第89話「複雑な信号」
「どうして……」美波が呟いた。声が震えている。
「逆位相音、ちゃんと流してたのに……」
彼女はノートパソコンの画面を見た。録音された波形。カラフルな線が複雑に絡み合っている。
そして周波数解析。スペクトラム分析。
「あった……」美波が息を呑んだ。
「何?」凛が聞いた。
「73Hzだけじゃない……」美波が画面を指差した。「他の周波数もたくさん混ざってる……」
画面には無数のピークが表示されている。
「146Hz、219Hz、292Hz……すべて73の倍音」
美波がスクロールする。さらに下の周波数帯。
「37Hz、18Hz、9Hz……これは73の約数」
「そして――」美波の指が震えている。「それらが複雑に干渉し合ってる……まるでオーケストラのように……」
「逆位相音は73Hzしか打ち消せない……他の周波数は素通りしてる……」
凛は理解した。柳沢正臣の技術。それは単純な73Hzだけじゃない。
もっと複雑な、多層的な信号。音響工学の粋を集めた、精密な罠。
「どうすれば……」凛が聞いた。「すべての周波数を打ち消せる?」
美波はしばらく考えた。画面を見つめながら。計算している。可能性を探っている。
そして首を振った。
「時間がかかる……数日、いや1週間は……」
「そんなに……」凛が落胆した。
でもすぐに決意を固めた。目に力が戻る。
「なら、続き聞こう」
「え?」美波が驚いた。目を見開いた。
「でも危険だよ。逆位相音効いてないし」
「それでも」凛が言った。「聞かなきゃいけない。真理子が何を残したのか。最後に何を言ったのか。それを知りたい」
美波は凛の目を見た。決意に満ちた目。揺るがない目。
「分かった……」美波が頷いた。「でも何かあったらすぐ止める。約束して」
「約束する」
凛は再び再生ボタンを押した。
カチッ。
テープが再び動き始めた。「ウィーン」というモーター音。
真理子の悲鳴の続き。
「やめて! やめて! 私が! 私が消える! いや! いやあああっ!」
そして正臣の声。必死の声。
「真理子! 落ち着いて! もう少し! もう少しで完成する!」
「無理! 無理よ! 耐えられない! これ以上は――」
バタンという音。何かが倒れた音。重い音。人が倒れる音。
そして――静寂。
数秒間。何も聞こえない。
凛と美波は息を詰めて待った。心臓の音だけが聞こえる。
やがて――正臣の声。
低く震えた声。恐怖に満ちた声。
「真理子……真理子……答えて……お願いだから……」
沈黙。
そして機械音。
ピーーーーーー……
心拍計のフラットライン。死を告げる音。
「違う……」正臣の声が震えた。
「違う! まだ完成してない! 記録が不完全だ! 真理子! 待ってくれ! まだ、まだ終わってない!」
バタバタという足音。正臣が走っている。床を蹴る音。
そして扉が開く音。「ガチャッ」という金属音。
「誰か! 誰か来てくれ!」正臣の叫び声。廊下に響く。
でも真理子はもう答えない。
テープに沈黙が戻る。長い沈黙。数分間。何も聞こえない。
やがて――また正臣の声。
今度は落ち着いている。いや、諦めている。感情が抜け落ちたような声。科学者の声。
「1998年11月15日、午後11時47分。被験者001、柳沢真理子。記録失敗」
「原因――メディアの不足。VHS、カセット、8mmフィルムのみでは人間の意識を完全に記録できない」
「真理子の意識は不完全な状態で固定された。彼女は生きているとも死んでいるとも言えない状態だ。記録の中に閉じ込められた」
「でもいつか――完全な記録ができれば――彼女を復元できるかもしれない」
「そのために私は研究を続ける」
そして――テープが終わった。
カチャッ。自動停止。
部屋に静寂が戻った。重い静寂。
凛と美波はしばらく何も言えなかった。




