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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
プロローグ「記録された夜」
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第08話「最後の和音」

美咲は、最後の和音を弾いた。


Des-durの主和音。


その静謐な響きの中に、『とおりゃんせ』の最後の一節、「帰りはこわい」の不吉なメロディが、まるで毒のように混じり合っている。


不協和音。


だが、それは奇妙に美しく、恐ろしいほどに完成されていた。


音が消えた後も、機械たちは動きを止めなかった。録音ボタンの赤い光は、より一層強く、部屋を赤黒く染め上げていた。


「実験73号、意識転写を開始する」


父の声が、もはや外部の音としてではなく、頭の中から直接響いた。


正臣が、黒い箱の巨大なスイッチを押し込む。


ブゥゥゥゥン――


地鳴りのような低い唸り声が響き始め、床が、建物全体が振動する。


美咲の頭に装着されたヘッドギア状の電極から、冷たいジェルが首筋を伝った。氷点下の冷たさ。だが、次の瞬間、それは沸騰するような熱さに変わった。


摂氏マイナス10度から、プラス100度へ。


皮膚が、その急激な温度変化についていけない。表皮が破れ、真皮が露出し、血管が拡張する。首筋を、熱い何かが流れ落ちる。血か、それとも脳脊髄液か。


美咲の視界が、ぐにゃりと歪む。


部屋が引き伸ばされ、色がプリズムを通した光のように分離する。赤、緑、青。世界の全てがRGBに分解されていく。そして、それぞれの色が、違う速度で動き始めた。


赤は加速し、青は減速し、緑は逆行する。


時間そのものが、三つに分裂している。


音もまた、基本周波数と無数の倍音に分解され、それぞれが別々の記録装置へと吸い込まれていく。


父の声が、低い成分と高い成分に分かれ、別々のメディアに記録されていくのが「見えた」。低音成分はVHSへ、中音域はカセットテープへ、高音域はMDへ。そして、可聴域外の超低周波は、フロッピーディスクへ。


美咲の舌に、ありとあらゆる味が同時に押し寄せた。


甘味、塩味、酸味、苦味、旨味。


そして、これまで味わったことのない第六の味。それは「記録」の味だった。デジタルとアナログが混じり合った、0と1と磁気の、無機質で冒涜的な味。


まるで、鉄と砂糖と腐った果実とプラスチックを、すべて一度に口に入れたような。


触覚も狂い始める。


熱いと冷たいが同時に感じられる。硬いと柔らかいが重なり合う。そして、自分の皮膚の境界線が曖昧になっていく。どこまでが自分で、どこからが機械なのか。


ピアノの鍵盤が、彼女の指と融合していく。


象牙が、肉に溶け込む。いや、肉が象牙に変わっていく。冷たく、硬く、永遠に変わらない物質へ。


匂いは――全ての匂いが一つに混じり合い、そして、消えた。


完全な無臭。


だが、その無の中に、全てがあった。

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