第88話「ピアノと崩壊」
真理子の声の後、ピアノの音が流れてきた。
ショパン。ノクターン第2番変ホ長調。
美しい旋律。夜想曲。月の光のような優しい音色。
でもその音はどこか歪んでいた。まるで水の中で聞いているような。あるいは夢の中の音楽のような。現実と非現実の境界が曖昧になるような。
凛はその音に引き込まれていった。抗えない力で。
目を閉じる。
すると――見えた。
防音室。グレーの壁。吸音材が貼られた無機質な空間。グランドピアノ。黒い巨大な楽器。
そしてピアノの前に座る女性。
真理子。
40代。黒い髪。痩せた身体。病気のせいで頬がこけている。でも背筋は真っすぐ伸びている。ピアニストとしての誇りを保っている。
指は美しく動いている。鍵盤の上を蝶が舞うように。白鍵と黒鍵の間を滑らかに。
音楽が部屋を満たす。ショパンの旋律。悲しく美しい音楽。
でも真理子の表情は苦痛に歪んでいる。眉間に深い皺。目を固く閉じている。
演奏しながら泣いている。涙が頬を伝っている。でも指は止まらない。動き続けている。
「美咲……」真理子が呟く。演奏しながら。
「ごめんなさい……お母さん、もうすぐいなくなっちゃう……」
ピアノの音に真理子の嗚咽が混じる。「ヒック、ヒック」という泣き声。でも演奏は続く。
そしてその音の中に――低周波が混ざり始めた。
73Hz。
ブーーーーーン……
最初は微かに。でもどんどん大きくなっていく。部屋全体が共鳴し始める。壁が振動する。空気が震える。
凛の身体が震え始めた。制御できない震え。
心臓がリズムを変え始める。
ドクン…ドクン…ドクン…
速くなっていく。73Hzに引き寄せられるように。
「凛!」美波の声が遠くから聞こえる。「しっかりして!」
でも凛は真理子の演奏から目が離せない。いや、目を開けていないのに見えている。
これは視覚じゃない。もっと直接的な何か。脳に直接映像が送られている。
真理子の演奏がクライマックスに達した。ショパンの最高音。最も美しい瞬間。
そして突然――
音が途切れた。
ガシャンという音。何かが倒れる音。ピアノの椅子か。
そして悲鳴。
「あああああああっ!」
真理子の悲鳴。苦痛の叫び。人間が発する最も原始的な叫び。
「痛い! 痛い! 痛い! 頭が! 頭が割れる! やめて! やめて!」
凛は目を開けた。涙で視界がぼやけている。部屋が歪んで見える。
美波が凛の肩を掴んでいる。強く。「凛、大丈夫!?」
カセットテープはまだ流れている。真理子の悲鳴が続く。
そして正臣の声。焦った声。恐怖に満ちた声。
「真理子! 落ち着いて!」
「落ち着くなんて無理! 何かが! 何かが頭の中に入ってくる! 私じゃない何かが! 私を消そうとしてる! いやああああああっ!」
その瞬間――
凛の頭の中にも激痛が走った。
まるで針を刺されたような。いや、もっと深い痛み。脳の奥底から湧き上がる痛み。
「うっ!」凛が頭を抱える。両手で頭を押さえる。
「凛!」
美波がすぐに停止ボタンを押した。「カチッ」という音。
カセットデッキが止まる。テープの回転が止まる。
真理子の悲鳴が途切れる。
静寂。
でも凛の頭の中ではまだ痛みが残っていた。ズキズキと脈打つような痛み。73Hzのリズムで。
「大丈夫?」美波が心配そうに見る。
「うん……」凛が答えた。声が震えている。「でもすごい痛かった……今も少し……」
美波がすぐにコップに水を注いで凛に渡した。「飲んで」
凛は水を飲んだ。冷たい水が喉を通る。食道を下っていく。胃に到達する。
少し落ち着いた。痛みが和らいでいく。
「心拍数、測ってみて」美波が言った。
凛は手首に指を当てた。
ドクン…ドクン…ドクン…
速い。明らかに速い。さっきより明らかに。
15秒で20回。1分で80回。
「80……」凛が呟いた。「73じゃないけど、上がってる……」
美波の顔が青ざめた。血の気が引いていく。
「逆位相音、効いてない……」




