彼らにとって、奇妙とは通常であった。
カランカランと、扉に付けていたベルが鳴った。その方向に顔を上げれば、一人の女性。顔立ちは整っており、静かな美しさがあった。体の線は出るところは出て、引くところは引いている、モデルのようなものであった。
しかし、それを台無しにする、黒い隈が刻まれている。よくよく見れば、肌は貧血のように青白く、やつれ細っている。まとう雰囲気はどうしようもなく沈んでおり、彼女の周りだけ暗くなっているように見れた。
それを見て、一番奥のデスクに座る男が声を上げる。
「ようこそ、堀井探偵事務所へ」
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接待室に連れられた女性、山井 優子の格好は清楚なものであった。青の花柄が所々にある白いワンピースにジーパン。白いポシェットを持っており、握っている左手の薬指には簡素な金の指輪が嵌められていた。
「どうぞ、お座りください」
そういって着席を促すのは、所長である堀井 仁。一九〇cmあるかどうかの長身痩躯であるが、猫背であるために本来の身長より小さく見られる。髪は短く切り揃えられているが、坊主というほどではなくて逆立つように整えられている。見た目にはその身長以外には特徴という特徴はなく、しかし人を見る目がある者ならば、その瞳の奥にある狂気のような好奇心は、一見にして気付くかもしれない。
その隣には頭一つと言わずに、三つ四つほど小さい幼い少女、のような女性、名ばかりではあるものの、副所長を務める伊木 心がいた。この私立堀井探偵事務所の創設時からいた所員であり、その性格は真面目ながらも明るく、非常に可愛らしい顔をしている。しかしそれだけでなく、一応ながら看護師免許を持っていたりする。
そんな二人を前にして、山井 優子は「失礼します」と小さく言ってソファーに腰をかける。
「では、どのようなご依頼でしょうか」
そう切り出すのは、やはり堀井。手にはペンを持ち、テーブルの上に置いてあるメモ帳にその先を当ててある。
「その、ここはおかしな依頼を専門にしていらっしゃると聞いて来たのですが……」
しかし帰ってきたのは依頼の内容ではなく、体を縮こまらせ、途切れるかのように小さな声で、堀井に問いかけであった。
「そうですね、私「達は普通ではない依頼を専門に承っております。聞いたということは、どこか違う場所でご相談されたのですか?」
「えぇ、近所にあった探偵事務所です」
「そこでここを紹介されたと。成る程、では私達専門の依頼でしょう。
ご安心下さい。そうであるのならば、私達は決して拒否はしませんとも。えぇ、ご約束できます」
ニコニコと、堀井は不自然なほどに上機嫌な様子でそう答えた。場違いにも程があるような、そんな表情。不謹慎と言ってしまえばそれまでだが、それ以上に違和感を感じさせるものだ。しかし、それでも、山井は笑顔を浮かべた。『本当に良かった』と。
「あ、ありがとうございます……!」
「いえ、仕事ですから」
山井は感極まった様子で、泣いてしまっていた。それほどまでに追い詰められていたのだろうと、心はそう考えながら、慣れた様子で山井の背中を撫でる。ゆっくりと、落ち着かせるように。
数分して、漸く彼女が落ち着きを取り戻した。「すみません」とそう言いながらハンカチで目元を拭く。
「見苦しいものを見せてしまって……」
「いえいえ、それほどまでに追い詰められていたのでしょう? ならば仕方がありませんとも。
――では早速、依頼の内容をお聞きしても?」
「えぇ……あの、荒唐無稽なお話なのですが、本当にあったのです。わたしは、確かにこの目で見たのです」
彼女はポツリポツリと口にし始めた。
「わたしは久豆市の弐久町で両親と夫とで住んでいるのですが、そうです、海に臨いているところです。
先月の第二水曜日に、ゴミの収集日でしたので母とゴミを運んでいたのですが、その近くでうろうろしている人を見かけたのです。別にそれだけだったらいいのですが、その人から海の匂いがしたんです。浜で嗅げるよなものじゃなくて、海の、そう深い匂いなのです。わたし達からでも海の匂いだとすぐに分かるほど、とても濃い匂いでした。
漁師やサーファーの方かと思ったのですが、近所でも見かけない方で、なので他の所から来た人だとその時はそう思っていました。
でも母が、その人がすぐに誰だか分かったようで、名前を読んだんです。その呼ばれた名前は、十年前に引っ越した、近所に住んでいた人の名前でした。でも、私には全く分からなかったんです。それこそ別人のように変わられていたんです」
「しかし、それはあまりおかしな話ではありませんよね。十年と言ったらそれなりの時間ですから、人が様相を変えるには十分な時間じゃないですか。それに、記憶だってあやふやになる」
心がそう言うも、山井は顔を左右に振って、否定を示した。そこにあった表情は、恐怖に近い不快を示すそれ。
「そんな生易しいものではなかったんです。いくら様相を変えると言ったって、それでも限度というものがあります。その限度を超える代わり映えだったんです。最早、面影という面影は瞳と髪の色だけで、声も、肌の色も、顔の形も、それこそ骨格すらも変わっていたんです。
でも、母はその人が誰だか分かって、とても気色悪くて……確かに十年も経っていたら記憶だけでは間違いかもと思って、後でアルバムを開いてみたんです。確かめてみたんですが……やはり、わたしが感じたのと同じでした。全くの別人になっていたのです。
それで、その人と再開した時に、会話をしようと思ったのですが、とても訛っていて聞き取ることすらできませんでした。弐久町はそれほど訛ってはいない地域なんです。母も普段は訛っていないんです。その人だって、訛っていなかったはずでした。そのはずなのに、母も、その人も、とても訛っていたんです。
唸るような声で会話していて、とても言葉になってないのに、途中で笑ったり悲しんだりしていたので、なんとなくは感じ取れたのですが、その場では会話が成立していたんです。
なんだかとても気分が悪くなって、それでわたしは先に家へ帰ったんです。そしたら、その日は母も父も家を出て帰ってこなかったんです。いつもは連絡をくれるのに、それすらなくって。それでも、お酒が入っているからかも、と思ったんです。
でも、次の日も帰ってきませんでした。流石におかしいと思って、夫と一緒に警察署へ行ったんです。その時は真摯に対応してくれたのですが……その人の名前を出した瞬間に、突然対応が変わったんです。いきなり対応がその、否定的というか、大丈夫だから帰れ、っていうようなものに変わっていって、それで追い出されるように……」
そこまで言って山井は、くしゃりと顔を顰めて嗚咽が漏らし始めた。
「そ、それで、わた、わたし、なに、をしたらいい、いいのか、お父さんも、おか、お母さんも帰らないで、う、うぅぅ――っ」
彼女の泣き声が、接待室に響く。心は慌てずに、山井を優しい言葉で宥めにかかる。
そんな中、やはり堀井は場違いな笑みを浮かべていた。屈託の無い笑み。喜びの笑みを浮かべていた。今にも笑い声が漏れそうな、あまりにも不謹慎この上ないもの。
先にも言った通りに、ただ不幸を笑っている、というところで話を終わらせてはいけない。彼がここまで喜びの中にあるのは、彼女の不幸ゆえではない。
堀井の異常な好奇心、それが彼を笑みにさせていた。現実では有り得ないようで、しかし確かに存在する奇怪な出来事に、怪異な存在に、彼は未知に飢えた心を躍らせる。
「分かりました、分かりましたとも」
ニッコリと、人当たりの無い笑みを浮かべながら。
「その依頼、承りました」
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山井が事務所から帰ってから、堀井は上機嫌なままに事件の状況を考えていた。それに、心は水を指す。
「ちょっと仁、あの態度は無いでしょ。ずっとニコニコ笑って」
頬を膨らませ、事情聴取時の態度に対して注意をし始める。確かに、あの態度は普通ではなかった。怒鳴り散らされても文句の言えないものだった。しかし、
「別にいいだろ、そんなどうでもいいこと。俺は依頼さえ受けさせてもらえばいいの」
ニヤリ、と不敵に笑った。ペン回しをしながら、心に向かって言う。
「そしてあんな依頼を受けるのはここだけ。寧ろクソ丁寧に対応してるんだから、それだけでいいだろ」
「だからってねあんた、常識として人としての最低限の礼儀ぐらいは弁えなさいよ」
心のその言葉を聞いて、堀井はハッ、と鼻で笑い飛ばした。馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに。
「常識? 人としての最低限の礼儀? 何言ってんだよ。俺らが今からやり合う奴らにそれが通じるってんならやってもいいさ」
ニヤニヤとしながら言葉を繋げる。
「通じるか? ――通じねぇよなぁ、普通に考えりゃよ」
「はぁ、ああ言えばこう言う……」
心はその言葉を聞いて、頭を抱える。あったその時から、こういう性格だとは分かっていたというのに、何年間も同僚として付き合っているというのに、未だに慣れはしない。よくここまで付き合えたと、心は内心で自分を慰撫する。
「なんか今日の所長は機嫌がいいと思ったら、依頼が来たんですね~」
そうおっとり言いながらデスクにお茶を置く女性。名前は桜庭・W・ローラ。主に情報収集を担当する。髪は金糸のようで、瞳は碧眼であり、典型的な西洋の美人といった女性である。機械に強く、ネットを介した情報収集などの為に雇われた所員だ。
「というか、ここまで機嫌がいいってことは、またヤバイやつなんじゃないでしょうね……」
「その通りよ、藤谷君」
「まじっスか。あんなの、もう懲り懲りですよ」
そう肩を落とすのは、藤谷 大輔。顔立ちは整っている方であり、所詮ホストのような軽く見える男であるが、実際のところヘタレであったため、そのような進路は見出すことが出来なかった。身長は平均的であり、体つきは程々に鍛えられている。少々特殊な生い立ちの為に、周囲で最も安全であろうこの事務所に身を寄せる年若き青年である。
「諦めなさい、懲り懲りするからあの馬鹿は受けるのよ」
「うへぇ、俺のSAN値がゴリゴリ削られていくぅー……」
因みにオタクだったりする。さらに追記するならば、SAN値とは正気度のことであるため、中々に危険なことを発言している。
桜庭は一人ひとりのデスクにお茶を置いていくものの、一つを手にとって、ふと疑問を口にした。
「あら、そう言えば椎名さんはどこかしら?」
「おっさんなら簡単そうな依頼に行っているぞ。確か屋根裏になんかいるから見て欲しい、っつう依頼だったな」
「この間、簡単な依頼だって言っておいて、椎名さんに害虫退治に行かせてなかった?」
「あぁ、所詮虫だし何とかなったみたいだぞ」
「椎名さん、青い何かを服にぶちまけてましたよね? 絶対に虫じゃないと思うんですが……」
きっと、この事務所で一番の被害者であろう椎名 史明を入れた五人が、この私立堀井探偵事務所の総所員である。
「つうわけでテメェら、今回の依頼について説明始めるぞ。手元の資料を見ながら聞けよー」
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「ローラ、警部に連絡を。意見を聞きたいと言ってくれ」
「はい、分かりましたわ」
社員への説明が終わると同時に、堀井はそう桜庭に指示を出し、自分の机に広げている弐久町の地図に視線を戻した。
弐久町。日本有数の漁業が中心の町だ。水揚げ量が多く、大きな漁港も存在する。しかし、年々その量は少なくなっているのが問題視されているのは、時々ニュースにもなる。理由は漁師の高齢化だ。県もそれをどうにか対処しようと漁業組合や町への呼びかけがあるが、うまくいっていない。
何故なら、弐久町に漂う雰囲気にある。町全体に漂う磯の匂いと、定住しようとする余所者を嫌う風潮がその町にあるのだ。その匂いといったら強烈であり、慣れない者からすれば直ぐ様離れたいような匂いで、平気な者でも町民の冷たい視線だったり、嫌がらせ、陰口なんていうのに耐えられずに直ぐに皆引っ越す。
しかし、それが原因で人口が減少し、今まで入り込めなかったチェーン店の進出が進んでいるのもまた事実である。
一通りの情報を脳内で思い出しながら、全貌を見る。
弐久町の海に面している箇所は漁港を除いてある程度の距離に斜度がある。区間の作り方を見れば、風が通りにくそうな作りであるのが分かる。この町に臨する海水浴に初めて行った時、町の中が非常に湿度が高く、とても不愉快な気分になったことを思い出す。
思えば、風通しが悪いというのに、何故内陸部さえも磯臭いのだろうか。磯の匂いは風で運ばれなければ、何で運ばれたというのだろうか。
組合わないピースに、ニヤリと笑みを浮かべる。自分の知らないナニカがある可能性がある。それだけでも彼がこの事件に熱意を向けるのは十分であった。
まだ何かないかと再び地図に意識を戻そうとした時、桜庭から声がかけられる。
「所長、警部に繋がりましたわ」
「そうか、受話器をくれ」
「はい」
手渡された受話器を耳に当て、「お久しぶりです、警部」と声をかけた。彼の耳に聞こえてきた声は、中年と壮年の中間といったぐらいの男性の声であった。
『何だね、また可笑しな事件か?』
「その通りですよ、警部。今回は謎の行方不明者です」
『この街はどうかしている……』
「今更泣き言を言ったって、なんの解決にはなりません。私からすれば、解決よりも未知の方に気が取られるのですがね」
『そうだった、君もどうかしていたんだ』
「それよりも、弐久町であった行方不明者の事件の報告書を準備して頂けないでしょうか。出来れば引越し先で行方不明になった事件も頂ければ嬉しいのですが」
『前者は可能だが、あの町の雰囲気からして後者は全てとはいかない。少ないだろうが、出来るだけ可能な限り集めておこう。私が正気の内に君への多大な恩を返さなければ、おちおち老後が過ごせん。死後も取り立てられそうだ』
「流石に私もそこまではしませんよ。何時頃伺えば?」
『弐久町だけであれば明日、引越し先もとなれば、ある程度の量を集めるには最低三日かかる』
「それで結構。感謝します。では三日後に」
『あぁ、一刻もこの街を正気に戻してくれ』
ツーツー、と電子音が鳴る。桜庭に受話器を投げ渡し、地図に意識を向けた。光のせいか、海の部分が一層青く見えた。