第90話「不完全な記録」
凛は涙を拭いた。手の甲で目元を拭う。
「真理子……」呟く。「不完全な状態で閉じ込められた……」
「生きているとも死んでいるとも言えない……」美波が繰り返した。「それって……」
二人は顔を見合わせた。
真理子は死んだのか。それとも生きているのか。記録の中に存在し続けているのか。
「心拍数、測ってみて」美波が言った。
凛は手首に指を当てた。
ドクン…ドクン…ドクン…
まだ速い。落ち着いていない。
15秒で20回。1分で80回。
「80……変わってない……」
「良かった」美波が安堵のため息をついた。「これ以上上がらなかった」
でも彼女の表情は晴れなかった。眉間に深い皺が刻まれている。
「凛、少し休もう。今日はもう十分だよ」
「ううん」凛が首を振った。「大丈夫。それより、次のこと考えよう」
美波はノートパソコンを開いた。フリマアプリを表示する。
「次は……MD」美波が画面を見ながら言った。「『美咲の日記』」
「美咲……」凛が呟いた。
marie_1985の出品リスト。そこには新しい出品が並んでいる。
「美咲の日記 - MD - 500円」
説明文:「1999年11月から12月の日記。14歳の少女の最後の記録」
凛はその文字を見つめた。14歳の少女の最後の記録。
「買う?」美波が聞いた。
凛は迷った。真理子のカセットテープであれだけ影響を受けた。心拍数が68から80に上がった。
美咲のMDを聞いたら――もっと上がるかもしれない。
でも5つ集めないと上書き消去できない。元に戻れない。
「買おう」凛が決めた。
「でも今日は見ない。明日にしよう。今日はもう疲れた」
美波は頷いた。「そうだね。無理しちゃダメ」
凛は購入ボタンを押した。「ピッ」という音。
「注文が確定しました」
発送予定日:本日到着予定日:12月8日(月)
あと2日。
「その前に」美波が言った。「逆位相音をもっと強化しないと。すべての周波数に対応できるように」
「できる?」
「時間はかかるけど……やってみる」美波が画面に向かった。「73Hzの倍音と約数、すべてをリストアップして、それぞれに対応する逆位相音を生成する」
「カタカタカタ」とキーボードを叩く音。美波が集中している。
凛は窓の外を見た。空は相変わらず灰色。雨が降りそうな空。
時計を見る。午後2時。
長い一日だった。でもまだ半分。
凛は立ち上がった。「コーヒー淹れるね」
「ありがとう」美波が答えた。画面から目を離さずに。
キッチンに向かう。お湯を沸かす。「ゴー」という音。コーヒー豆を挽く。「ガリガリ」という音。
日常の音。生きている音。
でも頭の中ではまだ真理子の悲鳴が響いている。「痛い! 痛い!」という叫び。
そして正臣の絶望的な声。「真理子! 待ってくれ!」
不完全な記録。生と死の間に閉じ込められた意識。
それが真理子の運命だった。
そして美咲も――同じ運命を辿ったのか。
いや、美咲は「完全」だった。フロッピーディスクの被験者リストに「完全」と書かれていた。
ということは――美咲は完全に記録された。
でもそれは本当に幸せなことなのか。
永遠になることは。個を失うことは。
コーヒーが淹れ上がった。香ばしい香り。生きている香り。
二つのカップに注ぐ。美波に渡す。
「ありがとう」
二人でコーヒーを飲む。温かい。苦い。でも美味しい。
味がする。ちゃんと味がする。
逆位相音のおかげ。美波のおかげ。
「美波」凛が言った。「本当にありがとう。あなたがいなかったら、私もう……」
「言わないで」美波が遮った。「私たち、友達でしょ。最後までやり遂げよう。一緒に」
凛は頷いた。涙が出そうになった。
でも今は泣かない。前に進まなければ。




