第94話「8mmフィルムの準備」
午後1時。
大学の映像学科。資料室。
そこには古い映像機材が並んでいた。16mmプロジェクター、8mmプロジェクター、ベータカム。様々なレトロ機材。博物館のように。
「あった!」美波が8mmプロジェクターを見つけた。
古いが、まだ動きそう。金属製のボディ。重厚な作り。
「借りられる?」凛が聞いた。
「多分――」美波が管理人に確認しに行った。
数分後、戻ってきた。「OK。今日中に返却すれば」
二人はプロジェクターを運び出した。重い。10キロくらい。二人で持つ。
「重いね」凛が言った。
「でも運べる」美波が答えた。
車に積み込む。そして凛の部屋に戻った。
午後3時。セッティング開始。
プロジェクターをテーブルに設置する。壁に白い布を張る。スクリーン代わり。
そして8mmフィルムをプロジェクターにセットする。リールを取り付ける。フィルムを慎重に通す。
「準備完了」美波が言った。
「でも凛」彼女が真剣な顔で続けた。「本当に見る? 8mmフィルムは一番古い記録方法。化学的に固定された映像。もしかしたら一番強力かもしれない……」
凛はそれでも決意していた。
「見る。美咲が言ってた。解放してって。そのためには5つ揃えないと」
美波は頷いた。「分かった。でも何かあったらすぐ止める。約束して」
「約束する」
凛は心拍数を測った。
ドクン…ドクン…ドクン…
15秒で21回。1分で84回。
「84……変わってない……」
「よし」美波が言った。「じゃあ始めよう」
部屋の明かりを消す。暗闇。窓から差し込む灰色の光だけ。
美波がプロジェクターのスイッチを入れた。
カタカタカタカタ――
プロジェクターが回転を始めた。機械的な音。規則的な音。フィルムが回る音。
壁に光が投影される。白い光。そしてカウントダウン。
8…7…6…5…4…3…2…1…
映像が始まった。
防音室。グレーの壁。吸音材が貼られた壁。グランドピアノ。そしてピアノの前に座る少女。
美咲。
白いワンピースを着た14歳の少女。頭には電極が貼り付けられている。7つの電極。そこから伸びるケーブルが壁際の機械へと繋がっている。
画面の隅にタイムコードが表示された。
「1999.12.3 23:47」
美咲がじっとピアノを見つめている。動かない。怯えている。小さな身体が震えている。
そして声が聞こえた。正臣の声。スピーカーから。
「準備はいいかい、美咲」
美咲がか細い声で答えた。「……はい」
「怖がらなくていい。すぐに終わる」
「……お父さん」
「我慢しろ。これはお前のためなんだ」
凛は息を詰めて見つめた。
これがあの夜。25年前の12月3日。美咲が記録された夜。そして父・隆も記録された夜。
映像は続いた。
美咲がピアノを弾き始める。ドビュッシー。月の光。美しい旋律。
でもその音は――映像だから音は聞こえないはずなのに――凛には聞こえた。
頭の中に直接音が流れ込んでくる。ピアノの音。そして低周波のうなり。
73Hz。
ブーーーーーン……
凛の身体が震え始めた。心臓がリズムを変え始める。
ドクン…ドクン…ドクン…
速くなっていく。
「凛……」美波の声が遠くから聞こえる。
でも凛は映像から目が離せない。美咲の演奏。その指の動き。表情の変化。すべてが凛の脳に刻まれていく。
そして映像が切り替わった。
別の部屋。同じような防音室。でもピアノはない。
代わりに椅子に座った一人の男性。
隆。凛の父。
「お父さん……」凛が呟いた。
映像の中の隆がマイクに向かって話し始めた。無声映像だから声は聞こえない。
でも凛には聞こえた。
「僕は1974年、東京で生まれました……」
父の声。父の人生。父の告白。すべてが凛の心に流れ込んでくる。
そして最後の言葉。
「愛してる。香織。そして生まれてくる子供。凛と名付けたい」
凛はもう涙が止まらなかった。
父の愛。娘への愛。それが8mmフィルムに永遠に刻まれていた。
でもその代償は――父の個。父の人生。すべてを記録に捧げた。
映像が終わった。フィルムが最後まで回った。
カタカタカタカタ……
プロジェクターが止まる。部屋に静寂が戻った。
凛はぼんやりと白い壁を見つめていた。
「凛……」美波が凛の肩を揺さぶった。「心拍数測って」
凛はゆっくりと手首に指を当てた。
ドクン…ドクン…ドクン…
速い。とても速い。
15秒で22回。1分で88回。
「88……」凛が呟いた。「また上がった……」
美波の顔が真っ青になった。
「やばい……あとフロッピーを見たら――73を超えるかもしれない……」
凛はそれを理解していた。もう限界が近い。
でもあと1つ。フロッピーディスク。それを見れば5つ揃う。
そして上書き消去できる。元に戻れる。
そう信じて――凛は前に進むしかなかった。




