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心身の痛みに堪え、質問に答える。

誠一(せいいち)君、本当に大丈夫かい? 昨日の夜、あんなに血を出していたのに……もしあれなら病院に言った方がいいんじゃないかい?」

「いえ、大丈夫です。昨夜はご心配おかけしてすみませんでした。もうすっかり元気ですから、えぇ、大丈夫ですとも。……お金貸すから病院行け? いやいや、お金なんて借りれませんて、ホント。お金の貸し借りで不味いことになったもんで。えぇ、えぇ、お気持ちだけ貰っときます。んじゃ、俺も仕事の面接があるんで、はい、お邪魔しました」


 ガチャリと確かに音を立てて閉まった扉を数瞬眺めて、一息吐く。心配をかけまいとした心労のようなものであろうか。多々良(たたら) 誠一は実のところ、頭痛に苛まされていた。

 昨晩、いつの間にか頭から出血していた多々良は、家に帰って治療をしようと考えたものの、残念ながら治療道具は持ってなんかおらず、しょうがないので大家である老夫婦の元に道具を借りようと行ったのだ。すると彼の傷を見た老夫婦は彼以上に騒ぎ(それは心配によるものであったが、当時は迷惑以外なにものでもなかった)、手厚く看病してくれたお陰かで大分病状は良くなった。しかし傷口が痛いというものではなく、その内側が――そこで、不自然に思考が停止した。正確には、彼自身がそれ以上の埋没に恐怖を感じたからである。考えてはならない、思い出してはならないと、ほかでもない自分自身の脳が拒否し、警告を発していた。

 ガリガリと、頭を掻く。一瞬の不快な痒みが、頭皮を走った。


「昨日といい今日といい、俺はどうにかなっちまったのかな……」


 どうにもこの感覚を紛らわせたくて、独り言を小さく吐き捨てる。

 今だけで精一杯だというのに、未来が果てしなく暗い。強烈に、その思いが心を重くしていた。日々の生活費の働き口すらない男の考えだとは、到底思えない贅沢な悩みであった。

 進める足が遅くなる。気怠い症状に襲われ、体中に何かが伸し掛るように感じられた。

 もう何もかもを投げ出して自由気ままに生きるのもいいかもしれない。そんな魅力的な考えが湧き出る。実際、それをしようと思えば何時でも出来る状態にあるのが現実である。何も養わなくてはならない家族がいる訳でもないのだから、誰の迷惑にもなりはしない。はっきり言ってしまえば、今の状態だってそれに近い。ただ、働こう、働こうと苦になる方向しか考えていないだけである。

 だが、それでいいのだろうか。それすらも投げ出して、なんの目的もなく、ただ生きるだけの、人の形をしただけの肉に成り果てて。それで自分は人間であると、堂々と言い切れるのだろうか。

 ――思えば、自分は何故働いているのだろうか。何故生きているのだろうか。

 呆然と、それに思考が行き着いて、考えるのを止めた。生きるのを、まだ止めたくなかったから。



 @@@



 三十分ほど経って、漸くバイト先がある弐久(ふたぐ)町へとたどり着いた。ここまで徒歩であり、ここからもう十分ほど歩く予定だ。自転車が欲しいと改めて感じた。

 足に疲れを感じながらも、歩みを止めずに進もうとすると、肩に何かが置かれた。


「すみません、少しの時間よろしいですか?」


 後ろを振り向けば、中年の男。無精髭にボサボサに伸びている髪。不潔な印象を初めに持つが、よく見れば深い彫りと鋭い目つきを持つ、格好良い中年であることが分かる。

 咥えているタバコを上下に揺らして紫煙を躍らせながら、懐に手を入れて一枚の紙を取り出す。そこには『私立堀井探偵事務所 椎名(しいな) 史明(ふみあき)』と黒い字があった。


「探偵の椎名というものです。少しばかりお話をお聞かせ願いたいのですが」

「はぁ、いいですけど、それでお話とは」


 探偵である、ということは取り敢えず分かったものの、話とは一体何だろうかと頭を傾げる。特に自身が関係する所で事件や事故の類はなかった筈だ、と考えながら返事を返す。それを感じ取ったのか、椎名という人物は煙を撒くように顔の前で手を左右させる。


「別にあなたが事件に巻き込まれた、というものではないのでご安心下さい。聞き込みというやつですよ。この辺りで失踪事件というのがありましてね」


 はぁ、と気の抜けた返事を返し、「でも俺、この辺りには住んでませんよ」と断りを入れるが、「えぇ、それでも構いませんから」と言われる。

 多々良はその発言に違和感を感じた。地元の人に聞いた方が多くの情報は集まる筈なのに、そうでなくても構わないということに。それは時間の無駄ではないか。それは当然の考えであり、それをその道のプロが思いつかない筈はない。

 そんな多々良の疑惑も露知らず、椎名と名乗った男は話を続ける。


「この写真の夫妻に見覚えはありませんか?」


 そう言ってポケットから取り出された二枚の写真。それぞれには、五〇から六〇手前といった男女が一人ずつ映されていた。その黒く日焼けした肌と、普通の人より少々顎と唇が前に出て、それに釣られて顔が斜めに出ている、魚を思わせる骨格。しかし、それは少し探せばたくさん見つかるような、特徴的ではあるがどこにでもいる人であった。記憶を遡って考えるものの、似たような人物が2、3人思いつくが、結局はこの写真の人物とは一致しない。


「うーん、見覚えはありませんねぇ」

「そうですか。ご協力、ありがとうございます」

「いえ、お力になれなくてすみません」


 そう一礼して、多々良はその場から離れた。

 振り返れば、この瞬間が彼を騒動に巻き込んだ決定打であったのだろうが、この時は誰もそれを予知することは出来なかった。



@@@



 椎名は呼び止めた青年の後ろ姿を見ながら、煙を吐いた。


「彼、だと思ったんだけどなぁ」


 感が外れた、と飲み終えたコーヒーの缶にタバコを放り込む。

 他の探偵業者や警察が彼の聞き込みの光景を見れば、幾つか彼の失敗を指摘するだろうが、大きな問題点として二つ。一点目は、先に多々良が感じたように、地元の住人ではないというのに行った質問。これはあまりにも無駄な行動であるのは素人目でも確かなことである。二点目に聞き込みの際の質問数の少なさ。大量の質問は相手の迷惑になるし、こちらの情報を纏める際に邪魔になるだけだが、しかし少なすぎれば事件解決の鍵は見えてこない。しかも今回の多々良への質問数はたったの一つ。これにはあまりにも無理がある。

 これだけでも、十分に彼が行った聞き込みが明らかに聞き込みにすらなっていない、お粗末なものだと断言できるものだ。それでも、彼の事を知る者ならば断言する、それで十分だと。

 椎名が新しいタバコを取り出して、火を付けようとすると、「椎名さん!」と、若い青年の呼び声がする。藤谷 大輔だ。彼の手には白いビニール袋があり、雑誌が頭を出していた。


「椎名さん、買ってきましたよ」

「どうも」


 口数少なくその袋を受け取ると、タバコを箱に戻し、真っ先に菓子パンの封を開いて食べ始める。止まることなくパンを食べ、あっという間に無くなっていく。


「何度見ても椎名さんの食いっぷりには驚きますわ……」


 それを見て、藤谷は素直な感想が漏れる。確かに、まるでパンが消えていくようなその光景は目を疑いたくなるようなものである。口に咥えながら押し込むように食べるのではなく、千切って口へと放り込むように食べる方法で消えていく様を幻視させる彼の早食いは、そうそう目にかかれるものではない。


「そうでもない。誰でも時間の重要性というのを身に感じれば、こうなっていくさ」


 そう呟く彼の瞳は、まるで遠くを見るようなものであり、しかし近くを見るようなものでもあった。

 そうしている間にも、彼は袋から情報雑誌を取り出して、読み始めた。


「それじゃあ藤谷君、後の聞き込みよろしく頼むよ」

「え、もう上がりですか。珍しいですね、いつもは終わっても張り込んだりするのに」


 藤谷の声に、微笑みながら椎名は答えた。


「堀井君に休めって言われてね。嫁さんにもこれ以上家族サービスが貰えないんだったら仕事辞めさせるともね。しょうがないから、今日は午前中に上がらせてもらうよ」

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