第95話「逆位相音の限界」
美波はすぐに作業を始めた。ノートパソコンを開いて音響解析ソフトを起動する。「カチッ」という音。画面が明るくなる。
「凛、少し横になってて。逆位相音をもっと強力にする」
凛はベッドに横になった。心臓がまだ速く鳴っている。
ドクンドクンドクンドクン――
88回/分。異常だ。このままでは――
美波がキーボードを激しく叩いている。「カタカタカタカタ」という連続音。カセットテープから録音した音声データを解析する。周波数成分を一つ一つ抽出する。
73Hz。146Hz。219Hz。292Hz。すべての倍音。
そして37Hz。18Hz。9Hz。すべての約数。
それらすべてに対して逆位相音を生成する。複雑な計算。膨大なデータ処理。
30分後。
「できた……」美波が呟いた。声が疲れている。
「凛、これ聞いて」
凛は起き上がった。頭が少しふらつく。でも大丈夫。
美波がスピーカーから新しい逆位相音を流した。
人間の耳にはほとんど聞こえない。でも確かに何かが流れている。複雑な信号。多層的な音波。空気が微かに震えている。
凛はじっと耳を澄ました。
頭の中で真理子の声がまだ聞こえていた。
「凛……こっちに来て……」
でも逆位相音を聞いていると、その声が徐々に小さくなっていく。
「凛……」
「……」
消えた。完全に消えた。
「効いてる……」凛が言った。「声が消えた」
美波が安堵のため息をついた。肩の力が抜ける。
「良かった……心拍数も測ってみて」
凛は手首に指を当てた。
ドクン…ドクン…ドクン…
さっきより遅い。落ち着いてきている。
15秒で19回。1分で76回。
「76……」凛が報告した。「下がった……でもまだ正常じゃない……」
美波が複雑な表情をした。眉間に皺が寄る。
「逆位相音は進行を遅らせることはできる。でも完全には防げない……時間稼ぎにしかならない……」
凛はそれを理解していた。対症療法。根本的な解決じゃない。
「なら」凛が言った。「早く残りのメディアを集めよう。MD、8mmフィルム。そして5つ揃えて上書き消去する」
美波は頷いた。「そうだね。でも今日はもう休もう。凛、疲れてるでしょ」
確かに凛は疲れていた。心も身体も。骨の髄まで。
「うん……少し休む……」
窓の外を見る。雨はまだ降り続いている。「ザーザー」という音。終わらない雨。




