第6章 治しきらない医師
塔に戻ってから、数日は何事もなく過ぎた。
剥竜の件は、村にも騎士団にも詳細は伏せられた。
「安定した」「討伐は不要」という最低限の報告だけが上げられ、
それ以上踏み込もうとする者はいなかった。
それもまた、師匠が築いてきた“距離”の名残だった。
妖精が窓辺で軽やかにステップを踏んでいる中
ジルドは、書庫の奥で古い治療記録を広げていた。
封印指定も、体系化もされていない、
師匠個人の覚え書きに近いもの。
そこには、いくつかの共通した注釈があった。
――完全治療、見送り
――未治療状態を維持
――経過観察、長期
どれも、致命傷ではない例ばかりだ。
だが、完全に治せる可能性があるにもかかわらず、
あえて踏み込まれていない。
「……救われた、って言うべきなのか」
独り言は、静かな書庫に吸い込まれる。
「言うべきだろう」
低い声が、背後から落ちた。
振り向くと、いつものように緑の竜が入口に頭を差し入れている。
相変わらず、書庫の内側には入らない。
「それがなければ、彼らは生きていない」
ジルドは、紙をめくる手を止めた。
「他にも例がある?」
「ある」
竜は、短く答える。
「お前がまだ生まれる前の話だ。
契約竜だった個体が、戦闘中に魔力核を損傷した」
魔力核の損傷。
通常なら即座に暴走か、死だ。
「治療は可能だった。
核を削り、安定化させる方法も、当時すでに存在していた」
ジルドは、眉を寄せる。
「でも、師匠はやらなかった?」
「やらせなかった」
正確な表現だった。
「核を整えれば、竜は再び戦場に戻される。
それが“完全治療”だったからだ」
竜は、ゆっくりと続ける。
「だから、あの男は核の一部を意図的に遮断した。
暴走は防ぎ、だが全力飛行は不可能にした」
それは、治療であり、制限でもある。
「その竜は、生き延びた。
戦力としては失格になり、討伐もされず、
今も北の山で生きている」
静かに息を吐く。
「……救われた、ね」
「そうだ」
だが、竜の声はそこで終わらなかった。
「だが、全てが同じではない」
黄金の眼が、書庫の奥を見据える。
「私自身は、そのどれとも違う」
ジルドは、ゆっくりと竜を見る。
「私は、未治療の“結果”だ」
その言葉は、重かった。
「どういう意味?」
竜は、少しだけ間を置いた。
「私は、治療の途中で止められた」
空気が、わずかに張り詰める。
「傷か、歪みか?」
「両方だ」
竜は、淡々と答える。
「契約による強化の蓄積。
魔力循環の偏り。
致命には至らないが、放置すれば必ず壊れる状態」
ジルドの中で、医師としての思考が走る。
――なら、今も危険なのでは?
「……今は?」
「安定している」
「師匠がやったの?」
「そうだ」
竜は、視線を逸らさず続ける。
「完全に治せば、私は“元に戻る”。
強く、速く、役割を果たせる竜に」
一見すれば、望ましい未来のようにも聞こえる。
「だが、それは同時に、
私が“選ばされる側”に戻るということでもある」
ジルドは、言葉を失った。
「だから、あの男は止めた。
治療を途中で終わらせ、
私を“観察者”の位置に固定した」
未治療は、救済だった。
だが同時に、役割の変更でもあった。
「……俺に、それを治せる?」
問いは、震えていなかった。
だが、覚悟の重さは隠せない。
竜は、しばらく沈黙した。
「分からない」
否定でも肯定でもない。
「理論上は可能だ。
だが、お前が治せば、私は変わる」
それは単なる身体の回復ではない。
「そして、お前は知ることになる」
黄金の眼が、静かに細まる。
「治すことが、必ずしも救いではない領域を」
ジルドは、拳を握りしめた。
「……それでも、逃げない」
「知っている」
初めて、柔らかく緩んだ声を聞く。
「だから、私はまだここにいる」
未治療とは、
救うために止めること。
未来を奪わないために、完成させないこと。
だが、それが通じない存在がいた。
緑の竜は、その境界線を跨いで立っている。
師匠は、そのことを分かった上で、
答えを出さずに去ったのか。
――続きを選ぶのは、ジルドだと。
ジルドは、資料を閉じる。
自分には治せないかもしれない。
それでも、見届けることはできる。
未治療は、未完成ではない。
引き受ける覚悟を試すための、問いそのものだ。
緑の竜と、竜医師ジルド。
二人の関係は、いつの間にか対等になりつつあった。
治す日が来るかもしれない。
あるいは、それを選ばない日が来るかもしれない。
だが少なくとも、
その選択が“誰かに強いられる”ことは、もうない。
それが、師匠が残した本当の救いだった。




