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こことはちがうどこかで

作者: 歴史の空
掲載日:2026/05/11

こことはちがうどこかで

 目が覚めたら、いつもの天井が見えなかった。 寝ぼけているのかと思い、何度か強く頬をつねってみる。だが、視界に広がる光景は変わらない。柔らかなベッドの感触はなく、背中には湿った土と草の感触だけが生々しく伝わってきた。


 ここが家ではなく、外であること。そして、鬱蒼とした木々が生い茂る、深い山の中にいること。その事実を認識した瞬間、得体の知れない不安が全身を駆け巡った。しかし、それを上回るように、心の奥底から奇妙な嬉しさが込み上げてくるのを止められなかった。


 これが夢でないのなら。


 大学を出て就職した会社は、俺という人間を部品のように扱った。やりがいもなく、ただ歯車として消費されるだけの毎日。そんな抑圧された日々から解放されるのなら、この状況はむしろ幸運と呼べるのではないか。何の楽しみもなく、ただダラダラと生きていたい。それが俺の唯一の願いだったのだから。


「さて、どうしたものか」


 独りごちたその時、俺は目の前の光景に息を呑んだ。 見たこともない生き物が、まるでそこにいるのが当然であるかのように、俺のすぐそばを通り過ぎていく。


 狐に似た姿をしている。だが、その脚は不釣り合いなほど太く、耳は大きく裂けている。口からはサーベルタイガーのように長大な牙が覗き、濃密で色鮮やかな毛皮に覆われた体躯からは、何本もの尾がしなやかに伸びていた。そんな異形の獣たちが群れをなし、悠然と森の奥へ消えていく。ここは、俺の知る星ではない。周囲を見渡せば、植物の一つひとつが奇怪な造形をしており、その事実を裏付けていた。


 その直後、唐突に全身の皮膚が粟立った。


 理屈ではない。何かが来る。ここにいてはならない。生存本能が脳髄の奥でけたたましく警鐘を鳴らしていた。俺は考えるより先に、山を駆け下りようと地面を蹴っていた。


 ただダラダラと生きたいだけなのに、なんでこんなことになるんだ。


 その時、風船が破裂するような、奇妙に軽い破裂音が山全体に響き渡った。


 直後、空気が震えた。重々しく、それでいて軽やかな、矛盾した気配。巨大な何かが、凄まじい速度でこちらへ近づいてくるのを本能で理解した。振り向いたら死ぬ。確信だけがあった。


 耳をつんざくような、地の底から押し潰すかのような轟音が響き渡る。


 ああ、そうか。さっきの狐のような獣たちは、これから逃げていたのか。この音の主こそが、この山の支配者に違いない。


 とにかく走った。木の根に足を取られ、枝葉が顔を打つのも構わず、ただひたすらに足を動かす。今まで生きてきた中で、これほど必死に走ったことなど一度もなかった。不思議と、周りの景色が歪んで見える。ただひたすらに早く。


「あ」


 足がもつれて、体が言うことを聞かず、俺は無様に地面を転がった。


 もう、駄目だ。指一本動かせない。あれだけ必死に逃げたのに、距離なんてほとんど離せていなかったようだ。どうせ死ぬなら、一思いにやってくれ。そして、せめて殺される相手の顔くらいは拝んでやろう。


 ゆっくりと顔を上げる。山に棲む巨大な獣。やはり、熊か何かだろうか。


 地響きが近づくにつれ、鳥肌が収まらなくなる。呼吸は浅く、思考は麻痺し、恐怖の極致でなぜか笑いが込み上げてきた。


 やがて、茂みの奥から音の主が姿を現した。 だが、その姿は想像とは全く異なっていた。大きいかと言われればそうでもなく、小さいわけでもない。どちらかと言えば、ライオンに似た生き物だった。


 しかし、その体はあまりにも華奢だった。足も胴体も細く、筋肉らしい筋肉は見当たらない。まるで、生まれたての赤子のような、危うげな佇まいだ。


 それなのに、全身から放たれる気配は、先ほどの地響きの主だと確信させるに十分なほど、不気味で禍々しい。


 生まれたての獣は、ただ静かに、俺のことを見定めている。


 やがて、その観察が終わったのか、獣はふいと俺から興味を失ったように身を翻した。そして、まるで何かに呼ばれるかのように、森の奥深くへとその姿を消していった。


 嵐が過ぎ去った静寂の中、俺は全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。助かった。その事実だけを、ただ呆然と噛み締めていた。


 どれくらいの時間が経っただろうか。恐怖で麻痺していた思考が、ゆっくりと現実へと引き戻される。生きている。その事実だけを、ただ呆然と噛み締めていた。


 森は先程までの殺伐とした気配が嘘のように、静寂を取り戻していた。俺は震える足でなんとか立ち上がり、周囲を警戒しながら再び歩き始めた。あのライオンのような獣がなぜ俺を見逃したのかは分からない。だが、二度目の幸運はないだろう。一刻も早く、この危険な森を抜け出さなければならなかった。


 幸いにも、下り坂は続いていた。木々の密度が少しずつ低くなり、やがて視界が開けた時、俺は思わず安堵の声を漏らした。


森の切れ目に、人の手が入ったであろう畑と、遠くに数軒の家々からなる小さな集落が見えたのだ。


ただ、今は生きていることに感謝を。

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