恋愛なんてしたことなくて
恋愛なんてしたことなくて、私はいつも楽しそうに彼氏の話をしてる遠くの女子たちがスゴく羨ましかった。
高校も1年と4ヶ月目に入り、鬱々とした空が窓際の席から嫌でも見れた。制服も夏服になり、可愛くない藍のスカートを短く着て、テスト間近の数学Ⅱの授業を受けていた。
バカみたいにマジメな私は、ノートに確りと書き写し溜め息も吐かないで下らないことを考えてしまった。
テスト前でストレスが溜まっているのか、少し苛立っていた。いや、欲求不満とでも言うのだろうか。
私は意図せず見えていた外を見た。雨が降りそうだ。珍しく寝坊してまったので天気予報なんて見てなかった。朝は晴れていたのに。
「はい、川崎さん。この問題解けますか」
「はい」
名前を呼ばれたので立ち上がり黒板に書いてある、それは簡単な方程式を私はすらすらと解き、前に出て解くこともせず、その場で答えてしまった。
そう、気持ち悪がられるのだ。私は当たり前の事をしているのに、こう圧倒的な知識を紡ぐというか放つというか、とにかく見せつけると、一瞬で白い目を向けられる。
私は座った。誰も話しかけてくれないここで、私はただシャーペンで黒板に書かれていく事をひたすらに、それ以上にノートに書いていくことしかできないのだから。
降り始めた。
なにも気にせず降る雨。
私の目の前でカーテンのようにヒラヒラとなびいている。
最悪だ。今日はお母さんが遅くなるから早く帰って夕食を作らなければならないのに。
駅まで10分以上はある。でも行かなきゃ。
一歩足を出した時だった。
「川崎じゃん。傘忘れたの?」
不意に後ろから声が飛んできた。あまりに久しぶりに声をかけられたのでどうしたらいいかわからなかった。
一先ず振り返った。
久しぶりに会った。1年ぶりだと思う。委員会で、一緒だった黒木くんだった。委員会でしか話さなかったから、さらに驚いた。
「女が体冷やすもんじゃないだろ。傘いるか?」
黒木くんは用意していたビニール傘を私に向けて柄を差し出していた。
「わ、悪いよ。忘れた私がいけないのに」
顔を反らして無愛想にそう呟いた。
そしたら急に手を掴まれ、無理矢理握らされてしまった。
「じゃ、明後日も雨らしいからその時に返してくれよな」
笑顔のまま、雨のカーテンを突っ切って行ってしまった。
私は持たされた傘を見た。きっと新品な傘だろう。だって、値札がまだ付いているのだから。525円。意外と高いんだな。傘って。
そう思いながら10分くらいその場に立っていた。
心臓が苦しいほどに鼓動しているのだ。
ビニール傘なんて使ったのは人生はじめてだった。なんせ必ず折り畳み傘くらいは持っているからだ。今日に限って抜いてきてしまった。
ついていない。
ついていないのに、なんでか、気分はふわふわしていた。
初めての感覚。いや、小学校高学年に患ったインフルエンザ以来だと思う。なんだか、そんな風に思考が回っていない。なんでだろう。熱なんかここ三年間36度6分を越えたことない。
あぁ、なんでだろう。明後日が楽しみだった。
予報は外れた。
翌日、にわか雨の予測さえされてなかった暑い1日。
今、稲妻さえ轟々と降る下校時間。雷がおさまったら帰ろうと思っていた。
誰もいない図書室で、ゲーテの詩集を読んでいた。唯一の趣味であり、リラックスできる時でもある。
傘は持っていたけど、なんかしらの理由をつけて詩集を読んでいたかったのだ。
まさか、ここで出会うなんて予想もしていなかった。
「あ、川崎さん。こんなところにいたんだ」
不意をつかれたとかそういうのではないけど、目の前からかけられた声に私は高く叫んでしまった。慌てて本を閉じ、机のしたの膝の上に隠した。
「ゲーテ読むんだ。スゴいね」
「いや、別に」
趣味なんだ。なんて言えなかった。また気持ち悪がられるから。
「あのさぁ、迷惑じゃなかったら勉強教えてくんねぇ? このままだと夏補習に来なきゃいけなくなりそうだからさ」
困った。勉強はできる方だが、教えることはしたことない。しかし、両手を合わせ、深々と頭を下げている人に、教え方が下手だからなんて答えてよいものだろうか。いや、バカには教えたくないと思われてしまうかもしれない。
深く勘繰り過ぎていたのはわかっていた。でもこう考えなければ、私は破滅してしまう。
「教えるの下手かもしれないけど、それでも良いなら、いいよ」
「ホント!? よっしゃ! じゃぁ早速さ、」
黒木くんは私の言葉に笑顔を溢して、直ぐに私の隣に座り、数学の教科書を開いた。
「授業まったくわからねぇんだ。最初っから教えてくれない?」
「……」
教科書を20ページ戻し、私はルーズリーフをカバンから取り出した。
「まずは、これだけど……」
その日から始まった。勉強会という名の、二人っきりの時間が。
私はおかしくなってしまった。二人でいることが、ゲーテの詩集を読むのと同じくらい、幸せを感じているのをわかってしまったからだ。
たまに触れる手と手に私は度々動揺し、それでも先に進める。
練習問題の正解率の低さといったらもう笑うしかなかった。
そんなこんなで6時になったのに気がついた。
「あ、こんな時間……」
「あ、ごめん。もう帰ろっか」
残念そうな顔を黒木くんは見せた。
「今日はありがとうね。また、明日もお願いできる?」
「……うん」
よっしゃ。強くガッツポーズをする黒木くんを見ていたら思わず笑ってしまった。
「川崎さんに笑われた」
「ごめんなさい」
謝ったが、笑いが収まることなかった。
そんな7月4日の出来事だった。
帰りは一緒に帰る。まぁ外はまだ明るかったので怖いとかはなかったが、なんとなく一緒に帰りたかったのだ。
「川崎さんってあまり喋らないよね」
その言葉に私は無言を返した。
「もっとしゃべった方がいいよ。綺麗な声なんだし、かわいい顔してるし」
そこまで言われると急に恥ずかしくなった。
「別に喋らない訳じゃない。喋る人がいないだけ」
そうなのだ。結局は嫌われものなのだから。
「違うよ。川崎さんが喋りかけようとしないだけだよ」
言っていることがわからなかった。私は普通に生活しているし、普通に生きている。
「川崎さん、自分周りに嫌われてるって思ってるでしょ。これは俺の直感だけど。そうじゃないよ。川崎さんが周りを嫌ってるんだよ」
そんなこと、ない。
そんなことないと思いたかった。
みんな大嫌いだった。
私は父がIT企業の幹部で私もその会社に来いと言われているくらい、私は束縛されていた。
だから、高校受験に失敗したとき、私は父に捨てられるのではないかと怖れた。
案の定、あの日から今日まで声を聞いていない。
必死だった。まだ名誉挽回も、汚名返上もできると思っている。
そんなときに、三人くらいの女子たちが、一緒に遊ぼうと、ふざけきった口調で言ってきたのだ。
『勉強したいから』
そう言って断り続けた。そんな気分になれるわけがない。なかった。
「川崎さん。顔色悪いけど大丈夫?」
考え過ぎで私は脂汗さえかいてることに気が付かなかった。
「平気。いつものこと」
「どっかで休んでく?」
「早く帰らないと門限に間に合わない」
そう言って私はなんの変わりもない歩行で駅に向かった。なんの変わりもないように歩く努力をした。
帰りの電車は路線が違った。私は山手線で新宿まで出て、そこから中央線快速に乗り満員電車のなか三鷹を抜け武蔵小金井で降りる。
最近変わったな。
ふと思った。
最近線路側上がって踏み切りが消えたし、
ホームが1つ増えたし、
南口を見れば、探さなければ見つからなかったカラオケが、青い看板を背負って人を呼んでるし、
緑地の赤い文字で安価ヨーロッパ風料理を提供するレストランに、
最近できた大きくはなっていない文化会館、
そして、2駅いかなければ近場になかった、せんぶあんどあいと名前が変わったのかよく知らないデパート。
全てここ数年で出来上がったものだ。まだ工事中のような開けている場所はそのうちロータリーとかにでもなるのだろう。
前あった商店街も半分ぐらいがこれにより消えたが、今では遊びに来る人が少なからず増えた気がする。そのうちまた変わるだろう。
そんな町並みを見て私は足早に自宅へ向かった。門限ギリギリなのだ。
連雀通りを警察署とは反対の方に曲がり商店街が切れる場所のマンションに入った。急いでオートロックの扉を開け、一階一番奥の部屋にノックをして入った。
「ただいま」
運動音痴な私はこの短い距離を早歩きで歩いただけで息を切らしていた。
近場の時計を見ると19時を2分過ぎていた。あぁ、怒られる。
そう思ったが、飛んできたのは母の声だった。
「夕飯出来てるわよ、早く来なさい」
私は不思議な気分になり黒い24.5cmのローファーを脱ぎ、靴棚に入れて軽く薄い木地のスリッパに履き替えた。
進まない足取りでゆっくりとリビングに向かうと、そこには父の姿がなかった。
「よかったわね。お父さん、今日は飲んでくるって」
カバンを隅に置き私はボソッと、手を洗ってくる、と言って洗面台に向かった。
手を確り水で濡らし、今時珍しい固形石鹸を泡立て指の間、爪の中まで洗い泡を洗い流した。乾いたタオルで水分を拭き取り、アルコールを噴きかけた。
そのままリビングに戻り、母と対面する、いつもは父が座っている場所の椅子に腰をおろした。父の体重増加を感じるようなクッションのフカフカしなさといったらもはやお尻がいたくなりそうなくらいだった。
「さぁ、いただきましょ」
母はそう言うとお箸を持ちまずお味噌汁を丁寧に持ち上げ啜った。私も真似をするようにお味噌汁を啜った。どうやら今日は油揚げのお味噌汁らしい。
空いていたお腹に温かなお味噌汁は体に染み渡るような感覚を押し付けてきた。ホッと息をついてお椀を置いた。
「今日はどうしたの? 雨は直ぐやんだはずよ」
そう言ってご飯を一口口に運んだ。
返答に悩んだ。黒木くんという男の子と誰もいない図書室に二人っきりで勉強していたなんてとてもじゃないけど言えなかった。
「どうしたの? 好きな人でもできたの?」
思ってもみない言葉に私はご飯を喉に詰まらせむせる。すぐさま戻ったため母の言葉を否定しにかかる。
「そんなわけないじゃん」
「そう言うってことは意中の人でもいるんじゃないかしら?」
大変楽しそうな笑顔だ。母も老いてなお女なんだと思わされる。
「そんなんじゃない」
「じゃぁなんでいつもは門限に余裕で帰ってきていたのに、今日は門限を越えたのかな?」
不覚にも母も結構やり手の人だったことを忘れていた。故に、騙すことを諦めた。
昨日からの出来事をある程度かいつまんで話した。
話終えたら喉が渇いたので味噌汁を口に運ぶ。
「ふぅーん。その子のこと好きなんだ」
好き、その単語が当てはまるなんて考えもしなかった。意識すると身体中が熱くなってきた。
「別にそんなんじゃ……」
「からかってるわけでも、ダメだって言ってるのでもないのよ」
そう切り出して肉じゃがの人参を口に運んでいった。咀嚼し飲み込むとさらに続けた。
「恋は女を強くするの。例えそのことで孤独になっても、肉親に見放されても、愛す・愛されるだけで人生に立ち向かえるの。貴女はきっと、今、なにかを感じるかも知れないし、そのことで恐怖が生まれるかもしれない。でも、自分の信念と感情は蔑ろにほってはいけないわ。貴女の人生は貴女が築き、作って色を塗らなければいけないのだから」
諭された気がした。母がどんな人生を歩んだのか知りたかった。でも昔から、想い出は易々と人に語るものではない、と流され続けたためにまったく母の学生時代なんて知らなかった。
「さぁ、ご飯冷めちゃう前に食べましょう」
母は少し冷めた食べ物を鮮やかに食べ始めた。
私も納得がいかないまでも、自分の感情に素直になれた気がした。
でも、黒木くんは私のことを好きなのだろうか……。
翌日、にわか雨の予報が出ていた。私は青色の大きな傘と一昨日貸してもらったビニール傘を持って学校に向かう。
玄関で黒のローファーを履きドアノブに手をかけた。
「門限は19時よ」
不意に後ろから飛んできた言葉だった。私は振り向き、笑顔だった母の顔に私は笑顔を返した。
「うん。わかった。行ってきます」
何故か足取りは軽かった。黒木くんに会えると言うだけで私のテンションは上がっていた。
朝早いと言っても満員に近くなっていく中央線快速の左側のドア付近に乗り、途中武蔵境で一度降りてドア付近をキープする。
新宿での乗り換えも、エスカレーターに一番早く足をつけさっさと登りきり右に曲がる。
山手線も乗りなれたもんで、ささっと右側の椅子に腰をおろした。
最寄り駅。通う高校の生徒でごった返す改札を私は容易に抜け、無意味な緩い坂を上っていった。
「っあ!! 川崎さん!」
見つけるのは早かった。いや、見つかったのがだが。声のする方に顔を向け、その顔を確認した。と同時にいらないものまで確認してしまった。
「おはよう」
「お、おはよう」
「駿平って川崎さんと仲よかったんだ」
学校でミス東野と言えば知らない人はいない、学校一美人の女性が黒木くんと一緒に歩いていた。私とは比較してはいけないほどの、人気者だった。
「あぁ、最近やっと見つけて、勉強教えてくれてんだ」
「へぇ、バカだもんね駿平は」
「うるさいな! 今回のテストはお前を抜くからな」
「ムリムリ。猿は黙って木でも登ってればいいのよ」
二人とも仲がいいんだな。楽しそうだし、貶しあったりして心も知れてるんだろうな。恋人なのかな。私じゃ釣り合わないもんね。
晴れている空がやけに薄暗く感じた。それはいつものようになんの楽しみもない、憂鬱な晴れだった。
泣きそうだった。なんでこんなに目頭が熱くなってるのかわからなかった。
まだ私は黒木くんの恋人でもない。恋人だったら良いなと無像な妄想を抱いて寝た昨日の淡い期待なんかこっぱずかしいくらいのそれであった。
ただ、まともに話をしてくれて、長い時間一緒にいただけで勘違いしていた。そう、私は勉強だけしていればいいのだ。
「あれ? 川崎さん、聞いてる?」
「ん? あ、あぁ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてて」
「そう。今日もいい? どうしてもこいつに勝ちたいからさ」
「いいよ。でも17時までね」
「センキュウ!!」
あ、発音酷いと思ったが気にしないで校門をくぐった。
そう、勉強だけしていれば、少なからず、数日は一緒にいれるのだから。それまでに友達になれればいいな。そうポジティブに考えることにした。でないと、今にも泣いてしまいそうだった。
授業。塾で既にやった範囲。予習もしてある。もう、先生の言葉を聞く必要がなかった。でも、生真面目に聞くのは、自分への劣等感であった。自分でもわかってる。でもどうしようもないのだ。
絶対的な孤独。話を聞いてくれる人はいない。話してくれる人はいない。勉強さえ誰も聞いてくれない。帝王学を謳歌する父に反して私はカラオケでAKB48の曲を歌うことも許されないのだ。父が遠くに見えた。クラスメイトは眼中になかった。進むべくは絶対的な頭脳と絶対的統率力、絶対的存在。
チャイムと共に私は外を見た。分厚い雲が黒い影を落とし、西の空からズズっと足を擦っているようにこちらに向かっていた。
気づけば風が強くなっていた。木々は不安を煽るように激しく踊り深緑の葉を無惨に散らせていた。
まるで台風でも来るのかと思わせるようだった。
昼休みだ。
っと思った瞬間、私は思い出した。
「あ、ふりかけ忘れてきちゃった」
今日は気合いをいれるためにのりたまのふりかけを持ってこようかと思ったのについ目先の高揚に流され忘れてしまったらしい。
「ふりかけ忘れたの?」
「うわ!」
弁当を出して落ち込んでいるところに黒木くんが近寄ってきた。そんな不意討ち私が驚かないわけなかった。
「あ、ごめん」
「わ、わわわ、私こそ」
吊り橋効果なのだろうか、心音がだいぶうるさい気がした。いやいや、とても恥ずかしい。
「一緒いい?」
私の了承なしにもう既に私の前の席に座り、コンビニで買ったであろうムダにでかいだけのパンを食べていた。
「それ、答える必要ある?」
少し苛立った感じに言ってしまった。黒木くんはケラケラと笑いながら、ダメでもここにいるし、と言った。
私は溜め息をついた。そしたら周りの目が気になった。それもそうだ。一年以上ひとりで食べていた冷めた食事に、ひとり加わったのだから。しかも異性。明らかに誤報が出るに決まってる。
っと思ったらなにか反応がおかしかった。
「おい駿平! お弁当は可愛くできてるかい?」
どっかから男のちゃかしが入った。まだ開けてないのだけど。
「ああ、可愛いよ! 全面ピンクの可愛い箱だ」
どっと笑いが起きた。私にはよくわからないがどうやらおもしろかったらしい。
「食べないの?」
あぁ、と私は思い出したかのような生返事をして二段のお弁当箱をばらした。
今日は白いご飯にサラダと玉子焼きと焼き魚とさくらんぼだった。またご飯が多目だよと思い、やっぱりふりかけが欲しいとも思った。
「あぁ確かにふりかけ欲しいなこれは」
少し落ちたトーンでそんなことを言った。私は黙ってご飯を一口食べた。
黒木くんは先に食べ終わり、私がまだ食べているのにも関わらず化学の事を聞いてきた。どうやら理系クラスらしく、私はおかしく思った。どう見ても文系だったからだ。
すいへいりーべーぼくのふね。私は詰まらなそうにそう呟いた。どうやら原子の順番が覚えられないで困っていたらしい。周期表の覚え方なんて学校でも言っていたと思ったが、話を聞けばどうやら先生の声が子守唄に聞こえるらしい。私にはまったく理解できなかった。
よくこんなんで理系クラスにいられるなと私は思った。そもそも原子のCってなにと聞かれてしまった。私は深く溜め息をついて、教科書に書いてあるでしょ、と苦言した。
やっとのことで食べ終わった私は水筒に入れた麦茶を飲んだ。氷がしっかりと効いていて未だにキンキンである。
「あのさ、氷って水だよな」
急な質問に私は驚きながらそうだよと言った。
「水を冷やすと氷、ってことは固体になるってことで、それを凝固って言うんだっけ?」
そう。そうなのだが、まだそれは勉強していないのではなかったか。今は無機化学付近を右往左往していたはずなのだが。
「俺さ、そこら辺が好きなんだ。なんで水は凍ると水の体積よりも大きくなるのかとか、気体はどういう状態なのかとか」
少し興奮したようなテンポだった。だから理系クラスなのか。
「水は水分子毎に水素結合をするの。液体の状態はそれが微妙にしか働かないからあんな風にさらさらって動けるけど、固体は水素結合が強いの。だから規則正しく並んだ水分子たちは液体の状態より隙間を作るようになるの。だから、水は液体よりも固体の方が体積が大きいの。気体は分子そのものが辺り構わず飛び回ってるの。たったひとりでね」
熱くなって説明してしまった。嫌われる、いや煙たがられる。と思った矢先だった。
「すげー! そうだったんだ!!」
教室中に響き渡る叫び声。教室にいた人は全員こっちを向いて事の素性を見計らっていた。
「へぇ!! すげーなそうなんだ!」
私は咳払いして、当たり前よと反論した。
まぁ、少し優越感があったけど。
「なぁ、もっと教えてくれよ!」
そこで、私はいいことを思い付いた。
「教えてもいいけど、1つだけ課題を課せるわ」
「なに? あんパンならすぐ買ってくるよ!」
私はそんなしみったれたいじめ的なことをしない。そんなことやるように見えるのだろうか。
小さく溜め息をついて確りと黒木くんの目を見て言葉を出した。
「東野さんの全教科合計点数より合計点数が高かったら教えてあげる」
意地悪そうに微笑んで言ってみた。こんな表情私ができるのかと思ったけど意外とできるもんだった。
たぶん事の流れを聞いていたそこら辺の女子がくすっと笑った。まぁ、無茶であろう。なにせ、私と成績争いをしているのが東野さんなのだ。まぁ、東野さんが勝手にライバル視しているだけなのだが。
「そんなんでいいの?」
そんなんって、この人はいきなり何を抜かすのかと思った。
「よっしゃ、もとからそのつもりだったから受けてたつぜ!!」
呆気にとられた。もう、バカすぎて笑ってしまった。
「なんで笑うんだよ」
「ごめんなさい。バカにするつもりじゃないのよ。うん、頑張りましょう」
謝ったところで、どうやらツボに入ってしまったらしく笑いがとまらなかった。そんな私を不思議そうに、訝しげに見てるその顔を見たら尚更おもしろくなってしまった。
そんなこんなで、放課後になると図書室に行き、誰もいないそこで彼を待った。
ワクワクしていた。
会える、話せる、顔を見れる、ただそれが楽しみで無音のこの部屋に心音を鈍く響かせていた。
待ってる間に『アダムとイブ』の絵本を見つけて手にとって見ていた。
世界に二人。時間も束縛も柵も規則も法則も倫理も、そんなもの存在しなくても世の中が成り立つ時の話。それは圧倒的な自由を約束された世界であった。
なぜ、唆されて、唯一禁止されていたリンゴを食べてしまったのか。
簡単だ。自由なんか関係ない。ただ、そのリンゴの禁止された理由が知りたかったからだ。
唆されて食べました。そしたら神様が怒りました。
否、気になっていたけど禁止されていたから食べなかった。けど美味しいよ、みんな食べたよ、なら食べよう。そう、始めから人間には知識を喰らう欲があったはずなのだ。
知識を学ぶことが人にとっての価値であるように、人はその価値を欲し、価値を主張し、主張で自分を知らしめたい、そんなエゴのあるものなのだ。
いいじゃないかエゴ。欲がなきゃ人じゃないと父に言われたこともあった。エゴが世界を進め、エゴが世界を滅ぼす。
全く世の中不条理だ。
パタッと薄い本を閉じる。そのまま理論に浸りながら本棚に戻した。
よくあること。よくないことだと思っている。でも止まらないのだ、自分との考えの差ってものを。物語はそう語っている。でも私はこう咀嚼する。意味がない。まったく意味がない。
「あ、いたいた」
横から黒木くんの声が飛んできた。
「椅子に座ってないからどこにいるか探しちゃったよ」
「ごめんなさい。ちょっと面白そうな本を探していたの」
「へぇ。読書ホントに好きなんだね」
黒木くんが近付いてきて、私の目の前の本棚を見て1つの絵本に手を伸ばした。
「あ、七夕じゃん」
そう言えば、明後日は七夕だと今更ながら思った。私には関係ないことである。星なんか見れないからだ。
「年に一度だけ、牽子星と織姫が天の川を渡って会えるんだよなぁ」
そう言って彼は溜め息をつき、俺は待てねぇよ、と付け足した。
「へ?」
思わず聞き返してしまったが、聞こえない訳ではなかった。意味がわからなかったからだ。
「いや、なんでもねぇなんでもねぇ」
なにやら焦ったように言ってその本を戻した。
その様子を理解できないまま彼をずっと見ていた。
なぜか顔が赤かった。耳まで真っ赤。普段の落ち着いた、それでいて行動的な彼の性格からは想像もできない惨めな顔だった。
「……勉強教えてくれよ。時間あんまないんだろ」
そう言われて腕時計を見ると4時を2分過ぎていた。
「あ、ごめん。始めようか」
にっこりと笑って席に戻った。やる気なのだから、私はそれに答えなければならない。出るだろう、所謂ヤマを絞っていて、それを重点的に教える。そうじゃないところでも一応さらっと触れておいた。
そう、そんなことやっていると、1教科も終わらない。たった数分でできるのであれば授業をあんなにやる必要がないからだ。
「ごめんなさい」
無力感に私はつい謝ってしまった。
帰り道、まだ明るい道を横一列で歩く。緩い坂は無意識のうちに足を早めさせていた。
「なにが?」
当たり前だろうが不思議そうな顔で返事が返ってきた。
空を見上げると、薄い雲が月を半分隠し、太陽の名残火のような赤とも橙ともとれないやけに虚しい色が私の心に染みていった。
「あまり時間作ってあげられなくて」
テストまで2週間もない。黒木くんが出来ていることは50点もいかない程度だろう。
「大丈夫」
そんな明るい声に私は彼の方を見た。
笑顔だった。自信とか余裕とかじゃない、無垢で純粋な笑顔。
「やった方がいいこと、俺だけでもやるからさ。今日みたいにあんなに1から10まで教えてくれなくても大丈夫。そんなことしたら川崎さんが勉強できないだろうしね」
ごもっともだった。昨日から自分の勉強なんかしていない。おかげで明日の塾の宿題を終わらせられていない。
「わからないことがあったら聞くからさ、川崎さんは川崎のことしてて」
うん。頷いた言葉は、道路を高速違反だろう速さで走り去ったトラックに掻き消された。
「あ、笹だ」
笹と表現するのはいささかおかしいと思ったが、まぁ確かにそこには笹の葉があった。通り掛かった商店街の八百屋の前にそれはあった。すでに短冊が思い思い書かれ吊るされており、そう言えばそんな風習もあったなと思った。
「ねぇ、お願い事しようよ」
「え?」
黒木くんは机に置かれていた短冊を手渡してきた。
黄色の短冊。ペンも机に置いてあったので取り、もうすでに何か書き始めている彼に見られないように書いた。
『好きな人になりますように』
黒木くんに見られないところにくくり、不器用でくくるのに手間取っている黒木くんを遠目に待っていた。
「ごめん。帰ろっか」
再び歩き始めた。途中気になって聞いてしまった。
「なにお願い事したの?」
「え? 秘密」
そう。ちょっと残念な気分になった。遠目でまっすぐ見ている彼の目線には私はいないからだ。
でも、必ず好きな人になるように、彼を見ていようと思った。
織姫が牽子星を一目見て恋に落ちたように、私も一目見て恋に落ちたのかもしれない。
恋なんてしたことなくて、そんな感情わかりもしなかったけど、きっとそうなんだと、彼の隣を歩きながら、そう感じた。
読んでいただいてありがとうございます。
中途半端な終わり方だったと思いますが、まぁ、長編になる危険があったのできりがいいところで終わらせていただきました。
っで好評であれば、気分で完全版でも書こうと思いますので、意見、感想等々ありましたらどしどしお願いします!
それでは、以後も澁谷一希をよろしくお願いします。