さなぎ
蝶々は一度溶ける。
「お前は知っていますか?」
蝶々は、一度、溶ける。
あの美しい姿へと素晴らしい変化を遂げる為、あれらは一度溶けるのだ。形を残さず、ずちゃずちゃに溶けるのだ。
女は自らの娘に問いかける。
「蝶々は一度死ぬことを、知っていますか」
「蝶々は二度死ぬのですか?」
「そう、死ぬのです」
「死ぬのですね」
「えぇ、そう、死ぬのです」
そうですか死ぬのですね、そう繰り返す娘はまだ幼かった。歳の割りに小柄だ。
それというのもこの家に男というものは居らず、雨風しのげる程度のあばら家に二人暮らし。満足な衣服などはもとより、食事すらも十分になぞ取れないらしい。
しかし娘は至極幸せそうに見える。
それが愛ゆえなのかは、知らない。
「蝶々はなぜ死ぬのですか」
娘は斜め上を見つめて問いかけを返す。
娘もまた斜め上を見上げて返した。
「あれももう死んだでしょう?」
「ええ。でもあれは違うのですよ」
「では始まりに死ぬのは何故ですか」
明かりが細いために薄暗くなっている天井を、母子揃って見つめる。
それほどまでに、天井に張られた女郎蜘蛛の城は立派だったのだ。赤い腹を見、それから城に包まれた蝶々の残骸を、女と子供はただぼんやりと見上げている。
女が口を開いた。
「あの綺麗な身体を保つ為、死ぬのです」
「死ななければならないのですか」
「死ななければなりません」
障子は開いたままだった。柔らかな月明かりは、庭より先の世界を青白く見せた。
その中、鮮やかな黄の蝶々がひとひら。
白く青く沈んだ空気の中を、軌跡を残すほどに鮮烈な黄色が渡っていた。
娘は興味深そうに蝶々を視線で追う。しかし外へ出るような真似はしなかった。それも当然か。女の子供は賢しかった。
「蝶々が死ぬ時、やはりそれは朽ちるのですか? 翅の先から落ち葉のように、くしゃりと朽ちるのですか、母さま」
「いいえ」
あちらこちらとふらふらする蝶々を真剣に目で追いながら、娘の問い。
女はすでに蝶々など見ていなかった。
「最初に死を遂げる時、蝶々は朽ちません。お前は知らないでしょうね」
「はい。わたしは知りません」
「蝶々は溶けるのです」
「溶ける?」
娘が首を傾げると、ざんばらに揃えられた黒髪だろうものが揺れた。
女もまた、同じように首を傾げる。こちらは伸ばしたままにされた髪。それはささくれ立った畳の上を這いずった。
「蝶々の眠る棺の中、蝶々は死ぬのです」
女がゆっくりと腰を浮かせる。浮き上がって、その影はちらちらと揺れる。
蝋燭が尽きかけていた。
「さあ、お前ももうおやすみ。じきに火がなくなるよ」
二人の視線はちらつく火へ固定された。
その瞳には渇望の色すら覗く。それでも娘のその渇望は蝶々に向けられた程ではなく、また、女の渇望は理性でもって押し殺されていた。
娘の形の良い唇が震えた。
「眠る棺で溶けるのならば、わたしも同じように溶けるのですか?」
「そうです、お前も母も溶けますよ」
「溶ければわたしも美しくなって、次に死ぬ時には朽ちるかように、静かにはらりとなるのですか?」
「そう、そうです、そうです。えぇ、あたしの可愛い子。お前も美しくなるのです」
そうですか美しくなるのですね、そう繰り返す娘はほろほろと涙する。
娘は賢しい。だから知っているのだ。
だから、全てを知っているのだ。
「母さま」
「なぁに」
窓からひらひらと迷いこんだ蝶々は、橙の色をした蝋燭の先に、とまった。
じじ、と音がする。
「わたし、母さまが好きです」
「ええ。あたしの可愛い子。母もです」
じじじ、と音がする。ふと火が消えた。ついに消えた。
蝶々は見えなくなり、そしてすでに蝶々は朽ちているのだろう。
「もう火がなくなったね。おやすみなさい」
「はい母さま」
「母はここにいますからね」
深淵のような部屋だった。
唯一の光源となったのは丸い月だったが、女か娘の手によって、あるいは何か別のものによって戸はぴしゃりと閉められた。
月明かりは、ない。
しくしくとすすり泣く声は女のものか娘のものか、はたまた隙間風なのか。闇の中では判断しがたかった。当然判断する必要などもうない。
「あたしの子、あたしのいとしい子」
天井の女郎蜘蛛はじっと動かなかった。
女は忌々しげにそれを見上げたあと、そっと娘を抱擁するかのように擦り寄った。
「蝶々は一度溶けるのです」
蛹の中、形などなくなるのです。
母は乾いた声で言う。
「美しくなる為に溶けるのです」
「はい母さま」
「美しくなるには、溶けねばならないのです。皆が通る道、お前もきっと綺麗になるでしょうね。誰もが羨む姿でしょうね」
「はい、母さま」
「さぁ。おやすみ。母はきっとここにいますからね。今だってここにいますからね」
母は娘に、蝶におなりなさいと告げた。
それは愛だったのかもしれない。しかし賢い娘は、全てを悟っていた。
悟っていたからこそ母の愛をそのままに受け取って、娘は静々と糸を吐く。
白い繭は美しかった。
後日女郎蜘蛛の居城に一匹の蛾がかかったという。食われたかどうかは分からないが、あの女郎蜘蛛は見目で好き嫌いをするらしい。いつかの蝶々は美しい羽根のため観賞用なのだと、どこかの誰だかに語りかけたのだとか。
それにしても果たして娘は絶望しただろうか。その娘は今、火の灯らないあばら家で母のように床に伏せっている。
娘は亡き母を見上げてはらはらと涙を流す。それは女郎蜘蛛だけが見下ろしていた。
「母さま、知っていましたか」
彼女の羽根は半透明で白く、黒い斑点があった。それは、美しい姿には変わりないのかもしれない。
羽根を広げて飛び立てば、頭上に悠々と構える女郎蜘蛛の城がある。母と父、それに姉たちと同じ運命を辿ることとなるのだ。
「わたしたちは蝶々なのです、母さま」
最愛の母すら失った娘は、薄羽白蝶。
「そもそも、」
ゆるりと羽根を広げて飛び上がった。
「蝶も蛾も同じなのです、母さま」
女郎蜘蛛は、しかしそれを食らわない。
娘は果てた母の隣、いずれ訪れるだろう死をただ待つほかなかったという。