるのは、目の前の奴ら? 変だな、と首をかしげると、背後で何かがばりっと破れる音がした。背中の方を見てみると、……うわっ! オレの学ランが破けている、……なんだ、これは。
翅、が生えていた。学ランを破くなんてどんなに硬いんだ、と思わず触ってみると驚くほど柔らかかった。よく見ると、毒々しいけど綺麗な赤い模様の、美しい翅だ。蝶の翅だろうか。なんとなく額に手を伸ばすと、ふさふさしたものが生えている。蝶っていうのは触角が棒っぽい奴だったよな。ふさふさふわふわ、手触りよし。じゃなくて。これは蝶の触角ではないよな。
「ちぇ、なーんだ、蛾かあ」
言ってから立ち上がると、翅を動かせるかどうか確かめた。ぱたぱた、と言うよりは、鳥が羽ばたくように、ふぁさっという音がして翅が動いた。これ、新しいオレの体なんだ。……自分でも驚くぐらい冷静だった。周りの連中はみーんな驚いて腰抜かしてるっていうのに。
「た、助け……」
そんなことを言いながら這って出ていこうとする奴らをオレは止めない。オレ、確かに嫌な事されたけど、それで仕返しされたらこいつらと一緒ってことだもんな。そんなの嫌だよ、オレ。〈ほんとうにそう思っているのか?〉そう思って堂々と腕組みしてみたりしたが、なんだかみんな様子がおかしい。逃げる足が途中で止まって、……首根っこを押さえて、苦しがっている。
なんだなんだときょろきょろしていると、誰かに足首を掴まれた。見下ろしてみると、高橋だった。息も絶え絶えに、何かぼそぼそ言っている。しゃがんで、よく耳を澄ませてみた。
「助けろよォ……。これ、この、妙な、……鼻の奥に抜ける、妙な匂い……おめえがやってんだろう……! おめえ、が、それで、妙なモン出して、みんな、殺そうと……」
なんだって? 周りの空気をよく嗅いでみると、確かに、熟れた果物みたいな匂いがする。トイレの消臭剤にしてはきつすぎるし、というか。翅の近くで嗅いでみると、鼻がつーんとした。でも、殺そうとなんかしてないよ。なんなら助けてあげようか、仰せの通りに。〈そんなことははなから考えていやしないが〉そう思って近づいてみると、みんな体力も残ってないだろうにオレから逃げ回る。高橋も、近づく傍から必死に離れていってしまう。なんだよ、助けて欲しいって言ったのはそっちじゃないか。〈だからお前たちは愚かだと言っているんだ〉
「なんで逃げるんだよ、助けてくれって言ったじゃないか」
「し、信じられっかよ……。そんな格好で……。くそ、オレの足! 動けよ、動けよお……」
高橋が苦しそうに言っていると、離れて見ていた何人かがふらふらと立ち上がり、トイレの外に出た。見張り番をしていた奴が呼吸を止めて飛び込んでくる。殴られるかと思って身構えたが、そいつらは高橋以外を助けると、さっさと出て行ってしまった。
「おい、オレも……!」
高橋が助けを呼んだ。そうだそうだ、一緒に助けてやってやれよ、とオレもこっそり思っていると、耳を疑うような言葉が聞こえてきた。
「……やだよ」
「は?」
「なに?」
思わず、声が揃ってしまった。入口付近から、壁の向こうで言ってくる声は恐ろしく冷たかった。
「やだって、なんだ、そりゃ……」
息も絶え絶えに言う高橋に、仲間の誰かが振りしぼるような声で言う。
「……伊能はお前を恨んでるんだ。だから、こんな風になったんだ。オレたちはみんな、お前に付き合ってやっただけだ。関係ないんだ、だから……」
「お前がイケニエになれよ」
そう言って、走り去るのが聞こえた。廊下なのに、どうも全力で走ってるみたいだ。あんなに騒がしかったら先生が見回りに来るぞ、もうすぐホームルームも始まるし。オレがのん気に考えていると、高橋が今にも消え入りそうな声で、オレを睨みつけながら言った。
「……オレを、殺せよ」
「なんだって?」と気の抜けた声で答えるオレに、高橋が続ける。
「オレが憎いから……だからそんな風になったんだろ、だったら、やれよ。その代わり、他の奴らには、ぜってえ手出しするな……、破ったら、化けて出てテメエを殺してやる……」
「なんでだよ。あいつら、お前のことほっぽって逃げちゃったんだぜ?」
オレが疑問に思ったことを聞くと、高橋が吐き捨てるように言う。
「そんなもの……あいつらが、友だちだからに決まってるだろう」
友だち? この状況で、見捨てて行くような奴が? なんだよそれ。意味わかんねえよ。オレは助けようとしてるのに。お前を殺したくないのに。それなのに、お前はあんな、やつら、を……。
こめかみに、激しい痛みが走った。ずきり、と滲んだその衝撃がオレにある記憶をもたらす。そう、それは、思い出すにはあまりにも辛すぎて。いつの間にか無くしてしまっていた。かけがえのない、記憶。
〈思い出したくもない忌まわしい記憶〉
「オレはお前を殺さない……、いや、殺したくない。連れてってやるよ、外に」
そう言って近づくオレから、「やめろ」と言って遠のく高橋に歩み寄り、その上に飛び乗りまたがってみる。あは、すげえ怖がってる。可愛い奴め。
「でさあ、連れてく代わりに、約束してくれよ」
「約束……?」
すっかりおびえきって、小鹿みたいにぶるぶる震える高橋に、笑顔を作ってから答える。
〈オレはお前を絶対に許しはしない〉
「そう、約束だ」
「オレと、友だちになってくれよ」
高橋は目を見開いて、理解できてなさそうな顔になった。しょうがないな、もう一回言ってやろう。
「オレと友だちになろうぜ。そんで、ときどきは一緒に遊ぼう。きっと楽しいぜ。工作とか、探検とか。ゲームもいいよな。テーブルゲームも普通のデジタルな奴も、お前とだったらすっごく楽しいと思う」
たぶん久しぶりに、にこにこ笑っているはずのオレを見て、高橋は「お前はなにを言ってるんだ?」と言ってきた。しつこい奴だな、だからさあ。
「なに言ってんだよ、この、バケモノ……!!」
オレはそんなことを言われて、きょとんとしてしまった。
「なに言ってんだ、はこっちのセリフだと思うぜ」
そう、反射で言い返すぐらいには、不思議な台詞だった。びくつく高橋をこれ以上怖がらせないよう、頑張って優しい声を出して、オレの、思い出してしまったことを告げた。
「こう言ったほうがいいかい? オレと、「もう一回」友達になって欲しいって」
高橋の顔が硬直するのが分かった。そんなのは気にせずに、オレは続ける。
「オレたち、ちっちゃい頃、そう、小学校の4年ぐらいまでは仲良くしてたよな。今のクラスの奴は知らないか、忘れてるだろうけど。それで、いつだったっけな。4年生のとき、オレ、初めて誰かに「キモい」って言われてさあ。傷ついたよ。お前も、最初は慰めてくれたっけ。でも、……オレを「気持ち悪い」って思う奴が多数派になったとき、お前はオレを捨てた。オレを、「キモー」って言った。今思い出したよ。ひでえことするよなあ、お前。オレに言わせりゃ、こんなことしたお前だってある意味バケモンみたいなもんだぜ。なんたって、これがあんまりショックだったんで、ずっと忘れるようにしてたぐらいだしな。あはは……。しかし、これではっきりした」
〈オレはあんなにお前のことを想っていたのに〉
まくし立てるオレになにか言おうとした高橋の口を手でふさぐと、鼻と鼻がくっつくぐらいの距離まで顔を寄せ、オレはさらに続ける。
「オレがなんで、こんなにされてるのに、お前のことを嫌いになれないのか……、いや、お前のことが、好きなんだろうって! ずっと悩んでたんだ、そうだ、あの頃から好きだったんだよ、お前が! 一緒に居たくて、たまらなかったんだ、なあ! 今からでいいよ、やり直そう。お前がやったこと、全部忘れるから、許すから、だからさあ、もう一回オレと友だちになってくれよォ……。オレを、一人にしないでくれ……」
すがりつくオレを、高橋は茫然と見つめた。気持ち悪いと、思われてるのだろうか。しょうがないよな。キモいよな、こんなの。そう思っていると、高橋がぽつりと言う。
「違う……。オレは、バケモノじゃない……。お前みたいなのとは、違うんだ……」
それを聞いて、オレは嬉しかった! なんだ、それだけか! オレがこんな見た目になっちゃったから、驚いてるだけなんだ。そうか、それならいいや。……オレがこんなのになったのは、たぶんあのときのハッカおじさんのせいだ。どうやってやったんだか、分からないけど。そこはほら、本能みたいなのでやってみよう。
オレの頭の中、変わってしまった部分に、集中する。どうすればいい、どうすれば、高橋はオレと一緒になる? ダメ元で聞いてみたら、意外なことに答えが返った。「そうだな、キミの場合は……」なんだかあのときのおじさんに似ている声だ。「うん、キスでもして、あとは、……自然とうまく行くだろう」キス!? 高橋と? 毒が回ってるせいか、意識がはっきりしなくなってきた高橋を見つめ、考える。
高橋のことは好きだけど。でも、キスって、そりゃあ……。顔を見つめた。整っていて、いつも女子から騒がれてるよな。近くで見るとまつ毛も長くて、本当にきれいだ。そんで、その、くちびるが……。見た途端に、頭に血が昇った。なんてみずみずしい、おいしそうな。〈喰らいついて噛み千切ってしまいたいほどの〉そう思うのと一緒ぐらいに、オレは、自分の唇を高橋のそれに押し当てていた。
いくら意識が飛びそうっていっても、高橋は気付いたらしい。激しくオレを押しのけようと抵抗してきたが、オレは高橋の体に思い切り抱き着いて押さえつけ、離れようとする唇に吸い付いた。少し硬いけど、弾力がちょうど良くて、このままいつまでも触れていたい。けど、触れてるだけじゃ、ダメなような気がする。
そう思うと、のどが急に苦しくなった。それでも口と口を離してはいけない気がして、のどからせり上がる「何か」を我慢していると、それはオレの口の中まで這い上がってきた。なんだろう、これは……舌で押す感触は、管に近かった。管って、蝶とか蛾の口、みたいな奴かな。これを、どうするんだ。そう考えているうちに、どんどん管が伸びていく。
そのうち、オレの口ごしに、高橋の口の中に入って行ってしまった。それが伝わったのか高橋が暴れようとするが、動きはすっかり鈍くなっている。どうやらオレの鱗粉は麻酔みたいにもなってるらしい。良かった。あんまり痛いことはしたくないからな。そうしていると、管は高橋の口の中を一直線に進み、のどの奥に辿り着いた。のどの感触がざらざらしていて、気持ちいい。……じゃなくて、もう行き止まりだけど、これからどうするんだ? そう思っていると、管の中から、更に細い管が出てきたのを感じた。その細い管も、さらに奥へと進んで、……何? それは、どういうことだ? だって、もう、管は奥にくっついて、その奥って言ったら、なあ!
のどを、貫いているってことじゃないか! オレはとっさに「やめよう」としたが、もう、体が言うことを聞かない。細い管が進んでいく、そして、「なにか」にくっついたそのとき、オレの首筋、……いや、首の中に、細いものが伝うのを、感じた。これ、は、どうしたってんだ。だって、入れているのが、オレなのに、首が、びりびりして、膝が、震える。これは、高橋と……。考えながら、首の中、絶対に触れられない部分を、細い管が這う感触に、オレは耐え切れずに震えていた。
高橋と、繋がってるんだ。オレは、そう感じていた。高橋がされてること、伝わってるんだ。全部入ってくるんだ、オレの中に。……嬉しいな、それなら、どんな、ことでも。首の奥から、電流が走るような、感覚が、たぶん、入っちゃいけないところまで、上がって行くのを、ただ、高橋と分かち合っていた。
体が、首から融けていくと錯覚しそうなほど、熱い。針のような、熱のかたまりが、オレたちの首の中、そうだ、これは、背骨の中を! ずるずる、蛇みたいに上って行って。背骨の、神経を、撫でるように、優しく、ア、これ、は。あたまの、なかに。あつくて、ほそい、なにかが、おくに、つきささる。ア、からだが、ぜんしんが、しびれて。あたまの、なかを、かきまわされる。そのたび、ア、アア。ひがでる、ような、これ、きもちいい。きもちよくて、がまん、できない。ア、そこ、は。だめ、だ。そこまで、いったら! もどれ、な、い……。
「アアアアア!!」
……目を覚ますと、トイレの床に横たわっていた。背中の翅は、もう消えてしまっているようだ。伸びをしてから起き上がると、傍らに、あのときのおじさん……、ハッカさんが立っていた。
「目が覚めたようだね」
微笑むハッカさんを見て気が緩んだオレは、つい「おはようございます」なんて返してしまった。笑われてしまったが、ちゃんと「おはよう」と返してもらった。人は見た目で判断しちゃダメだな、すごくいい人じゃんか。
「ハッカさん、オレはいいけど、高橋の方は……」
まだ目覚めてないのが心配で聞くと、ハッカさんは高橋の方をじいっと見て、「大丈夫だろう」と言った。オレはほっとしてため息をつく。
「んん、と言ってもね。キミの方はすんなりいくと思ってたけどな、……こっちの子まで適合するとは予想外だったな」
オレがどういうことだろうと思って聞いていると、ハッカさんは更に続きを話してくれた。
「このね、手術、……そこまでたいそうなことじゃないけどね。これ、上手く行くかどうかってのは、その人が「変わりたい」ってすっごく思ってる場合に限るのよ」
「変わりたい?」オレの言葉に、ハッカさんは「そう」と肯定する。
「変わりたいってのはなにも、ヒーローに変身したいとか、そんなんじゃなくてさ。今の自分とは違う、「なにか」になりたいって、そう強く願ってる人だけが、変われるんだよ」
「そうか、オレ、ずっと高橋の友だちになりたかったんです」
ハッカさんの言葉に納得し、自分の願いを打ち明けた。ハッカさんは一回頷いて、「きっと叶うよ」と言ってくれた。
「適合したってことは、こっちの子だってなにかしら変わりたいと思ってたんだろう。なら、それが君とどうにかなりたいって願いでも不思議じゃ無いさ」
にっこり笑ってそう言われると、なんだかこっちまで嬉しくなってきた。
「ま、そうじゃなかったとしても、これからはどの道仲良くしなきゃならなくなるしな。……それじゃ、積もる話はまた後にするとして。ここは一旦帰ろうか」
オレは、その言葉にはっとした。ハッカさんが言う帰る場所。そこはきっと、オレの……家族が居る家じゃない。ハッカさんはオレの不安を分かってくれたようで、ちょっとだけ悲しそうに頷いた。
「……それでもいいです。どこへでも連れて行ってください。高橋も一緒に」
言うと、ハッカさんは「そうこなくっちゃあな」と言って、先に行こうとする。オレが高橋を抱きかかえると、ハッカさんが代わりに連れて行ってくれようとした。だけど、オレは手で遮った。「すいません、オレにも意地ってものがあるんですよね」そう言うとハッカさんは、「それなら、離すんじゃないぜ」とだけ言ってくれて、ありがたかった。オレもいつか、こんな風になれるかな。
「この辺の人間は寝かしといたから、ちょっと派手に飛んでも大丈夫だろう。じゃ、行こう。キミも……、飛べるさ。なんたって変わったんだからね。昔のキミじゃない、新しいキミに。改めましておめでとう。ようこそ、こちら側へ。僕たちは君を歓迎するよ。今後ともよろしく、な」
微笑むハッカさんに「はい!」と勢いよく答える。飛ぶ前に、気絶している高橋に耳打ちした。
「愛してるよ……これからは、ずっと一緒だ」
言って、高橋がわずかに震えた気がするのはおそらく気のせいだろう。
その日オレは、空を飛んだ。これまでの人生を全て捨てて、飛んだ。オレの目の前にはすばらしい道が広がっている気がして、胸がわくわくした。そうだ、これからはどこへだって飛べるんだ。オレの、この世で一番好きな人と一緒に!
〈これでオレの復讐は完遂された。これからはもっと楽しいことをしよう。なんせこれからのオレはどこへだって飛んでゆけるのだから〉
『××日午前、未確認生物が飛翔している姿を捉えたという速報が入った。目撃したという住民によって写真が○○市近郊で撮られるが、そのどれもが未確認生物の姿を映し出すことが出来なかった、これはいったいどういうことだろうか。○○市一帯の人々が一斉に集団催眠に掛けられていたとでも言うのだろうか……。謎は深まる一方である。もしかしたらその未確認生物は、認識されていないだけで、我々のすぐ近くに潜んでいるのかもしれない……そう、あなたのすぐ近くにも……』




