奇縁な繋がり、現れたり。
愛敬 疾風は出勤早々、自身のデスクで覗き込むように身を屈めてパソコンに文字を打ち込んでいた。画面にあるのは、書類。彼が担当している事件についてだ。その事件の内容は、全く不可解なものであり、非常に奇妙なものであるが、そんなものよりも彼は、先刻彼女から聞いた発言に心が奪われていた。
ぎぃっ、と椅子が軋む音がした。一九〇cmで筋肉質の大男がもたれたせいで、まるで悲鳴を上げているかのようにも思える。だが、愛敬の耳には届いてはいなかった。
彼女が言った"例のアレ"。彼にとっては今現在、この職に就く理由にもなったそれが関係しているともなれば、我慢するのは無理な話であった。
思い浮かべれば、三つの変死体と、真っ赤に染まった視界。
左の目が疼く。どうしようもなく、燃えるように。脳髄すらをも抉られたかのように感じてしまう幻痛が、彼を襲う。だが、もはや慣れたその痛みは、彼にとっては運命づけられ、そして自身で決めた道の再確認にしかなりえない。
――同時に、影が見える。あの、どうしようもない、人の形をしたナニカが。口が裂けたかのように思える程に大きい口で笑みを浮かべる、どこまでも優しく、どこまでも残酷なナニカが。
記憶の海に沈もうとしていた。が、それは部下である女性の声によって引き止められた。
「巡査部長、浅井警部から連絡が。聞きたいことがあるとのことです」
浅井警部。ベテランであり、妻子持ち。何度か事件の捜査で一緒になったことはあるが、互いの名前を知り合う程度で深い間柄ではない。何かがあると、そう判断した。
「……あぁ、分かった。すぐに代わる」
突き出された受話器を受け取り、耳に当てた。
「もしもし、代わりました」
『あぁ。浅井だ。愛敬巡査部長、聞きたいことがあるのだが、時間は大丈夫かね?』
「えぇ、大丈夫です」
『そうか。単刀直入に聞くが、――君、何故弐久町の事件についての資料を集めていた?』
愛敬は、一瞬体を硬直させる。それは思考の為のものである。――言っていい人間か、駄目な人間か。詰まる所、"知っている"か、"知らない"か。
そして、その判断の果てが、
「文化庁護国課からの要請です。なんでも宗教犯罪が起こっているだとかで」
どちらとも取れる、曖昧な回答をした。"知っている"ならばこの発言の意味を正しく理解できるだろうが、"知らない"ならば額面通りにしか理解できないだろう。
果たして、どちらなのか。
『宗教犯罪? 弐久町にカルトなんかあるのか?』
「自分は詳しくは知らないので断言はできませんが、そう言っていられましたし、そうなのでしょう」
発言からして、"知らない"ということなのだろう。
『犯罪の内容は聞いているかね?』
「誘拐や失踪といった行方不明者についてのものです」
淡々と返答する。同時に、何故この件が知られているのだろうか、と疑問が湧く。
『行方不明者だと? 詳しく教えてくれ』
@@@
弓子はノートパソコンの画面に映し出されている文字の羅列を目で追いながら、コーヒーカップを口元に寄せていた。
見ているのは、弐久町で発見された水死体について。発見されたのは一昨年の夏であった。海水浴に来ていたカップルが、隠れられそうな場所を探す為に岩場の進入禁止のロープをくぐり抜けて少し歩いた、それこそ地元住人でも行かないような場所で発見したという。水死体はほぼ腐っており、酷い腐臭がして、その損傷の酷さから死亡してから何月、何年経ったかも分からないそれは、おおよその体格と、何度も刺されたナイフの痕しか分かることはなかった。
表向きには、だ。
上記の一切は、表面上の検査結果である。解剖して、分かったこともあった。
弓子は思わず眉を側める。その原因は、口の中に広がるコーヒーの苦さか、それとも書かれてある事実か。
デジタルな文字が、冷静に、冷徹に、ただ事実のみを表記している。だというのに、手が震わしながらこれを打ち込む人物の姿が、容易に思い浮かべられた。
コーヒーを飲んだばかりだというのに、口内が乾きだしているのを感じながら、あまりにも荒唐無稽で、だに彼女達が知る真実はそれを笑わせてくれはしない事実を口に出す。改めて、認識するためにも。
「『頭蓋骨に破損はなく、しかし人間のものではなく魚のものに酷似している』……か」
それだけではない。歯の形状、体の骨格、内臓器官、更にはエラのような器官に水かきと、体中に魚のものに変わる症状、いや、奴らは症状とは言わない、進化を見せていた。
この衝撃的な事実に目を覆いたくなり、、頭痛が起こる。これだけでなく、"例のアレ"すらも関わってくるというのだから、初めて任される個人出張にしてはあまりにも荷が大きすぎやしないだろうか、と内心で吐き捨てる。彼女の現在の状態をはっきりと言えば、もう家に帰って日常に戻りたくて仕方がないのが正直なところで、吐き気すら催してきていた。
他の資料を見ても録なものがない。麻薬反応のあった死体や、銃殺された死体。日常とはかけ離れ、通常でも見つからないような、奇異なものが多かった。だというのに、そういったものへの捜査は途中で打ち切られている。
「ここ、本当に日本なんですかねぇ。どう考えても世界でも上位の法治国家じゃ起きない事件ばかりじゃないですか……」
はっきりと断言できる、汚職の形跡が見えてしまった。穏便に、完全に隠れないように隠している辺り、上層部に汚職を行った人物がいると考えられる。まさか信じていた組織が汚れていただなんて、想像していなかった。
考えることを放棄したくて堪らない頭を使いながら、今後の予定を考える。まずは、上司の篝に連絡を取り、増援、及びに担当の入れ替えを頼むべきだろう。次に安全な場所を造り、短時間による連続的な弐久町の探索。そして集めた情報をまとめて、後任の担当者に渡す。完璧である。
スーツの裏側に縫い付けてあるポケットから、一つの巻物と、一つの、鎖のついている、細かく模様が刻まれている小さな板状の鉄塊を取り出し、確かな口調、確かな音量を以て言葉を放った。まるで、ここにはいない誰かを起こすかのように。
「――Call.」
巻物を留めていた金具を外し、地面に転がす。そこに書かれていたのは、凡この世のものとは思えない、しかし規則的に書かれている文字の羅列であった。 それを見ながら、またもや内ポケットから瓶を、透明でありながら、ドロドロと粘着質な液体状のものを取り出し、蓋を開ける。すると直ぐに部屋は、あの独特の匂いが広がった。油である。
彼女は蓋を投げ飛ばし、迷いなく指を突っ込んで濡らすと、それを片手に持っていた板状の鉄塊へと塗り付けた。
するとどうだろうか、その鉄塊は突如として神々しい光を放ち始めた。その光は邪悪を打ち砕かんとするような、人々が思い描き求めるような、そんな神の後光のようであった。
光は部屋中の全てのものを照らし、共鳴するかのようにあの巻物に書き込まれていた文字すらも光り始める。
「――Call.」
同じ発音にして、違う意味を持つ単語を語る。同時に鉄塊――否、護符の光が、激しいものへとなった。正しく、光の奔流と言った様であった。まるで物質化したかのように感じられる光が、彼女にぶつかる。しかし、それは決して痛覚を訴えるものではなかった。まるで、彼女を護るかのような、そんな暖かさが宿った光。
そして、それに心地よく感じながら、光が弱まるのを感じた。見れば、光は薄れていき、そして遂には光なんてものはなくなっていった。しかし、その小さな護符はまるで大きな存在であるかのように感じられる。
正しき第二召喚が、ここに成った。
弓子はそれを確認し、巻物の中、四角形が重なり合い出来た八芒星の中、円の中にそれを丁寧に置く。
「これでよしっ」
そう満足げに言って、彼女は立ち上がり、仕度を始める。何かに背を押されているかのように、先ほどの態度とは丸っきり変わって。
突如、弓子は誰かが笑ったような気がした。それは果たして、微笑みか、ほくそ笑みか。彼女には分からなかったし、分かろうともしなかった。それよりも、調査が重要に思えたから。
上司への連絡を、すっかり忘れさせられていた。
@@@
『――ということだ、堀井君。もしかしたら今回の事件はカルト教団のものかもしれない。とは言っても、物騒なものには変わりはないがな』
黒い受話器から聞こえてくる、高齢に差し掛かる中年の声を聞きながら、堀井はメモにペンを走らせていた。
彼が事務所で新聞を読んでいた時、突然かかっていた電話は先日連絡したばかりの浅井 源次郎警部からのものであった。曰く、自分と似たような事件を探している人物がいるらしい、と。聞けば、反社会的宗教団体などの監視し、犯罪の防止を目的とした組織の公人であるようだ。
ふむ、と呟き、ペンを置いた。
「情報提供ありがとうございます、警部。ところで、そのカルト教団の名前はご存知ですかな?」
『いや、それは分からない。しかし、中々危険なカルトではある。銃器、麻薬、これに加えて今回の誘拐か。しかも警察との癒着の可能性もありときた。全く、時に信仰の力は暴力団よりもタチが悪い』
「いやはや、全くその通りです」
溜め息を吐く声を耳にした。浅井の心労は余程深いものと見える。
堀井はニヤニヤと笑いながら、浅井の言葉に相槌を打った。すると浅井は、途端に声の調子を変えて堀井に話し始める。
『しかし、これは異常だな。かの護国課はどうやら証拠を掴んでいるようだが、このカルトの存在が警察内で知られていないというのは。例え警察には知られないほど念入りに計画されていたとしても、あの厄介な麻取すら騙し通してきたとは、尊敬の念すら覚えてしまう。いや、例えそうだとしても、銃器のどこから仕入れたというんだ? まさか、それこそ弐久町の港からか……?』
「有り得そうですが、どこから仕入れるというんですか。流石に海上からの密入国は無理でしょう」
『まぁ、そうなんだがな』
唸り声を聞きながら、机上に置いていたスマートフォンが震えるのを見る。どうやら電話のようだ。ディスプレイに映し出されている名前を見て、笑みを深めた。
「警部、少々用事が出来てしまったので、失礼します」
『あぁ、気を付けたまえよ。まだ借りは返しきれていないからな』
彼なりの心配の言葉を聞き、では、と声を掛け、受話器を戻した。同時に、片方の手で取っていたスマートフォンを耳に当て、口を開いた。
「久しぶりだな、先の冷凍死体事件以来か。あの時の借りを返して貰っていないぞ」
『抜かせ、私の情報がなかったら貴様は死んでいた』
「まあまあ、この話は後にしよう」
一旦言葉を区切る。同時に、歓喜にも似た感情が、彼の胸中で渦巻いていた。
「それで、一体何のようかね――篝 慎二君?」
『依頼だ――堀井 仁』
――面白いことになってきた。静かに、堀井はそう思った。