淑女の悪夢/警察官の驚嘆
「なーんでこんな辺鄙なところに送られなきゃならんのですよー」
そう呟くのは篠山 弓子。まるで僻地へ左遷されたかのような、ぐったりとした疲れ顔でバスに揺られて移動していた。手元のスマフォはすでに電池切れ間近であり、持ってきた小説はすでに読み終えてしまっている。だというのに一時間近くすることがない。一応勤務中なので寝るのは不味い、なんて真面目ぶる。ということでぼやく他やることはなかったりする。
幸い、彼女の周りには誰も座っていないからいいものの、もし誰かが聞いていたら怒られてもしょうがない呟きを発した彼女は、窓の外に目を向ける。なんの変哲もない光景が、ただ流れていく。これだけでも、分かったことがあった。外を見ていても暇潰しになんかなりやしないということだ。
(つまらないー、圧倒的につまらない。これなら事務仕事のほうがよかったかも)
はぁ、とため息を吐いて、でもやっぱり事務仕事はいやだなぁ、と考える。
バスは揺れる。揺れて揺れて揺れて、いつの間にか眠たくなってきたのを弓子は感じていた。
(あぁ、眠っちゃ駄目だ眠っちゃ駄目だ眠っちゃ駄目だ……眠っても良いや)
そうして彼女は呆気なく自身の意識を手放した、視界と思考が段々と黒に染まっていくのを感じながら――
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――狂気の光と正気の闇。
敢えてこの光景を形容するならば、それ。
秩序の闇を、混沌の光が引き裂く。光に陵辱された闇を見た。世は光を秩序のものと見立て、闇を混沌と判断するというのに、それが正しいと思ってきたのに。彼女は直感でそう感じ取った。同時に、疑問が浮かんだ。その常識は正しいのか、と。
――不確かな道の上にいた。道は続く。前にも後ろにも。だから、彼女は進んだ。停止することが、何故か許せなかったから。
人は、美しさに正義を求める。己を正当化しようと、欲望に意味付けをする。醜い精神を、美しい容姿で覆い隠す。
あの光は、正しくそう。醜いものを消し去ろうと躍起になり、寧ろ一層と浮き彫りにする光。混沌を生み出す正義。その光が、己から発され、そして他から浴びせられているのを幻視した。いや、もしかしたらそうであるのかもしれない。それは人が通る道であり、自身もその上を歩んだのだから。
ならば闇とは何か。
それは本性である。欲である。生きるということである。
――その果てに、彼女は見た。ゆらゆらと浮かび、こちらを睨めつけるナニカを。不定であり、形が定かではないナニカを。人か、動物か、魚か、虫か、道具か、風か、雲か、水か、――それとも化物か。
人は欲を醜いとし、しかし受け入れずにはいられない。生きるとは欲の受諾であるのだから。
闇とは、生き物であった。その在り方であった。全ては欲を内包していた。秩序に順ずる欲望。それを確かに光の内側に感じ、他からも、幾つも感じれた。当然であった。生きていて、それを感じたことがない人間など、生物など、この世に存在しない。
――非難の視線。その視線は、自分を嘲笑っていた。何故笑うのか、分からなかった。何故嘲笑を受けなければならないのか、分からなかった。だからか、視線は己の体に当てられた。
あぁ、と彼女はそう呟いた。声が漏れた。それが引き金だ。自覚が生じた、生じてしまった。
――私は、こんなにも――
自分の体、自分の魂、それら全てを感じている。精神がそれを受け入れていた。想いは、止めどを知りえない。理性とは光だったのだ。良心とは闇だったのだ。
――こんなにも、汚れていた――
光が己を斬った。闇が己を穿った。我の肯定は、出来やしなかった。
矛盾な邪悪が、彼女を嗤った。
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目を開ければ、昨晩見た光景があった。即ち、天井である。
篠山 弓子は寝過ごすことなく、無事に目的の駅で降りることができた。そこから寝起きの頭を一生懸命に使いながら街を探索。どこにでもありそうなビジネスホテルにチェックインし、今現在に至るというわけだ。
ごろりと寝返りを打って時計を見れば、デジタルな数字が午前の六時二十三分と映し出していた。起床には早いが、二度寝には遅すぎる。微妙すぎる時間に溜め息を吐きながらも、仕方がないのでゆっくりと上半身を起こした。あー、と言葉にもならない声を発声させ、霧散している意識を収束する、彼女なりの朝の習慣に入る。二〇秒経つか経たないかして、発声を止めて立ち上がる。向かうは洗面台。一先ずシャワーを浴びることとした。
弓子は下着を脱ぎ捨てて、裸体を晒す。遠慮なく晒されている肉体は、六つに割れている腹筋や余計な脂肪の付いていないところから、健康的なものであり、良く鍛え上げられていることが一目で分かるものであった。
蛇口を捻り、40度程に調節されたお湯が、彼女の全身に降りかかる。直ぐにバスルームは白い湯気が立ち昇り、視界を遮った。身に染みるその熱を全身に受けながら、今日の行動計画を建てようと頭を悩ませた。
彼女が出された仕事内容は、久豆市を中心に最近起こっている幾つかの怪事件の調査であった。
M県の久豆市はそれほど規模は大きくはない。臨海していて大きな漁港があり、それなりに大きい山もあり、湿地帯があってそこには沼があったりと、地学者にも興味が持たれている特質な土地柄を持つものの、特産品といった類のものはなく、観光がそれなりに多い街だ。人口も少なくはなく、しかし多すぎるというわけでもない。田舎というには発展しており、都会というには活気がない。その特徴的な地形以外には、特に取り柄というものはない。
だが、そんな久豆市には一つ、平凡とは言えない要素があった。
あまりにも怪事件の類が多いのだ。
不可解な死因、連続殺人事件、謎の失踪事件、集団記憶喪失、突如として起こる精神疾患。あり得なさそうな幾つもの事件が、何度も当たり前のように起こっているのだ。
狂っている。それらの事件を専門としている彼女は、そう感じられた。異常を常としているからこそ、初めて訪れたこの街の狂気が身に染みる。それを必死に洗い流そうと、湯を浴びているというのに、浴びれば浴びるほど、拭いきれない汚れを意識してしまう。止めたくとも、空気に同化しているナニカから清潔を保ちたいが故に、止めることができない。
ただ一晩寝ただけだというのに、少々特殊である彼女の体質が余計なものまで感応してしまった。
歯軋りが耳の奥で聞こえた。どうしようもない何かに対するストレスが、行動に現れたのだ。
表面上は真面目ぶってはいるが、彼女はそんな質ではない。適度な真面目と不真面目のサイクルを構築し、ストレスを溜めないようにしている彼女だからこそ、不真面目を挟む余地がないこの土地は嫌いであった。
溜め息を吐く。自分の掌を見た。
到底、好きにもなれそうにない。
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朝食を食べ終えた弓子は久豆市警察署へと訪れていた。とは言っても、着いたのは二十分ほど前であり、受付に案内されてからというものの、今の今まで待たされているというのが現状である。
いい加減待つのに飽きた弓子が独り言を言おうとした時、ノックと「失礼します」と声が部屋の中で響いた。
扉が開いて入ってきたのは、目を引くような男、半袖のYシャツを着た大柄な男であった。一九〇センチもの長身に、女性の胴ほどある腕に、それに見合うほどの胴体。こんがりと焼けた黒い肌、太い眉毛に坊主の頭。ここまででも十分に目を引く体育会系の男であるが、それに加えて額から左眉を通り、顎を通り抜ける3つの深い爪痕。両腕には鋭利な刃物に切り裂かれたかのような細い傷がいくつもあり、終いには弾痕すら幾つか見当たる。はっきり言って、警察と紙一重で知られるその筋の人にしか見れなかった。
「待たせてしまってすみません。如何せん手が離せないものでしたから遅れてしまって」
外見通りの声を持って意外にも紳士的な対応を取るその男は、そういって手に持っていた書類の束を机の上に置いて、一礼する。
「初めまして、巡査部長をしております担当の愛敬 疾風と言います」
愛嬌じゃなくて、威圧の間違いでしょ。疾風どころか壁じゃない。思わず弓子は心の中でそうつっこんだ。
あまりの外見と名前のギャップに、体を震わしながらも、「文化庁護国課の篠山 弓子です」となんとか返す。
両者ともに安そうなパイプ椅子に座り、話に入る前にやり切れない感情をなんとか押さえ込む。
「要請通りに、関連のありそうな事件の概要はこれらの紙媒体に用意させて頂きました。データ媒体にも纏めようと思ったのですが、あなた方専門家から一通りに見てもらってから必要なものだけの情報を貰う方がいいと前任の前畑さんからそう言われていたので、勝手ながら今回もそのような方法を取らせて頂きましたが……今からデータ媒体を準備しましょうか?」
「いえ、この方法で大丈夫です。ありがとうございます。我々のほとんどがこの方法ですから、今後以降もこれでお願します」
素直に感謝の意を言い、弓子は建前ではあるが、事件簿を読み進めた。彼女の行動を数秒見て満足したのか、愛敬は「では仕事がありますので」と言い、立ち上がろうとする。
だが、それを弓子の発言が止めた。
「愛嬌さん。今回の事件も、例のアレが関わっているとこちらは考えております」
ピクリと、まるで一瞬で時が止まったかのように愛敬は行動を止めた。いや、時を止めたという表現は正しくない。彼女の発言と共に、瞳孔が見開き、充血を始めた。
しかし、一瞬の停滞の末、それに反して目を細め、静かに両の肘を机の上に置く。
「詳しく、お願いします」
「えぇ、勿論ながら」
内心、弓子は彼の獰猛な視線にびびりながら、口を開いた。
「前任の前畑さんが異動になったのをそちらに報告ましたが」
コンクリート張りの部屋が、蝉の鳴き声と車の通行音でいっぱいとなる。
「――実のところ、殉死です。死因はショック死とされましたが、死体は胴だけが無い状態で発見されました。胴はいまだ発見されておりません」
狂気を感じさせる羽音と怠惰なエンジン音の中、それを併せ持つ声が発せられた。
「発見場所は弐久町。第二のインスマスと呼ばれる、穢れた血統が蔓延る地です」