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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
第四章「カセットテープの記録」
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第88話「ピアノと崩壊」

真理子の声の後、ピアノの音が流れてきた。


ショパン。ノクターン第2番変ホ長調。


美しい旋律。夜想曲。月の光のような優しい音色。


でもその音はどこか歪んでいた。まるで水の中で聞いているような。あるいは夢の中の音楽のような。現実と非現実の境界が曖昧になるような。


凛はその音に引き込まれていった。抗えない力で。


目を閉じる。


すると――見えた。


防音室。グレーの壁。吸音材が貼られた無機質な空間。グランドピアノ。黒い巨大な楽器。


そしてピアノの前に座る女性。


真理子。


40代。黒い髪。痩せた身体。病気のせいで頬がこけている。でも背筋は真っすぐ伸びている。ピアニストとしての誇りを保っている。


指は美しく動いている。鍵盤の上を蝶が舞うように。白鍵と黒鍵の間を滑らかに。


音楽が部屋を満たす。ショパンの旋律。悲しく美しい音楽。


でも真理子の表情は苦痛に歪んでいる。眉間に深い皺。目を固く閉じている。


演奏しながら泣いている。涙が頬を伝っている。でも指は止まらない。動き続けている。


「美咲……」真理子が呟く。演奏しながら。


「ごめんなさい……お母さん、もうすぐいなくなっちゃう……」


ピアノの音に真理子の嗚咽が混じる。「ヒック、ヒック」という泣き声。でも演奏は続く。


そしてその音の中に――低周波が混ざり始めた。


73Hz。


ブーーーーーン……


最初は微かに。でもどんどん大きくなっていく。部屋全体が共鳴し始める。壁が振動する。空気が震える。


凛の身体が震え始めた。制御できない震え。


心臓がリズムを変え始める。


ドクン…ドクン…ドクン…


速くなっていく。73Hzに引き寄せられるように。


「凛!」美波の声が遠くから聞こえる。「しっかりして!」


でも凛は真理子の演奏から目が離せない。いや、目を開けていないのに見えている。


これは視覚じゃない。もっと直接的な何か。脳に直接映像が送られている。


真理子の演奏がクライマックスに達した。ショパンの最高音。最も美しい瞬間。


そして突然――


音が途切れた。


ガシャンという音。何かが倒れる音。ピアノの椅子か。


そして悲鳴。


「あああああああっ!」


真理子の悲鳴。苦痛の叫び。人間が発する最も原始的な叫び。


「痛い! 痛い! 痛い! 頭が! 頭が割れる! やめて! やめて!」


凛は目を開けた。涙で視界がぼやけている。部屋が歪んで見える。


美波が凛の肩を掴んでいる。強く。「凛、大丈夫!?」


カセットテープはまだ流れている。真理子の悲鳴が続く。


そして正臣の声。焦った声。恐怖に満ちた声。


「真理子! 落ち着いて!」


「落ち着くなんて無理! 何かが! 何かが頭の中に入ってくる! 私じゃない何かが! 私を消そうとしてる! いやああああああっ!」


その瞬間――


凛の頭の中にも激痛が走った。


まるで針を刺されたような。いや、もっと深い痛み。脳の奥底から湧き上がる痛み。


「うっ!」凛が頭を抱える。両手で頭を押さえる。


「凛!」


美波がすぐに停止ボタンを押した。「カチッ」という音。


カセットデッキが止まる。テープの回転が止まる。


真理子の悲鳴が途切れる。


静寂。


でも凛の頭の中ではまだ痛みが残っていた。ズキズキと脈打つような痛み。73Hzのリズムで。


「大丈夫?」美波が心配そうに見る。


「うん……」凛が答えた。声が震えている。「でもすごい痛かった……今も少し……」


美波がすぐにコップに水を注いで凛に渡した。「飲んで」


凛は水を飲んだ。冷たい水が喉を通る。食道を下っていく。胃に到達する。


少し落ち着いた。痛みが和らいでいく。


「心拍数、測ってみて」美波が言った。


凛は手首に指を当てた。


ドクン…ドクン…ドクン…


速い。明らかに速い。さっきより明らかに。


15秒で20回。1分で80回。


「80……」凛が呟いた。「73じゃないけど、上がってる……」


美波の顔が青ざめた。血の気が引いていく。


「逆位相音、効いてない……」

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