3:最悪の覚醒
3:最悪の覚醒
体が重い……。
高校からの帰り道。
深帰人は次第に強くなる動悸を感じながら、引きずるように道を歩く。
下校路が途中まで一緒だった真理や雅武から「顔色悪いけど大丈夫?」とか、「なんなら家まで送っていくけど」と申し出をされたが、深帰人は「大丈夫だよ」と断った。
今では断ったことを後悔している。それくらい、体に感じる違和感は強くなった。
家の最寄り駅に辿り着いてはいる。ここから十分程度歩けば、家で休める。だが、その十分程度の距離すら、今の深帰人には果てしない道程のように思えた。
少し、裏路地に入って休憩しよう。
深帰人は、商店の建物が立ち並ぶ道から一本外れた、人通りの少ない道までなんとかやってくる。マナーが悪いと思いながら、周囲に誰もいないのを確認すると、地べたへと座り込んだ。数回の深呼吸によって、楽になったような気がした深帰人の脳裏に、雅武が別れ際に言った言葉を思い出す。
「ところで……誰かの視線を感じないか?」
雅武は何度か、後ろを振り返りながら、真理や深帰人に訊いていた。深帰人たちが「いや、特には……」と首を傾げると、「僕の勘違いならいいんだ」と苦笑いをしていた。
雅武は周囲に気を配れる少年だ。感覚も真理や深帰人より、鋭敏なものを持っている。あながち雅武の気にし過ぎとは言い切れないかもしれない。
そんなふうに考えたときだった。
「ちょうどいい場所に入り込んでくれたじゃねえか。こちらとしても都合がいいぜ。いくら翼身化すれば、人理の枠からは外れるとはいえ、ちらほら人間がいるところでやり合うのは面倒くせえからな」
ざらつくような男の声が聞えてくる。
声の主を深帰人は知らない。だが、着ている紺色の制服には見覚えがある。深帰人たちの高校から電車でふた駅行ったところにある工業高校の制服だ。それをだらしなく着こなした少年は、茶色い短髪を整髪料か何かでツンツンに立ち上げている。白目がちな釣り目は、なんとなく性格の悪さを連想させた。
「ど、どなたですか……?」
深帰人は傍らに立つ少年に問いかける。今の自分は体調不良で誰かと話す余裕はない、と伝えようと思った。
「つれえよな。わかるよ」
深帰人は「え?」と洩らした。
この少年は自分のつらさを理解してくれている。なぜ……?
「覚醒のときって、魂側にいろいろと変化が起こる分、体とのミスマッチが起こるんだよ。それもまあ、個人差があるんだろうが……お前の重傷さは、中の上って感じかな」
何を言ってるのかわからない。しかし、明らかにこの少年は自分の体調不良の原因を、自分よりもよく知っているらしい。
深帰人は、この症状がなんなのか問いかけようとした。
「すぐ終わりにしてやるよ」
深帰人が訊くより前に、その少年は言い切る。続けて、「ヨクシン」と唱えた。
目の前で起こったことなのに、深帰人は自分の目を疑わざるを得ない。
「ヨクシン」と唱えた瞬間、少年の背中から一対の翼が広がった。ほんの一瞬、「天使」と呼ぶにふさわしい白い翼だったように見えた。しかし、実際に深帰人の前に広げられた翼は毒々しい赤紫色をしていた。「翼」と言われれば、そう見なくもないが、翼を構成する一枚一枚の羽根がまるで触手のように畝っていた。
彼の頭上、宙空には光の輪が浮いている。それは天使の輪に見える。だが、目を凝らしてみると、光の輪は途中で面がねじれており、「メビウスの輪」と呼ばれるような歪な輪になっていた。
――相手の輪を砕き、光球を己のものとせよ。
深帰人の脳内に、そんな声が響いた。だが、深帰人には言葉の意味がわからない。何より、少年の姿が、自分の置かれている状況が理解できなかった。
「俺の堕天名は『ナスティ(nasty)』だ。名乗ったところで、すぐにお前は忘れちまうだろうけどな!」
そう言った少年の、背後にある赤紫の翼から、一本の鋭い触手が鞭のように射出された。
まっすぐ深帰人の頭を狙ってくる。
なんだかよくわからない。
わからないが、でも、「殺される」と深帰人は思った。
次の瞬間、激しい衝突音が響く。
ナスティの触手は、深帰人の眼前で、その動きを止めていた
何が起こっている? 深帰人は自分の置かれた状況を視認する。
直径五十センチほどの光が、ナスティの赤紫色の触手を受け止めていた。光、という言葉は正確ではない。厳密に表現するのであれば、十一枚の白い羽根が周りを取り囲み、その中心にある光の円が、ナスティの触手を防いでいる。それは深帰人に、アニメや漫画で見たことのある「バリヤー」を連想させた。
「それがお前の能力か?」
ナスティが口惜しげに声を張り上げる。
ナスティの問いに対する答えを深帰人は持っていない。だが、ナスティの翼から発される二撃目、三撃目の触手も、深帰人が目で追うと、それを追尾するように十一枚の羽根に囲われた光が防いだ。どうやら、この光の盾らしきものが、自分の目の動きに合わせてくれているらしい、ということを深帰人は理解する。
それと同時に、深帰人は自分の背中と頭上に、妙な感覚を覚えていた。鏡で確認したかったが、そんなことができる余裕はない。
「ったく、面倒くせえな! せっかく楽に潰せる奴を見つけたって思ったのによー!」
ナスティの怒声とともに複数の触手が深帰人に迫ってくる。だが、十一枚の羽根たちは、自動的に四枚の二組と三枚の一組に細分し、小さい光の盾となって、ことごとくを防いだ。
「バカが!」
ナスティが得意げに笑った瞬間、深帰人の首を絞めるものがあった。気づけば、背後から回り込んできた触手が、深帰人の首を締め上げている。
「手間かけさせやがって。初めの一発で沈んでりゃあ、お前も楽で良かったのによ!」
ナスティは、余裕の笑みを浮かべ、深帰人の首を絞める力をますます強めていく。
首を絞める圧力がある一定ラインを超えてから、深帰人は苦しさを感じなくなった。ただ意識が遠のいていく……。もう……。瞼が塞がって来て、視界が閉ざされる。
ズシャッ!
「いってぇ!!!」
何かを切り落とす音と、ナスティの悲鳴が響く。
次の瞬間、首の圧迫が解放された深帰人は地面に転がっていた。
激しく咳き込み、四つん這いになりながらも、深帰人はいったい何が起こったのか、とナスティのほうを見る。
ナスティの前に一人の少女が立っていた。右手に細く、長く、そして黒い、剣のようなものが握られている。
「……ただなが、ひとみこ……さん?」
深帰人はその少女を知っていた。今日、同じ学校の女子三人組から、バケツの水をかけられ、恥辱的な写真を撮られそうになっていた女子生徒だ。
目の前に繰り広げられた状況から、自分の首を絞めていたナスティの触手を、盧子が手にしている黒い長剣で切り落としたのだ、と深帰人は察した。
「おめえも同類か? ……堕天名……エフェクトは、何よ?」
ナスティは一歩距離を取り、苛立たしげな声を盧子に投げる。
盧子は半身で中腰になり、左手でナスティに照準をさだめ、右手に持った黒剣を構える。
「ホープレス(hopeless)」
抑揚のない声だった。
ナスティが「絶望か。確かに目が死んでるぜ」とせせら笑う。
次の瞬間、盧子はロケットのような瞬発力で跳び出していた。
舌打ちをしたナスティが両翼の触手を容赦なく、ありったけの勢いで盧子に放つ。
盧子は突進しながら、わずかに体を逸らす。紙一重でかわそうとしているように深帰人には見えた。だが、それは見込み違いだった。盧子はナスティの攻撃をかわせない。それは盧子の肩を、脇腹をかすめ、鮮血を撒き散らせた。しかし……。
盧子の勢いは落ちることなく、ナスティの懐まで辿り着く。一閃。その手にある黒剣で、ナステイの体を斬りつけた。おびただしい鮮血が吹き出し、それが盧子の顔にかかる。それでも盧子の表情は微動だにしない。
「て、てめえ、なんで俺の攻撃をよけねえんだよ!?」
「懐に飛び込む最速、最短のルートの邪魔にならなければ、避ける必要はない」
深帰人はそれを聞いて、何度かわずかに体を逸らしながら突進していく盧子の動きの意味を理解した。
盧子は、ナスティの攻撃を紙一重でかわそうとしていたのではない。最速、最短で突進するために、避けなければいけない攻撃のみを避け、それ以外は受け切ったのだ。なんて無茶な考え方だ、と思う。
「あー! ホント、面倒くせえ! こんなとこで、本気出さなきゃいけねーなんてよお!」
ナスティが声を張り上げた瞬間、彼の背中にある赤紫の触手みたいな翼が広がり、さっきまでとは比べものにならないほどの数の触手が、盧子と深帰人に向かって迫ってくる。
圧倒的な量とスピードの触手。
もうダメだ……!
終わりを覚悟した深帰人は目を閉じた。
……。
…………。
……………………。
何も起こらない?
盧子の悲鳴どころか、ナスティの勝鬨も上がらない。
深帰人はゆっくりと目を開ける……。
大きな黒い翼が展開されていた。
いや、「大きな黒い」という表現では不十分だった。深帰人の前に広げられたそれは、まるでブラックホールのように、光すら吸い込みそうな漆黒の、巨大な一枚の翼だった。
目をつぶってしまった瞬間の光景を深帰人は想像する。
きっと、ナスティの大量触手攻撃を、盧子は背後にあった巨大な黒い翼を展開し、前面を包むことによって防いだに違いない。
それにしても……と深帰人は、盧子の大きな翼を見る。
見ている者が吸い込まれそうなくらい、深い漆黒の、大きすぎる翼だった。
その翼はなぜか、盧子の左片側に一枚しか生えていない。
鳥でも天使でも、左右対になった翼を持っている。そういうイメージや先入観を持っていた深帰人にとって、盧子の姿はとてもアンバランスなものに見えた。
それと同時に、深帰人は盧子の翼を美しい、と感じていた。
「なんだ、なんなんだよ、そのどデカい翼は!」
難癖に近い憤りを噴出させたナスティは、再び攻撃を開始する。だが、先ほどの攻撃に比べると、単調なものに見えた。それだけナスティも焦っているのだろう。
盧子は、背中にある黒い翼から、二枚の羽根を取る。それは瞬時に、黒く細い剣へと変化した。両手に持った黒剣で、迫りくるナスティの触手を弾き、切り落としながら、盧子はナスティへの距離を縮めて行く。ナスティは、もはやジリ貧だった。
ついに盧子はナスティを射程圏内に捉える。
深帰人ですら、勝ったと思えた瞬間だった。
しかし、盧子の疾風のような二閃の斬撃が、ナスティに届くことはなかった。
ナスティは、盧子の剣が振り下ろされる前に、その両翼で上空に飛びあがっていた。
「さすがに、その片翼じゃ、飛ぶことは無理だろ。どんなにお前の翼が強力だろうが、舞えねえ時点で、お前が俺に勝つことはできねんだよ。でしゃばったくせに残念だったな」
せせら笑うように、ナスティは盧子を見下ろしている。
悔しいが、ナスティの言葉は的を射ていた。盧子の片翼では、飛行能力という点においてきわめて不利であろう。地上戦ではナスティを圧倒していただけに、この形勢逆転は、深帰人から見ても理不尽なことに思えてならない。
「さて……じゃあ今度は、高見の攻撃と行かせてもらおうか」
ナスティが再び、両翼を大きく展開する。
深帰人は盧子の横顔を窺う。
盧子の表情は先ほどとまったく変わっていなかった。
瞳には相変わらず光が宿らないが、その代わり動揺も見られない。それどころか、深帰人は次の盧子の行動に驚愕した。
なんと盧子は、左の背についている一枚の巨大な翼を、根元からもぎ取ったのだ。
翼の根元を両手で握ると、その巨大な黒い翼は、巨大な黒い剣へと成り変わった。
「わたしに……飛ぶことはできない」
抑揚のない声で盧子は、「でも……」と続け、巨剣を下段後方に構える。
「お前がわたしに勝つことはない」
次の瞬間、盧子が構えていた巨大な黒剣に、黒い闇が集まり出した。強力なエネルギーを秘めたように見える闇は、大きなうねりを描いて、黒剣の刀身を覆う。
「――絶闇」
盧子はいっさいの力みなく巨剣を振るった。
その端的な呟きにまったくもって不釣り合いの巨大な黒い渦が繰り出される。
超高速の黒い斬撃がナスティを襲った。
度肝を抜かれた様子のナスティは目を見開いたまま、それを受ける他なかった。
激しい衝撃音とともに、黒い闇の濁流が弾けた。
一瞬のことだ。
そのまま地上に落下したナスティは、気を失っているのか、動き出す気配はない。
剣であった黒い翼を、自分の背に戻している盧子のもとへ、深帰人は歩み寄る。
「えっと……君は、唯永盧子さん、なんだよね?」
「今は違う」
「え?」
「今のわたしは、ホープレス。堕天使」
「……だ、天使?」
深帰人は、これより知ることになる。
自分が何者であるかを。自分が巻き込まれ、対峙させられる運命を。
これが深帰人にとって……堕天使フィアにとって、初めての戦いであり、堕天使ホープレスとの初めての出会いだった。




