第10章 竜医師
竜が深緑の息吹となり、世界に還ってから、塔はひっそりとしていた。
結界の魔力の流れもいつも通りだった。
だが、中庭にあった“重さ”だけが失われていた。
ジルドは、卵を特別扱いしなかった。
温度を測り、魔力の脈動を記録し、
必要以上に触れない。
孵化を促す魔法も使わない。
「診て、待つ」
それだけだ。
卵は、塔の奥の小部屋に置かれている。
外界の音が届きにくく、
それでいて完全には遮断されない場所。
緑の竜が選びそうな配置だった。
数週間が過ぎたある夜、
ジルドは書庫で資料を整理していた。
微かな違和感に気づいたのは、
結界の脈動が一拍、ずれたからだ。
「……?」
急いで小部屋へ向かう。
卵が、わずかに傾いていた。
――位置を変えた。
指先が、動かなかった。
「……自分で?」
問いかけても、答えはない。
だが、魔力の脈動は確かに強くなっていた。
外に向かうのではなく、
内側で、形を探るような動き。
ジルドは、その場に腰を下ろした。
「……契約、する気はないからな」
独り言のように言う。
「君が望むなら、ここを出てもいい。
群れを探してもいいし、
空を選んでもいい」
卵は、応えない。
数日後、塔の結界が反応した。
侵入ではない。
登録された魔力の帰還。
ジルドが中庭へ出ると、
そこに“人影”があった。
少し裾が汚れた白衣を羽織った男。
伸びた髪。
見慣れた背中。
「……師匠?」
男は振り返り、
何でもないことのように言った。
「留守、長くなったな」
ジルドは、言葉が出なかった。
「面倒な調整が多くてな」
荷物を置きながらこちらへ歩みを進める。
「もう少し時間がかかると思っていた」
師匠は中庭を一瞥し、
すぐに気づいたようだった。
「……あの緑の剥竜は?」
ジルドは、短く答えた。
「俺が、終わらせた」
一瞬の沈黙。
だが、師匠は驚かない。
「そうか」
それだけだった。
「……分かってたんですか」
「何を?」
「こうなること」
師匠は、少し考えてから言った。
「想定はしていた」
否定もしない。
「未治療で固定した時点で、
あの竜は、いつか“選ばなければならない存在”になった」
救えない。
だが、事故にもできない。
「私が終わらせていれば、
お前は“治さない医師”にはなれなかった」
師匠は、静かに続ける。
「だから、残した」
未治療という問いを。
観察者という竜を。
そして――
「卵も、だな」
ジルドは、驚いて師匠を見る。
「……知ってた?」
「群れの卵を一つ、持っていることは」
師匠は、頷いた。
「だが、あれは私に託されるものじゃない」
師匠の視線が、塔の奥へ向く。
「お前がどう扱うかを見るためのものだ」
その夜、
卵は初めて、はっきりと魔力を外へ流した。
契約の陣は、浮かび上がらない。
誓約も、強制もない。
ただ、ジルドのそばに寄るように、
殻がわずかに回転する。
「……来るかもしれないな」
師匠が、ぽつりと言った。
「契約竜として」
「契約は、しないかもしれません」
「それでもいい」
師匠は、そう答えた。
「契約は結果だ。
関係の目的じゃない」
ジルドは、卵を見る。
孵るかどうかは、まだ分からない。
孵っても、去るかもしれない。
それでも。
「……戻ってくる、気はします」
「だろうな」
師匠は、小さく笑った。
「終わりを知った医師のそばなら、
竜も、安心して選べる」
卵は、まだ殻の中だ。
だが、確かに“帰る場所”を見つけつつある。
契約するかもしれない。
しないかもしれない。
それでも――
竜医師ジルドは、もう迷わない。
治すために。
止めるために。
終わらせる、その責任を引き受けるために。
そして、
選ばせるために。
師匠はどこまで先を見ているのだろう。
追い越せるのはいつになるだろうか。
竜と人を繋ぎ止める者
竜医師 ジルド=シルダース
最後までお読みいただきありがとうございました。
本作は、ここでひとまず完結です。




