不幸な彼は、夜中の公園にいた。
多々良 誠一は不幸な部類に入る人間だ。両親を幼い頃に無くし、親戚は彼を孤児院へ預け、孤児院の院長は良いとは決して言えない人柄で、ようやく孤児院から抜け出せたと思ったら労働基準法のろの字もないブラック企業を引き当ててしまい、孤児院以上に辛い生活を送る羽目になり、ようやくテレビが買えたと思ったら不景気でリストラ。高卒である多々良を雇ってくれる会社なんてなく、今の今までバイトで食い扶持を稼いでいたものの、そのバイト先もなんと一斉に閉店することになったのだ。これを不幸と言わずになんというのか。因みに、テレビは一週間後にはコンセントが抜かれてある。
家に帰る気にもなれず、まだ二十歳になっていない彼は煙草や酒といったストレス発散方法は使用できない。これといった趣味もなく、ただストレスが溜まるだけであった。
ギィコギィコと錆びたブランコを揺すりながら、外灯一つの、小さな公園を見渡す。子供の姿どころか、多々良以外の人間の姿は一つとてなかった。強いて言うならば外灯や自販機の光に群がる虫ども以外には、生物という生物は存在しなかった。
「はぁ、どうすっぺ……」
真夏の暑さと将来の心配による、気怠さや不安、心労といったものをその一言に全てを込めて、一気に吐き出す。
顔がよかったり女の扱いが上手ければヒモになれたかもしれないが、平凡な顔で生まれてこの方女に恵まれなかった彼にそれを要求するのは酷というものである。まさに八方塞がりである。
なんとか借りられていたアパートも老朽化が進んで、再来月の末には取り壊しが決まっている。オーナーが老後の生活のために始めていた為に格安であったのだから、文句の言いようがない。それどころか、偶に差し入れでカレーやらなんやらと食事も分けてもらっていたのだから、今までの感謝の礼を言うべきだろう。
冷えピタ代わりに使っていた飲みかけのジュースも、もうすっかり温くなっていた。Tシャツは汗で肌に張り付いて不快感を与える。それがまた、彼を嫌にさせる。気分はもうどん底に近い。寧ろめり込んでいる、割と深く。
例えバイトが見つからなくても、今ある金額だけならば今月一杯までならなんとか持ちこたえられるだろう……そうだと信じたいし、努力する。努力しなければならないのが現実である。食べられる雑草を探したり、モヤシを栽培したり。スーパーのセール? そんなのに頼れるほどの金額すら持っていないのが現状なのだ。
ジュースなんて贅沢品、もうしばらくは飲めないだろうなぁ、なんて考えながらチビチビ舐めるように飲む。温いが美味い、美味くてしょうがない。味が付いているなんて。涙が出そうだ。
どうしようもない現実から、多々良はジュースで逃げる他なかった。
努力の成果とも言える自宅が、再来月にはなくなってしまうという現実から逃げたくて。熱気の篭る部屋より、夜風がある外の方が涼しい、と無理くり言い訳をして逃げて。ジュースを飲み切ったら家に帰る、と心の中で呟いて。しかしどうしようもない喉の渇きに逆らえなくて。ゴクリと一気に飲み干して。
空になったペットボトルを目の前に持ってくれば、それ以上に虚しいものがないように感じてしまう。
公園内にある水飲み場でペットボトルを洗って、水を満タンに入れる。貧乏性が全開であるが、これも彼が生きる上で必要な節約術なのだから、笑えない。
とは言え、これほどまでに追い詰められたことは過去に一度もない。もはや未知の領域へと足を踏み入れているのだ、と新大陸を開拓せんとする冒険者ばりの気概を持って、どのように立ち向かおうかと頭を悩ませる。正確には悩んでいるのではなく、頭痛に悩まされている、と言ったほうが正しいだろう。
だが、そこで違和感を感じた。ピリピリとした、無視できるようで、でも決して振り払えない、頑固にこびりつく違和感が。
ただの人間には気付くことすらできないそ違和感を、感じてしまった。そして、多々良はそれを認識してしまった。逃げられやしなかった。
頭の中で、頭蓋の内で、痒みを感じてしまった。チリチリとした、そんな生易しい違和感ではない。柔らかい脳みそを、それこそ引き裂いてまでも掻きたい衝動に襲われるほどの、酷い痒みを。いくら頭を掻いても、違和感が取り除けない。そのじれったさが、また一層腕を忙しなくさせる。
だが、それは本当に痒みなのだろうか。実際、頭痛が酷くて視線の焦点が定まらなくなり、熱さから出る汗から、冷や汗へとその性質が変わっている。
「い、ぎぃぃ……」
狂気を思わせる、人ならざる唸り声が聞こえた。
周りを見渡す。その光景に変わりはない。生き物は、蟲か己だけ。
……違う、違う、違う! 自分はあんな声を出せやしない! どこかに何かが隠れているに違いない。
そう思いたくて、そう思い続けても、声は聞こえてくる。
「イギ、ギギギ、グギィィィ……」
どうしようもならない痒みによる狂気が、脳の中で喚いている。叫んでいる。確かにここに居るのだと。
ガリガリガリと、一時も止めずに、疲れすら感じずに、ひたすら腕を動かす。頭から何かが垂れてくるのを感じた。嫌に生暖かい、液体状のものだ。頭から、何かが吹き出している。
一瞬の正気に、左手を目の前に持っていく。赤黒いもの。血であった。
「ひっ」
喉を震わせ、恐怖を感じた。一体自分は何をしていたのだと。幸か不幸か、その原始の感情が、狂気を覆い隠した。
「お、俺は一体何を――」
……さきほどまでしていたというのに、彼は自分が行ったことをすっかり忘れていた。でも、それはしっかりと彼の脳内に刻まれていて、その証拠は頭皮にあった。
「は、早く家に帰って手当しないと……」
思い出そうともせず、何かから逃げるかのように、ふらつく足を止めようとせず前に出して駆けていく。駆け足の音が公園に響いて、そして消えていって、そして彼と入れ替わるように、無人の公園に、人間の形をしたものが入ってきた。
体全体を黒い布で覆い隠し、微かに見える肌は、灰色で湿っている。その布のから見える二つの眼光は、妙に大きい。追い風が吹く。瞬間、公園が悪臭に染まる。腐った魚が発するそれ。深い海の香りだ。
公園に入って、辺りを見渡すが、無論誰もいない。唸るような声、否、音が響く。声というにはあまりにも人間から離れていた。聞く者がいれば、そこには多少の喜色が混じっていたのを感じられるだろう。
ピチャピチャと音を立てながら歩き、さきほど多々良が使っていた水飲み場に近づき、カモシカのような、水かきが異常に発達した手が、懐から何かを取り出した。
それは、子供の頭と同じくらいある大きさの、柔軟性があり、発光する球体。鼓動のような、ドクッドクッと波打つように伸縮を繰り返している。
それは、その球体を蛇口の近くに持って行き、水を濯ぐ。数秒し、それをまた懐に入れて公園を出て行った。悪臭は、公園に蔓延ったまま。